litterae_vol.68
26/32

日本の大学院の始まりは、一八八六年の帝国大学(後の東京帝国大学)の設置である。最初の大学院生は十九名、法学八名、文学四名、理学三名、工学四名であった。同じ年、大学ではないため大学院を置くことができない札幌農学校では、本科卒業後も籍を置いて研究を続ける「研究生」制度が正式に始まった。一八八六年十二月制定の「札幌農学校官制」では研究生について、「卒業生中学力優等才能抜群」の者に学資を支給し、一年以上三年以下の在籍期間には「学術ニ関スル諸項ヲ調査」し、場合によっては授業を補助すると定めた。札幌農学校が北海道庁から文部省へと所管替えとなった後、一八九六年九月施行の「札幌農学校校則」では、研究生を「本科卒業生ニシテ既修ノ一学科ヲ更ニ攻究セント欲スル者」が学費を自弁して、二年以内の在籍期間に「攻究ノ業ニ従事スル」と定めた。一八九五年七月に札幌農学校本科を卒業した松村松年(一八七二〜一九六〇年)は、「もっと昆虫の研究を続けたかったので、研究生として学校に残ることを志願した」と回想している。研究生として月十二円五十銭の学資金の支給を受け、農学校の農業技術を指導するコース「農芸伝習科」の昆虫学の講義も任された。一年後、松村は札幌農学校助教授となりなった。当時、日露戦争の結果、日本は南三十円の月給を得ることになった。一九〇六年七月に本科を卒業した宮城鐵夫(一八七七〜一九三四年)も研究生と樺太(サハリン島南部)を領有し、札幌農学校の宮部金吾教授(植物病理学)が樺太植物の調査を行なうことになった。宮城はその調査助手として宮部の樺太調査に随行した。「宮城農学士は極めて頑健で、艀の岸に着かぬ内に海岸に飛び上がり、脱■の如く叢林内に邁進して奮闘し」、海藻の採集に当たった。宮城はその後、沖縄に帰り、教育界・農業界で重きを成した。こうした例から、札幌農学校研究生は、学校や教授に都合良く使われていた側面が多分に見られる。大学院生よりは研究スタッフに近い。しかし、研究生にとっては貴重な経験でもあった。一九〇七年、札幌農学校は東北帝国大学農科大学ヘと改組して帝国大学に昇格し、翌一九〇八年七月には大学院に関する規程を定めた。東北帝国大学農科大学の最初の大学院生は、一九一三年に進学した坂村徹(植物学)、中島広吉(林学)、市川厚一(畜産学)、逸見文雄(農芸化学)の四名である。坂村徹(一八八八〜一九八〇年)は大学院進学前から、染色体の形態学的な研究を行っていた。農科大学三年生の一九一二年十一月、恵迪寮が開催した言論集会「開識社」で「遺伝物質の運搬者」と題した講演を行った。当時、予科一年級に在学して札幌農学校の研究生制度研究生生活大学院における研究Litterae Populi Vol.68  26SCENE-16321654限る、人類改良論の如きは遺伝現象を基とす。吾人々類は一般の遺伝に関する研究を富なる演説を細密詳細に述ぶること正に一時間と十分」(『辛夷』第2号、1912年12月)1886-1976「大学院の設置」

元のページ  ../index.html#26

このブックを見る