あった。戦前の教育制度は、女性が大学に進あった。一九一三年九月、三名の女性が東北帝国大学理科大学に入学した。初の女性の大学生である。そして、一九一八年九月、四人目の女性として加藤セチ(一八九三〜一九八九年)が北海道帝国大学農科大学(後に農学部と改称)に入学する。戦前、女性が大学に進学するのは至難で学することを想定していなかったからである。当時、最も一般的な大学への進学経路は、尋常小学校(六年間)→中学校(五年間)→高等学校または大学予科(三年間)→大学(三年間)であった。しかし、中学校に進学できるのは男子のみであり、この時点で女性は大学へのルートから除外された。男子の中学校に対応する、女子の進学先は高等女学校(四年間または五年間)である。高等女学校卒業後は、より専門的な分野を学ぶ専門学校(三年間)や、中等学校女性教員養成のための女子高等師範学校(四年間)などに進学することができた。学問を志す女性が得られる最終の学歴は、制度の上では専門学校、女子高等師範学校であった。また、一九一九年四月の大学令施行までは、日本の大学は東京・京都・東北・九州・北海道の五つの帝国大学のみであった。例えば「早稲田大学」も制度上は「専門学校」であり、大学令施行後に「大学」となる。「日本女子大学」、「東京女子大学」も戦前は「専門学校」であり、「大学」になるのは戦後ででは、加藤セチはどういう経路で北大に去った」と回想している。ころしも一九一八入学したのか。加藤は、出身地山形県の鶴岡高等女学校に進学したが、家庭の事情で三年生のときに中退し、教師となるため山形女子師範学校に入学し直した。一九一一年に卒業した後、故郷にほど近い小学校で教鞭をとった。一九一四年には上京して東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)に進学し、一九一八年卒業、札幌の北星高等女学校の教員となった。加藤は、東京女高師を卒業して「一角のインテリになったつもりで教壇に立ったのであるが、その途端に自信が根底から崩れ年七月、母校東京女高師の生徒が修学旅行に訪れた際、加藤が引率をして北大を案内し、佐藤昌介総長に面会した。佐藤は、若いころから敬虔なメソジスト派のクリスチャンであり、アメリカ留学の経験も長く、北星高等女学校顧問や東京女子大学理事を務めるなど、女性の教育機会の拡大の必要を強く認識していた。一九一五年六月、北海道連合教育会では「将来は高等女学校の名称を廃して之に代ふるに女子中学校の名を以てして尚更により高等なる教育機関を設くるか或は現在の専門学校又は大学に於て女子を教育し得る設備を為すことの急務なるを覚ゆ」と述べている。東京女高師生徒に対しても佐藤は「この学校は決して女子に門戸を鎖すものではない」と話をした。加藤はこれを聞き、「もう一度勉強のやり直しをしようと決心した」という。加藤は一九一八年八月、北海道帝国大学農科大学に出願した。佐藤総長以外にも、後に女子経済専門学校(現在の新渡戸文化学女性が大学に入学するということ加藤セチの大学までの経路女性入学に対する北大の姿勢Litterae Populi Vol.71 26321654SCENE-19ちしかも生々と躍動して止むことのない姿である事を感得し、又教授の方達はられるかのように見うけられた」(加藤セチ「北大最初の女子学生としての感激」)「女性の北大入学、加藤セチ」1918-45
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