なんですよね。出身も北海道で、まさに同じ時代を生きています。ご出身は池田町ですよね。が池田町の町長選に当選し、私が2歳か3歳の時に池田町に移りました。負けるだろうって言われた選挙で勝ったんです。そのため、私は物心ついた時から町長の息子として注目されたので、田舎町の中ではそれが嫌でしたね。か。私たちは、生年月日が同じ生まれは旧士幌村です。父幼少期の思い出はあります私が小さい頃、父が池田でワインづくりを始めました。当時、父に「こんなに渋くて酸っぱいものが、なんで美味しいんだ」って聞いたことあるんです。そうしたら、「これが世界の味だから、覚えろ」と言われました。また、父の書棚にはたくさんの哲学書があって、難しい内容でしたが、中学生の頃、辞書を頼りに読み進めたのはとても面白かったですね。は、子供らしく生きようとしても、大変な部分があったのかなと想像します。当時、お父様のことをどう思っていましたか。お父様が町の名士というの高校生の頃、テレビ番組が父の取材に来て、先生がおっしゃったことと同じ質問をされた記憶があります。その時に自分が答えたのは、「畏敬の念」だと。尊敬するけれど、ちょっと近寄りがたい関係性でしたね。函館ラ・サール高校を卒業して、慶應義塾大学法学部に進まれた時、将来のことは何か考えていたのでしょうか。弁護士か政治家になるか、と考えていましたが、弁護士は自分には向かないし、勉強もしたくないなと思っていました。政治家については、父が後に参議院議員になったのですが、その選挙運動を見ていて、責任の重さやお金もかかって、家庭生活への影響など大変さを感じました。お父様の選挙支援をされて、そこまでいくと息子も政治家を目指すというキャリアも考えられましたよね。父はさせたかったんだと思います。でも、父のようにクリーンに政治を続けようとすると、非常に難しいですね。丸谷さんなら素晴らしい政 治家になったのでは、という気がかったのかもしれませんね。します。お父様も、資質を見抜いていたからこそ、政治をやらせたそのような中で、大学卒業後は北海道拓殖銀行に入られました。自分に合っている気がして商社も受けていました。銀行も面白そうで、拓銀だと北海道らしい貢献もできるだろうという思いがありました。入行後、新規の融資で、競馬産業・馬産業に関わった2年間は非常に充実していました。ヌ・エイへ移られて。と、1 年間は引き継ぎ業務があって、実際にシティバンクに移った世界を飛び回るというのがその後、シティバンク、エ拓銀が97年に破綻したあ政治家の息子に生まれて寳金丸谷寳金丸谷寳金丸谷寳金丸谷寳金丸谷寳金丸谷寳金丸谷Litterae Populi Vol.72 12付加価値ではなく、消費者の負担を減らすことによる「削減価値」を考えています。―丸谷
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