litterae_vol.69
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北海道に大学設置を、という要望は札幌農学校時代からあった。一八九八年に農学校生が刊行した学校案内誌『札幌農学校』では「札幌帝国大学の必要を論ず」との一章を設けている。佐藤昌介校長は、一八九九年六月二七日の大学設置を目指す有志者の会合で、「本道に大学の設置を望まば、早く今日より着手せざるべからず。……本道拓殖上熱望して止ざる人材を出すは、十五年乃至二十年の後にあり」と述べ、早期の大学設置を主張した。札幌を中心に各方面からも大学設置を求める声が上がった。政府・文部省は、帝国大学は複数の分科大学(学部)をもって構成すると位置付けていたため、農学のみの札幌農学校は単独では大学に昇格することは難しかった。一方で、高等教育を拡充するために東京・京都に次ぐ帝国大学を要望する声も社会的に強くなり、九州・東北に新たな帝国大学を増設する議論が進んだ。この議論に札幌農学校の大学昇格問題が絡んで、札幌農学校を改組した農科大学と、仙台に新設する理科大学の合わせ技により、一九〇七年に東北帝国大学を設立した。牧野伸顕文部大臣は東北帝国大学農科大学開校式の式辞で「今回当農科大学の成立は実に他日独立の北海大学を成立せしむべき基盤なれば、諸君は深く此の意を諒して本大学の美果を収むる様大に努力せられん事を切望す」と述べている。関係者の間では、農科大学の将来像に独立あった。した大学開設を織り込んでいた。東北帝国大学は、札幌の農科大学に続き、一九一一年に理科大学、一九一五年に医科大学をいずれも仙台に開学した。東北帝国大学医科大学の設置が決まると、一九一四年一一月二七日付けの『北海タイムス』は、「仙台に医科大学開設せらるれば、東北帝国大学は既設の理科と併せて始めて大学らしき大学となり、強いて其歴史を異にし、其校風を異にする農科大学を留保し置くの必要を見ざるに至るべし」と、仙台に複数の分科大学が■い、札幌の農科大学が独立する時機が到来したと主張した。そして、農科大学のほかに、もう一つ新設する分科大学をどの分野とするかが課題となった。同紙は、まず「理工科は、教授共通の点に於て、器具器械費節約の点に於て、又現在の農科に既に理工科の基礎たるべき学科目あるに於て諸種便宜ある」と指摘した。農科大学には植物学、動物学、昆虫学、園芸学、農芸化学など、理科・工科と関係性があり融通の利く講座があった。また、中学校卒業者が土木技術を専門に学ぶコース「土木工学科」もあり、その設備・教授陣を工科に振り替えることも可能で一方、「医科は、将来附属病院たるべき区立病院の案外完備しあるを多とす」と見た。十年以上前から札幌区立病院の改築計画があり、大学の附属病院と同等の設備を整えて、将来、医科大学が開学した暁には設備や医療スタッフを札幌区から大学へ引き継ぐという構想があった。医科大北海道に大学設置を求める声大学独立への気運医科?理工科?法文科?123654Litterae Populi Vol.69  26SCENE-17制度を取って創立せられ五帝国大学の一に列し、を立つるに至れり」(1919年3月1日北海道帝国大学創立第1回祝典での佐藤昌介総長式辞)「北海道帝国大学の開学」1898-1924

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