litterae_vol.73
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(橋梁学)が工学部創設委員となった。委員長は寺野、後に加茂が務めるが、創設準備の中心となったのは吉町であった。吉町は、委員任命後、一九二一年八月に北海道帝国大学を訪れ工学部予定地を視察したときの様子を、「当時の現場は医学部敷地際からだらだら降りになった湿地でありまして、牧草深く茂った間を一条の廃渠が南北に走って居りました。楡の老樹は諸所に点在し、ポプラの並木もあった様に記憶します。ここに旗竿を立てて、成るべく樹木に障らぬ様にと、地割して見たのであります」と回想している。この場所に、後に「白堊館」と呼ばれる美しい工学部本館を建設し、一九六〇年代に建て替えた現在の工学部建物も所在している。一九二三年五月、吉町に対し北海道帝国大学教授兼任とする発令があり、吉町は欧 3月-帝国議会が法律案を通過させ、北海道 879 1921年8月-吉町太郎一(九州帝国大学工学部長) らが工学部創立委員となり、札幌で初 会合1922年4月-工学部に進学する予科生120名を増募1923年5月-吉町太郎一が北海道帝国大学教授を     12月-工学部本館(白堊館)竣工1924年5月-工学部教授候補者がロンドン郊外で 9月-工学部設置、吉町太郎一工学部長就任米を視察した。一九二四年九月、北海道帝国大学工学部を設置する勅令が出、吉町は北海道帝国大学の専任となり、初代工学部長に就任した。工学部は専門分野を大括りにする教室制度を採用し、土木工学・電気工学・機械工学・鉱山工学の四教室に、橋梁学・鉄道学・水工学・電気機械学・原動機学・鉱山学の六講座が所属する体制で発足して、各講座に教授が着任した。設置の少し前、吉町は『北海タイムス』の取材に応え、工学部の教育方針として「今■の様式を幾分改革し、学生が成るたけ自由に科目を選択できる様にしたい」と述べている。専攻分野によって受講する科目を決めてしまうのではなく、学生の自主的な科目選択を可能とする方針である。欧米視察の成果、東京帝大の改革、九州帝大での経験を勘案した試みであった。一九二五年四月、予科などから九十二名の第一期生が入学し、工学部の講義が始まった。教室制度、科目の自由撰択21  Litterae Populi Vol.73 1.吉町太郎一工学部長(1932年ころ) 2.東北帝国大学農科大学土木工学科測量実習(1910年前後) 3.上空から見た工学部本館(1926年ころ) 4.ロンドン・テムズ川に集った工学部教授予定者(1924年) 5.竣工間もない工学部本館(1924年ころ) 6.1917年9月4日付け川江秀雄宛て佐藤昌介書簡の一部 7.札幌農学校卒業時の川江秀雄(1895年) 8.工学部の一般公開(1926年) 9.工学部土木機械実習風景(1927年ころ)10.工学部前の初代工学部長吉町太郎一先生像(2014年撮影)Hokkaido University1917年9月-佐藤昌介東北帝国大学農科大学長が理 工科大学創設計画を川江秀雄に伝える1918年4月1日北海道帝国大学設置、土木工学科が 1919年2月-原敬内閣が「高等諸学校創設及拡張費 支弁ニ関スル法律案」を帝国議会に提 出 附属土木専門部に改組 帝国大学工学部の設置を承認 兼任 会合1925年4月-工学部第一期生92名入学、授業開始1917-1925Hokkaido University Archives北海道大学に関する歴史的な資料を収集・整理・保存して利用に供するとともに、北海道大学史に関する調査・研究を行っている。10大学文書館だいがくぶんしょかん「大学に■入ったばかりの学生にどんな科目を選ん此の学科を選ぶのがよいと一々教た上で学生の志望HISTORY

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