て、子供の頃に、現職につながるような経験はありましたか。はスキーをしていました。今の職業に少しつながるとすれば、荒井山シャンツェでスキージャンプをしていたことでしょうか。に関係していますね。高校まで札幌で過ごされ子供の頃は、夏は野球、冬まさに「飛ぶ」ということ大学は航空学科に進み、卒論テーマもスキージャンプでした。模型飛行機(Uコン)が趣味で、飛行機の設計を仕事にしたいと高校2年生の時に思ったんです。どこで勉強できるのか調べてみると、残念ながら北海道大学にはそのような学科がなかったので、これは結構ショックでしたね。それで東京大学の工学部へ 進まれたんですね。就職活動の際、日本航空をはじめから志望していたのでしょうか。はいわゆる設計で、しかも空気力学の分野でしたので、例えば重工業界などを考えていました。研究室内では自動車メーカーへの就職希望者が多かったです。飛行機を作る会社ではないですものね。ていたのですが、ちょうどその時期、1985年の8月に御巣鷹山の事いえ、私が研究していたのよく考えると、日本航空はほぼ重工系に決めじゃいけないと思って日本航空に故があって。航空業界はこのまま決めました。あのような事故が起こると日本航空に対してネガティブになり、選択しない方が多いのかと考えますが、どのような思いだったのでしょうか。これは航空業界全体として非常にまずい、と思いました。私は飛行機を「作る側」の勉強をしていましたが、「使う側」をしっかりしないと、飛行機そのものが必要とされなくなってしまうと思ったのです。もうひとつ、「使う側」として飛行機をより安全で社会の役に立つものとすることに、何か役に立てないかなと。そういう意味では、この業界に入った経緯はかなり偶然だったと思います。そのような思いから整備部門に入るというのは、私から見るヒューマンエラー対策の仕組み作と必然的なものを感じます。どのようにキャリアを重ねられたのか教えてください。を交換することから始まり、その後は整備をどう組み立てるかという計画の仕事をして、次は品質管理です。これがキャリアの中では一番長かったんですが、「信頼性管理」と呼ばれる、飛行何時間ごとに部品を交換するかの検討や、りを担当していました。から、その最前線ですね。飛行機のメカニズムは複雑で、ちょっとした整備の不備が事故につながりますし、きわめて緊張感のある仕事だと思います。が不具合を自分で検知できるようになりました。いわゆる「予測整現場で飛行機の壊れた部品安全が航空業界の根幹ですただ最近では、飛行機自体飛行機を「作る側」から「使う側」へ寳金赤坂寳金赤坂寳金赤坂寳金赤坂寳金赤坂寳金赤坂寳金赤坂Litterae Populi Vol.73 12未曾有のパンデミックを乗り越えたことは、会社にとって大きな財産になりました。―赤坂
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