litterae_vol.70
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決められたのですか。ンジンの研究開発を進めていました。当時は大型のエンジンも手掛けていましたので、選択肢のひとつとして考えていたところに先輩からの強い勧めがあったことが入社のきっかけでした。入社後に配属希望の面接があ             り、エンジンの研究開発を希望したのですが筑波のトラクター工場に配属され、はじめは少しがっかりしました。クボタは機械系の会社でエ1988年からアメリカのジョージア州で勤務されていますね。私も1986年から2年半程度、カリフォルニア州で留学をしていました。当時の日本経済は円高を背景に上り坂の時期であり、多くの日本人が世界で活躍していた時代でした。配属された当時の筑波工場は、生産量の半分が輸出されるという社内では国際的な工場でした。その頃の急速な円高もあり、海外生産拠点の展開を工場長に進言したのです。一方、その前に全米を2ヵ月間回る長期出張の機会があり、アメリカの市場で通用するトラクターや農業機械を開発すべきだという使命を強制的に植え付けられましたね。若手の社員が生意気なのですが「やる」と手を挙げ、反対されず「お前、行け」と。た日本企業は大半が東海岸か西海岸でした。南部のジョージア州での工場立地では苦労されたのではないでしょうか。りだけでしたので、計画、建設、社員の採用、販売促進、新製品開発などをひとりで実行したことは当時アメリカで活動してい工場担当の駐在者は私ひとかったのですが、一気に15%までものすごくしんどかったですが、非常に自由に仕事ができました。学生時代のしごきが活かされました(笑)。理由は、トラクターなどの市場規模が一番大きかったことでした。さらに顧客との距離も近かったですね。あとは、日本とよく似た森が多くきれいな所でもありました。現在では工場が8つに増え、約3千人の社員がいます。7年後に帰国されますが、日本の環境に適応するのは大変ではなかったですか。帰国後の配属では、グローバル化に関わる仕事をしたかったのですが、結局、同じ筑波工場に戻りました。そして、さらに大型のトラクターを開発してアメリカで販売するための仕事を手がけました。アメリカでの大型トラクターのシェアは2〜3%しかな上昇させることに成功しました。1988年の駐在当時、クボタはアメリカでは無名の企業でした。それが1995年頃になると認知度が上がりました。ジョージア州を選択した大きな2000年を超えると、「持っている」という人が増え、感動しました。ボーイズ・ビー・アンビシャスの実践です。現在では世界各地に工場があり、7割以上の売り上げが海外ですが、そのうちの半分をまだ国内から輸出しているので、まだまだ海外拠点をつくらなければならない途上にあります。地社長として赴任されましたね。しいというイメージを持たれ、現地では労働組合が結成される状況でした。その後、タイでは大洪水2010年にはタイの現当初は生産性や合理化に厳木股寳金木股寳金木股寳金木股寳金木股17  Litterae Populi Vol.70学生時代の研究が今日まで続いているのだと感じました。―寳金

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