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6789 成を開始した。看護法講習科は現在の医学部保健学科の前身組織に当たる。一九二一年の医学部開学時の教授陣は、有馬英二(内科学)、秦勉造(外科学)、山崎春雄(解剖学)、宮崎彪之助(生理学)、太黒薫(医化学)、今裕(病理学)である。札幌区立病院長から転出した秦勉造が初代医学部長に就任した。初代附属医院長には有馬英二が就いた。秦の四十四歳を最年長とし、三十歳の太黒など、清新な顔ぶれであった。医学部新設は北大にさまざまな変化をもたらした。それまでキャンパスの中心は、正門から農学部建物に至る北八条付近、北は恵迪寮があった北十一条付近までであった。医学部建物は現在の北十三条通りを挟んで南側に医学部基礎、北側に附属医院が建ち並び、キャンパスは大きく北へ広がった。附 9月- 22日、閣議が医科大学創設経費予算案を承認属医院には多くの外来患者が訪れ、人の往来が増えた北十三条門の外は街の形成が進んだ。さらに医学部に赴任した教授陣が北大に異風を吹き込んだ。新進気鋭の医学部教授陣は、直近に洋行経験があり、一九一〇年代の東京で新興文化の空気を存分に吸っていた。ほとんどが札幌農学校・東北帝国大学農科大学出身者であり、少なからず農学校以来の遺風を身に纏っていた農学部教授陣とは対照的であった。例えば、山崎春雄や、一九二四年に赴任した大野精七(産婦人科学)は、登山や山スキーを趣味とし、山岳部やスキー部の活動、山小屋の建設、関連著述など、北海道の登山文化に大きく寄与する。そして、北海道帝国大学は、早くも一九一九年に三つ目の学部、工学部の設置が決まった。北海道帝国大学総長に就任した佐藤昌介の思惑通り、総合大学への道を進んでいく。医学部新設がもたらしたもの27  Litterae Populi Vol.70 1.今裕教授(1926年ころ) 2.山崎春雄教授(1926年ころ) 3.秦勉造教授の臨床講義(1926年ころ) 4.医学部基礎建物と校庭(1920年代後半) 5.太黒薫教授(1926年ころ) 6.手稲山のパラダイスヒュッテ(1932年ころ) 7.医学部基礎建物遠望(1923年ころ) 8.階段教室における看護法講習科の講義(1934年ころ) 9.医学部附属医院建物遠望(1926年ころ)10.阿部宇之八札幌区長(1913年ころ)Hokkaido University Archives北海道大学に関する歴史的な資料を収集・整理・保存して利用に供するとともに、北海道大学史に関する調査・研究を行っている。1914年 11月 -『北海タイムス』紙上で、札幌区立病院改築が 1916年 8月-佐藤昌介学長、俵孫一北海道庁長官、 大学独立と関わり話題となる 阿部宇之八が上京、文部省と交渉1917年7月 -帝国議会が医科大学設立予算を承認1918年4月-1日、北海道帝国大学設置1919年4月-1日、北海道帝国大学農学部、医学部設置9月-予科に医学部進学希望者が入学1920年6月-医学部本館建物落成9月-看護法講習科設置1921年4月-23日、医学部附属医院設置5月-秦勉造が医学部長に就任9月-医学部附属医院本館建物落成    10月-有馬英二が医学部附属医院長就任    11月-医学部附属医院開院1922年4月-医学部第1期生67名入学1926年3月-医学部第1回卒業式10Hokkaido University1914-1926大学文書館だいがくぶんしょかん「此の大学医院の近傍たる元来札幌市して繁栄の一市街を現出す。世人の期HISTORY

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