なっていた。札幌区会では、医科大学新設とった。他の帝国大学はいずれも医科大学東北帝国大学農科大学にもう一つ分科大学を新設して、札幌に二分科大学からなる帝国大学を創設しようとする「大学独立問題」は、一九一六年ころには医科大学を創設する方針に議論の集約がなされていった。当時、札幌区立病院(現在の札幌市中央区北一条西八〜九丁目)は、施設の老朽化、狭隘化に加え、伝染病流行に対応するための設備の更新など、建物新築が課題との議論を踏まえ、新たに建設する区立病院は将来的にその附属医院に改組することを念頭に置くべき、との議論が上がった。福岡の九州帝国大学や仙台の東北帝国大学は、いずれも地域の病院・医学校の組織・建物を大学に転換する形で医科大学新設を実現していた。札幌区立病院の活用案は、地域から医科大学新設による大学独立を強力に後押しする動きであった。当初は理工科新設に重きを置いていた佐藤昌介東北帝国大学農科大学学長は、こうした地域の動向を踏まえ、北海道における医学士養成の必要などを理由として、文部省へ医科大学創設を要求していく方針をを有しており、帝国大学の体裁として医科大学設置は必須との理屈付けもしている。佐藤学長は長年、札幌農学校を総合大学へと拡充していくことを使命と考えていた。まずは東北帝国大学から独立して、農・医二分科大学からなる北海道帝国大学を創設し、順次、理工科・法文科などの分科大学を増設して、総合大学化するビジョンを描いたのである。佐藤学長は、俵孫一北海道庁長官、阿部宇之八札幌区長と連携し、文部省との交渉を精力的に行なった。当時、大隈重信内閣の高田早苗文部大臣は、佐藤学長が札幌農学校入学前の東京英語学校で同窓の旧友であった。高田文相は、医科大学新設による北海道帝国大学の独立に賛意を示した。一九一六年九月、国庫に負担を与えないことを条件に、医科大学創設費一四六万円と八ヶ年継続支出を承認した。予算案は一九一七年七月の第三十九回帝国議会で可決成立した。創設費一四六万円を、北海道庁から一〇万円、札幌区から一〇〇万円、財界からの寄附三〇万円余りで充当するという予算案である。当時、『北海タイムス』に名称を「札幌帝国大学」とするべきだとする読者投稿がなされたほど、札幌区の果たした役割は大きい。札幌区立病院を附属医院へ改組する案は結局実現しなかったものの、札幌をはじめとする地域の支援なくして、医科大学新設、大学独立はなかった。一九一八年四月一日、北海道帝国大学が開学し、大学独立が実現した。間もなく、「分科大学」は「学部」と名称が改まり、一九一九年四月一日に北海道帝国大学は農学部、医学部を置くこととなった。一九一九年に予科へ医学部進学希望者が入学し、三年後の一九二二年四月に医学部第一期生六十七名を迎えた。これに先立ち、一九二一年十一月に医学部附属医院が診療を開始した。この附属医院の開業の前、一九二〇年九月には看護法講習科を設置して看護婦の養医科大学新設運動地域の強力な支援北海道帝国大学医学部の成立Litterae Populi Vol.70 2632154SCENE-18の北端にして、人煙稀疎の地域なりしも、一朝医院のこゝに建つや、忽ちに待する所大なるを窺ふべく……」(『北海道帝国大学沿革史』)1914-1926「医学部の設置」
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