litterae_vol.72
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日本学士院(戦前は帝国学士院)が優れた研究成果を表彰する「学士院賞」は、日本の研究者にとってはノーベル賞と並んで権威ある賞である。北海道大学在籍者では、戦前・戦後を通じ、二十四名が受賞している。その最初の受賞者が、一九一九年に「癌腫ノ人工的発生研究」で東京帝国大学医学部教授山極勝三郎と共同受賞した市川厚一である。当時、市川は北海道帝国大学農学部畜産学科講師に就任したばかり、三十一歳の若い研究者であった。市川厚一(一八八八〜一九四八年)は、一九〇七年、札幌農学校が東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学農学部)として大学に昇格した年に、予科に入学した。予科終了後、一九一〇年に本科に進学し、畜産学科に籍を置いた。一九一三年七月に北海道の家畜の寄生虫をテーマとしたドイツ語論文を提出して、卒業した。卒業後、市川は副手となって大学に残り、上京して東京帝国大学医科大学(後に医学部)病理学教室に出入りして山極勝三郎教授の下で癌腫の人工発生の研究に取り組んだ。一九一三年十一月に市川は東北帝国大学農科大学の大学院に出願した。研究課題は「病理学一班、殊ニ腫瘍発生ニ就テ」であった。十一月十一日の農科大学教授会で市川の出願を協議した際、畜産学科小倉鉀太郎教授は、市川が東京帝国大学医科大学の実験室に出入りしていること、大学院入学後カッターを招聘して、動物学や獣医学を講も少なくとも一年間程度は東京で指導を受けさせたいことなどを説明した。札幌の大学院に籍を置いて、実際には東京帝大で指導を受けることに反対する意見もあったが、結局、大学院入学を認め、正式に東京帝大医科大学長宛てに市川の指導を依嘱する手続きを取ることに決定した。大学院生に対する処遇として異例であった。市川に対する厚遇には大きな理由があった。北海道の農業政策では家畜を利用した有畜農業を推進し、札幌農学校はそのための人材養成を担った。従って、獣医学の専門家の養成は、札幌農学校の重要な課題であった。実際に、札幌農学校開校から三年目の一八七八年にはアメリカ人医師J•C•義させた。また、カッターの教えを受けた第二期生南鷹次郎は、札幌農学校卒業後、獣医学研究のため東京大学へ留学をしている。しかし、南は札幌農学校教員となった後、農学校の農場監督と広範な農学の講義のため、獣医学を専門とすることができなかった。その後も自前で獣医学専門家を養成することはかなわず、いずれも後の東京帝国大学となる駒場農学校出身の須藤義衛門、帝国大学農科大学獣医学科出身の小倉鉀太郎のほか、カナダ・マギル大学出身の加藤泰治などを獣医学担当教員として招いていた。それだけに、獣医学研究者への道を歩もうとする市川厚一への期待は大きかった。一九一九年、市川から「獣医学博士」の学位申請を受けた北海道帝国大学農科大学は、北大初の学士院賞東京で指導を受ける札幌の大学院生北大初の「獣医学博士」Litterae Populi Vol.72  2032154SCENE-20る事が癌の予防上にも極めて大切な事であります 此の私等の実験は蓋し其事実があ性質のものであるかを追究しやうとしたのであります」(市川厚一編『癌は治る・手後れするな』)「待望の獣医学研究者、市川厚一」1907-46

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