litterae_vol.68
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          するまでのいきさつをお聞かせください。市生まれです。高校卒業まで旭川市に住んでいました。子どもの頃はわんぱく小僧で、勉強よりも外で遊ぶことが大好きでした。ボーイスカウトに入隊してキャンプやまず、ご出身と北大に入学1954年、北海道旭川アウトドア活動をし、中学では、夏はソフトテニス、冬はスキー部と掛け持ちしていました。大学受験に際して、兄が札幌医大に進学していたこともあり、自分も医師の道を選びたい、北海道のために何かできないかという気持ちがあり、医学部を目指したのですが残念ながら縁がありませんでした。その後、技術者として北海道に残って何かをしようと考え、工学部の電気工学科に進みました。末っ子なので甘やかされ、私はそうなご家族だったのですか。で、叔父を頼って旭川市に渡り、自分で木材業を営んでいました。母親は教育ママだったので、小学校の時から習字、ピアノ、そろばんなどの習い事や塾に通っていました。男3兄弟の真ん中で、兄は医者になるために猛勉強、弟はの間を上手くすり抜けたという感私と同い年ですね。どのよ父は兵庫県姫路市の出身なった訳ですが、後日、就職担当じでしょうかね。いろいろな選択肢があった中で、北海道電力に就職しようと決めたのはなぜですか。大学入学後も、北海道のためにできることをしたいという気持ちは変わりませんでした。電気工学に関連する会社はあるのですが、北海道で働くとなると限られてきますので、北海道電力への就職を第一希望としました。当時の電気工学科は63名いました。教授推薦枠というのがあり、その枠で北電に推薦してもらえる学部生は1名で、結果的に私がその1名との先生にその理由を伺うと「お前は北電向きだからだ」と言われました。それぞれの企業のカラーというものがあり、そこに合った学生を先生が振り分けていたのかもしれないですね。地元に貢献したいという思いを強く感じます。それが今に生きているのですね。これまでの人生で影響を受けた方はいらっしゃいますか。川淳先生です。卒論も指導していただきました。長谷川先生のほか、先生が所属する研究室の方々にも、北電として様々な研究や評価にご協力いただいており、入社後もお付き合いをさせていただいています。私は入社直後、1年半は送電線の建設や保守を行う現場の仕事をしていました。70メートルの鉄塔に登って作業をすることもありました。長谷川先生にはその当時も、いろいろと悩み相談に乗っていただきました。また、長谷川先生は現在、北電の社外監査役として、学生時代の恩師である長谷「北海道のために」という思いを胸に寳金真弓寳金真弓寳金真弓寳金真弓Litterae Populi Vol.68  16大学入学後も、北海道のためにできることをしたいという気持ちは変わりませんでした。―真弓

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