園)を設立する森本厚吉、加藤と同じ庄内出身の星野勇三など、加藤の入学に理解を示す教員は少なくなかった。一方で反対意見も強かった。森本が取材を受けた新聞記事によれば、大学への女性入学の可否について日本では定まった見解がないこと、農業実習の課し方、服制に定めた制服をどうするかなどが問題になったようである。この間、加藤は佐藤総長に直談判をし、入学を訴えている。農科大学教授会は最終的に、加藤を正規の学生としてではなく、正規の学生と同じ講義・実習をすべて受講でき、教員の指導も受けられる「全科■科生」(全科目履修生)として入学を許可する判断をした。加藤セチは、一九一八年九月、北海道帝国大学農科大学に全科選科入学を果たした。英語などの外国語が頻出する講義に困惑し、あったやうでありましたのに、本人は一向平ノートの整理と語学の勉強に追われる困苦と同時に、講義に異常な感動を受け毎日が楽しくてならなかったという。一九二六年十月、佐藤昌介は宮城県第二高等女学校での講演で北大に入学した加藤について言及している。「男子学生の方もあまり歓迎せず多少いぢめるやうな振舞も気で勉強をつゞけ遂には男子からノートを借りられるといふわけで、三年間には男子を凌駕して■科生の首席となって卒業しました。」加藤は全科選科を修了して農学部で副手を務めた後、東京の理化学研究所に入所した。以降、女性科学者のパイオニアとして研究を続けていく。そして加藤に続き一九四五年までに、北大の農学部と理学部に二十四名の女性が入学した。戦後の一九四六年からは、国の法令により大学への女性の進学が全般的に可能となる。大学に学ぶことの感動 798 1920年4月-本間ヤスが農学部に全科選科入学、■村みちよが 1921年3月-加藤セチが農学部農学第一部の全科選科修了27 Litterae Populi Vol.71 1.女性入学に積極的であった佐藤昌介総長(1920年) 2.加藤セチの修了証書下付願(1921年3月30日) 3.加藤セチ(1930年代) 4.植物学教室の風景、加藤セチに続き全科■科入学 5.加藤セチの入学を後押しした森本厚吉教授(1920年) 6.加藤セチが星野勇三に宛てた年賀状(1923年) 7.理学部数学科の女性たち、左から桂田芳枝、上中雪、 8.理化学研究所を訪れた北大生との記念撮影、前列中央が■村みちよ、右に加藤セチ(1936年) 9.加藤セチが北大に提出した修了論文「りんご種子10.加藤セチを指導した星野勇三教授(1920年)Hokkaido Universityをした本間ヤスが左端に(1926年ころ)大杉冨美子、今井昌子、渡邊雅(1941年)発芽に対する乾燥の影響」(1921年)1918年 7月-佐藤昌介総長が東京女高師生徒に北大入学を奨める8月-加藤セチが農科大学に出願9月-18日、農科大学教授会が加藤セチの全科選科入学 許可を決定 農学部副手となる(〜1922年3月)5月-加藤セチが農学部副手となる(〜12月)1922年9月-加藤セチが理化学研究所に入所1930年4月-開学した理学部に吉村フジが正規の学部学生とし 1933年4月-理学部に大森順、錦織美喜が入学1935年4月-理学部に結城玉江が入学1936年4月-理学部に横田ゆりえ、添谷晃子が入学1937年4月-理学部に上中雪、小林よしが入学1938年4月-理学部に中山久子が入学1940年4月-理学部に桂田芳枝が入学1941年4月-理学部に大杉冨美子、渡邊雅、■口薫、米満信、 1942年4月-理学部に今井昌子が入学 10月 理学部に井上タミ、藤原隆代が入学1943年 10月-理学部に池田百合子が、農学部に正規の学部学生 1944年 10月-理学部に前田喜美子が入学1945年 10月-理学部に大久保多津、榎本シヅ、及川郁子が入学 て入学 金三純が入学 として山西貞が入学Hokkaido University Archives北海道大学に関する歴史的な資料を収集・整理・保存して利用に供するとともに、北海道大学史に関する調査・研究を行っている。1918-4510大学文書館だいがくぶんしょかん「学問とはこのように三次元の厚みをもその専門の学問の中に生命をかけて居HISTORY
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