医科大学(後の医学部)開設に当たっては、北海道帝国大学を独立・設置するという動きと連動していたこともあり、実現には地域の粘り強い運動と時間が必要であった。国庫に負担を及ぼさない寄附金による医科大学開設が閣議決定されたのは一九一六年九月である。その後早くも、東北帝国大学農科大学長佐藤昌介は、次の分科大学(学部)増設の皮算用を始める。札幌農学校には一八八七年から九年間、農学科と共に工学科が存在し、十六名の工学士を送り出していた。一八九六年に工学科が廃止となると、翌一八九七年に中等実業教育機関として、土木技術を教授する土木工学科を新設した(一九〇二年からは中学校卒業を入学資格とする専門学校の階梯に引き上げられる)。土木工学科主任の教授は川江秀雄(工学科第五期生、一八九五年卒業)、次いで坂岡末太郎(工学科第四期生、一八九四年卒業)が務めていた。一九一七年九月、佐藤昌介学長は、娘婿でもあり、土木工学科の前主任であった川江秀雄に宛てた手紙で、①四、五年中に理工科大学(理工学部)の新設計画を立ち上げる見込みであること、②先ず既存の土木工学科に器械・電気・採鉱の三科を併置して、一九一八年四月に北海道帝国大学が独立・開学した後に、分科大学に格上げする提唱をすること、③土木工学科主任坂岡末太郎教授が民間事業に従事する意向を示しているので、後任として再度土木工学科主任に着くつもりはないか、といった内容を伝えた。佐藤学長は、土木工学科を拡張した上で、それを母体に理工科大学設置を図る見取りあった。図を描き、その中心に川江秀雄を据えようと考えていた。川江は、土木工学科教授を辞めた後、朝鮮総督府鉄道局技師を経て、このときは満鉄(南満州鉄道株式会社)の京城管理局工務課長を務めていた。この後の川江宛て佐藤書簡の内容から、川江は佐藤の誘いを断ったようである。一方、坂岡は一九一八年に北海道帝国大学が開学し、土木工学科が附属土木専門部へと改組した後も主事・教授を務め、一九二三年九月に逝去するまでその地位に佐藤昌介の思惑通りには運ばなかったが、学部増設の動きは急転する。一九一九年三月、原敬内閣が帝国議会に提出した「高等諸学校創設及拡張費支弁ニ関スル法律案」が通過し、一九一九年からの五年間に、帝国大学に四学部、官立高等学校を十校、高等専門学校を十九校新設し、六校の高等専門学校を単科大学に昇格させ、帝国大学の既存六学部を拡張するという内容であった。このうち、帝国大学四学部新設の計画には、北海道帝国大学工学部の開設が含まれていた。全国的な高等教育機関拡充計画の一環であるため、工学部開設には当初から国庫支出も予定され、医科大学開設の経緯とは好対照であった。一九二一年、東京帝国大学工学部長寺野精一(船舶工学)、同教授の鳳秀太郎(電気工学)、柴田畦作(土木工学)、加茂政雄(機械工学)、船橋了助(採鉱学)、井上匡四郎(採鉱学、同時期に教授を辞任、後に鉄道大臣)、九州帝国大学工学部長の吉町太郎一佐藤昌介学長の皮算用工学部設置の動き231465Litterae Populi Vol.73 20SCENE-21だらよいかは仲々解らないから出来るだけ其れを指導して例えば鉄道方面に進むにはによって出来るだけ自由に勉強さしたい」(吉町太郎一談、1924年7月26日付け『北海タイムス』)1917-1925「工学部の開設」
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