litterae_vol.71
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あって・・。ね。そして、ちょっと飽きっぽいところもあるんです(笑)。レギュラーとして続けていけるという感覚はあったんですが、それだけでは何か物足りないと感じることもその一方で、将来や生活を考えると、やっぱりファイターズに残るべきかとも思いました。かなり悩みましたね。それでも、アメリカに行きたいという思いが勝って、マイナーリーグでの契約を決めました。貯金を切り崩す生活でしたが、アメリカで挑戦したいという気持ちが強かったんだと思います。しょうか。乗っていけるのかなとも思います。メジャーリーグに挑戦して得たものも多かったのではないで現実は辛いことの方が圧倒的に多かったです。人生には波があります。右肩上がりの人生を歩んでいる時に、逆に波の下に自ら飛び込むことで、実はその波にそういう意味でも、メジャーへの挑戦という大きな決断は、やっぱり良かったと思いますね。その点はとても重要だと思います。北大で言えば、クラーク先生の「Boys, be ambitious」は、単なる口上ではなかったと思います。クラーク先生の人生そのものだったからこそ、人々は共感して、ついてきたんだと思います。学園の教育理念や3つの児童像「Challenge(挑)、Collaboration( 戦協働          )、Contribution(貢献)」 についても、理事長のアメリカでの経験が大きな影響を与えたのではないかと思います。アメリカから日本に戻る時には、ファイターズに戻りたいという気持ちが強かったのでしょうか。北海道への思いも影響したのでしょうか。いつかは北海道に戻ってくるつもりでした。アメリカで引退を考えていましたが、体も元気でしたし、またファイターズでプレーできる機会が得られたので、戻るタイミングは良かったです。僕は球団が北海道に移転してからレギュラーになったので、生まれは福岡ですけど、北海道で育った印象が強いです。アメリカに行く時も、温かい声援をいただきました。移転当初はチームが負けることも多くて、人気もあまりありませんでしたが、強くなるにつれてどんどん人気球団になっていきましたね。みんなで築き上げた一体感は今も心に残っています。なったら園長として子ども達に囲問は、プロ野球選手の第二の人生についてです。様々なパターンがあると思いますが、教育分野への転身という選択肢はあまり耳にしたことがありません。いませんでした。60歳ぐらいにまれる生活を思い描いていて、誰にも相談せず、ほぼ一人で計画を立てました。最初は幼稚園や保育園を設立しようとしましたがうまく進まなくて、その後、学校法人を取得できたので、小学校を開設しようとしました。だけど、どうやって申請今日、一番伺いたかった質教育をビジネスとは考えて北海道への思い、セカンドキャリアの決断寳金田中寳金寳金田中寳金田中17  Litterae Populi Vol.71「Boys, be ambitious」は、クラーク先生の人生そのものだったと思います。理事長の挑戦も学園の理念を体現しているものだと思います。―寳金

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