を受けた学生は、社会問題や政治問題、左翼理論を研究する大学未公認団体のメンバーであった。一方、学生の大部分は、左翼思想とは関係なく、学生生活・活動に自由さを求めて同盟休校に加わっていた。農学部教授会においても、「文武会問題ニ悪キ分子(左傾思想)ノ働キ居ルトノ推察ハ誤レル見方ナラザルヤ」との意見が出ていた。一九二九年五月、文武会は新たな会則を定めて存続した。六月には前年の穴埋めをするように円山公園において大園遊会を開催した。さらに、十一月に第一回「文武会デー」を開催し、文武会傘下の各文化部・運動部が挙って催しを開いた。文武会デーは毎年、全学を挙げて開催された。戦時下には中止されるが、戦後の大学祭へと繋がっていく。放校・停学の処分を受けた学生は、一定期間の後、復学している。動化につき学校側も対策協議」などと報道し、中央にも事件が伝わった。こうした動向の中、学生たちの結束は崩れ、休学措置明けの十三日までに、各所属の学年ごとに同盟休校の中止を決定した。九日間のストライキ騒動であった。事件の経過を追うと、学生監・学生主事は比較的、学生の要望に理解を示す対応を取っていた。一方で、佐藤昌介総長は学生側の動きを厳しく処断した。当時、文部省は学生が左翼思想に関心を持つことを危険視し、大学等に取り締まり強化を通達していた。この時期、北大の学生取り締まり体制は、学生監増員、学生主事体制、学生課設置と強化されていった。佐藤総長の判断はこうした動向の一環であった。また、実際に文武会事件を主導し処分文武会事件の背景とその後1 9 2 7 - 1 9 2 9 Hokkaido University Archives「学問の切り売りばかりでは世の中はあまりに無味乾燥れば無味乾燥になる大学生活の「オアシス」であり、体大学文書館 だいがくぶんしょかん 1. 文武会事件を伝える1928年12月6日付け『東京朝日新聞』 2. 文武会役員だったころの橋本左五郎(前列左から4番目)と時任一彦(前列右から4番目)(1915年) 3. 文武会会頭の佐藤昌介総長(1926年) 4. 文武会事件が起きた際の文武会委員会(1928年5月14日) 5. 事件当時の学生監・学生主事時任一彦農学部教授(1926年) 6. 文武会事件の経過を伝える1929年1月4日付け『北海道帝国大学新聞』 7. 文武会大園遊会開催を伝える1929年6月3日付け『北海道帝国大学新聞』 8. 事件後、文武会副理事長に就任した柳壮一医学部教授(1929年) 9.「文武会デー」開催を伝える1929年11月4日付け『北海道帝国大学新聞』1927年6月 農学部農業経済学科学生が政治・社会問題研究のため「読書会」を結成 11月5日 北大が読書会の座談会の中止を命ずる1928年4月 文部省が学生生徒の思想匡正と国民精神作興を通達 5月10日 佐藤昌介総長(文武会会頭)が文武会新入生歓迎会に酒を用いることを禁止(文武会事件の発端)5月15日 文武会委員会が新入生歓迎会中止を決定し総辞職、学生が文武会自主化を要求10月30日 北大が学生監を学生主事に改める11月28日 文武会が佐藤昌介会頭の下、新会則を決定、学生の反発を買う11月30日 北大が学生大会議長の前田英彦(工学部3年)を放校処分とする12月5日 工学部北のグラウンドで学生大会を開催、学生主事と対立、警官隊出動 北大が山田真人(農学部2年)、西条寛六(同1年)を放校、東弘(同3年)を停学処分とする 12月6日 学生が全学的な同盟休校を実施12月8日 北大が10日から3日間の休学措置を決定12月13日 学生が同盟休校の中止を決定12月25日 学生課設置1929年5月4日 文武会の存続決定5月7日 文武会の新会則を決定6月10日 円山公園において文武会大園遊会開催 11月1〜2日 第1回文武会デーを開催 北海道大学に関する歴史的な資料を収集・整理・保存して利用に供するとともに、北海道大学史に関する調査・研究を行っている。19 Litterae Populi Vol.75H I S T O R YH o k k a i d o Un i ve r s i t y7698
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