litterae_vol.75
18/24

による自主的運営)、言論・集会の自由、学生監の責任追及などを決議した。学生大会の実行委員会が学生を代表して大学側との交渉に当たり、大学側は学生監(十月に学生主事と改称)を兼任する時任一彦農学部教授が窓口となった。両者は、文武会の自主化を進める会則改正案を検討し、夏休みを挟んで折衝を続けた。ところが、十一月二十八日、会頭の佐藤総長が諮って決定した会則は、学生たちの要望を反映したものではなく、旧来と大きく変わらない内容であった。学生側は大学との交渉を打ち切り、十一月三十日に経過報告会を実施した。さらに報告会を学生大会に移行し、文武会解散、学生主事への抗議、言論・集会等の自由を決議した。大学は、直ちに経過報告会報告者の工学部三年前田英彦を放校処分とした。十二月五日、千人以上の学生が工学部北側のグラウンドに集合し、学生大会を開催すると、大学側は農学部二年山田真人、一年西条寛六の放校、三年東弘の停学処分を発表した。学生大会は十二月いっぱい同盟休校を断行することを決議した。この間、学生たちは学生主事の一団と小競り合いとなり、警官隊が駆け付ける騒動となった。この事態に、佐藤総長は、十二月十日から三日間の休学措置を決定した。教員は学部・予科・実科・専門部において所属学生の説得に当たり、また橋本左五郎名誉教授をはじめとする同窓会関係者も学生と対話を行った。『東京朝日新聞』が「北大騒ぐ」(十二月一日付け)、「北大学生の暴一九二〇年代後半から一九三〇年代前半にかけて、全国各地の大学・高等学校・専門学校・師範学校・中学校などにおいて、学校紛擾が頻発した。きっかけは様々であったが、学生と学校が対立し、学生が同盟休校(ストライキ)を実施し、学校側が首謀者に懲戒処分を下すといった事件に発展することも多かった。例えば、小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)の生徒が軍事教練に反対した事件(一九二五年)は有名である。校友会費を無断使用した校長を糾弾した弘前高等学校の同盟休校事件(一九三〇年)については、在学生であった太宰治が小説「学生群」を執筆している。北海道帝国大学文武会は、総長を会頭とし、学生生徒、教職員も会員となる全学的な学友会組織であった。教員を委員長とし、学生・生徒が委員を務める委員会が、文武会全体の運営実務に当たっていた。また、文武会の下部組織として各文化部・運動部が部活動を繰り広げていた。一九二八年五月、文武会の委員会は、新入生歓迎会を兼ねて植物園で野外園遊会を開催することを企画し、学生監(大学の学生生徒の厚生・輔導を担当する役職)から酒・ビールを供する許可を取り付け準備を進めた。しかし、五月十日、会頭の佐藤昌介総長は酒・ビールの提供禁止を言い渡し、植物園使用も不認可となり、学生監も前言を翻した。十五日、委員の学生たちは園遊会中止を決め、抗議のため全員が辞職した。学生たちは学生大会を開催し、文武会の自主化(学生文武会をめぐる学校紛擾ストライキ騒動へ発展ではあるまいか。学生諸君と私共はそんな他人行儀で済むものだらうか、[中略] このやゝもす育や徳育の道場であるのが文武会でなければならない。」(文武会副理事長柳壮一医学部教授) Litterae Populi Vol.75  18「文武会事件」21543SCENE-231927-1929

元のページ  ../index.html#18

このブックを見る