litterae_vol.71
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多方面でお忙しいと思います。のですが、仕事の中での割合としては、理事長としては70%、それから日本ハムファイターズの選手育成が20%、残りはプロ野球の解説者といった感じです。と伺いましたが、野球との出会いについて教えてください。学園の理事長のみならず、すべてを全力でやっているご出身は福岡県の筑紫野市野球をしていた兄の影響で、小学校2年生から始めました。毎日のように野球をしていて、プロの世界に入ってからもそうですが、休日にどこかへ出かけるといった経験は少なかったですね(笑)。高校はスポーツの強豪校として有名な東福岡高校でしたね。甲子園には、2年生の春と夏、3 年生の夏と、3回出場しました。当時、監督に「将来は何になりたいのか」と聞かれて、「プロ野かったですけど、頑張れたのはそ球選手」と答えると、そのための目標を設定してくれました。辛の目標に向かって導いてくれたおかげです。本ハムファイターズに入団して、プロ野球選手としての道に進まれました。レギュラー定着まで6年余りの時を経ていて意外でした。その間、別の道を考えることはありませんでしたか。役期間は7年程度で、僕は7年目1999年のドラフトで日プロ野球選手の平均的な現でレギュラーになったので結構ギリギリでした。下積みは長かったと思います。ただ、チャンスはあると信じていました。特に打つ方に関しては。あとは守る方をどうにかすればと考えていました。レギュラーになってからは、ファイターズが特に強さを実感する時期でしたね。2006年にレギュラーになり、その年に初めて優勝。それから10年ちょっとは本当に黄金時代でした。5回のリーグ優勝と2回の日本一を全て経験しているのは僕だけなんです。プロ野球の世界でレギュラーの座を維持するための練習方法やメンタル面について、工夫されたことをお聞かせください。野球は基本的にいたちごっこです。相手の先を行かないと負けてしまいます。僕は、未来予測をして、大胆に行動することを意識していましたね。だからこそ、結果が出ている時に、思い切って変えてみるということを実践していました。特に試合中は未来予測の塊です。打席に立って、直球が来るのか、変化球が来るのかを割り切れる人と割り切れない人がいます。その点、僕は得意だったかもしれません。リーグに挑戦したのですか。当時は様々な選択肢があり、人生の分かれ道だったと思いますが。にチャレンジしていたいんですよどのような理由でメジャー自分の性格のせいか、常野球選手という夢の実現、練習と努力の日々新たな挑戦、メジャーリーガーを目指す道を選択寳金田中寳金田中寳金田中寳金田中寳金田中寳金田中寳金田中Litterae Populi Vol.71  16                未来予測をして、大胆に行動することを意識していました。常にチャレンジしていたいんです。―田中

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