外から見ただけではわからないもの

 卒業して高校教員になり、14年が経ちました。生徒に対し、目的意識を問いかけてきましたが、学生時代の自分はというと、あまり自信がありません。
 私の入学した頃はバブルの末期で、働くことの実感が湧かず、のんびりした学生生活を送りました。卒論では史料が見つからず、調べては無駄になることも多かったのですが、何か出てきそうな時の高揚感は今でも忘れません。日本史の面白さを改めて実感し、企業に就職してそこから離れるのは寂しいと思うようにもなりました。
 そこで、とりあえず教育実習で出身高校に行きました。教材研究に苦しみましたが、生徒達は真剣に授業を聞いてくれて、伝える楽しさにも気づかされました。その反面、進学校の生徒でさえ素直で幼く、メディアに踊らされた「子羊の群れ」に見えたことが今でも原風景のように印象に残っています。
 初任校は、北海道留寿都高等学校という、村立の農業福祉科で、1学年1学級の小さな学校でした。過疎と、上位層が近隣の普通科に流出するために廃校の危機に陥り、寄宿舎をつくって札幌から生徒を集めて何とか定員を維持しているという学校でした。
 介護福祉士の受験資格が取れる教育課程が整備されていましたが、福祉の教員が足りません。私も老人介護、英語、情報処理などを担当しました。自分自身が初めて勉強する科目もあり、付け焼き刃の授業は内容もめちゃめちゃでした。あまり勉強が好きではない生徒達とよく衝突し、同僚には何度も助けて貰いました。教員は12名でしたが、毎日が試行錯誤の連続でした。業務は多忙でしたが、手をかけるほど生徒も成長することがわかり、自分の力は小さいながら、学校づくり一翼を担っているという実感がありました。赴任して4年ほどで倍率が上昇し、さらに目的を持った生徒が入学し、学校が活気に溢れるようになりました。私は、結局この学校では日本史を教えませんでしたが、この仕事の意義を見つけたような気がします。
 八年前に赴任した札幌稲北高等学校は、生徒急増期に対応するため、新設された七校のうちの一つです。手稲区には至近距離に何校も普通科の高校があり、入試の点数で序列がついています。私が赴任した頃は、開校以来もっとも悪かったと言われています。業者テストでは、全国平均を少し下回る程度なのですが、同一学区内の公立校では最低だったため、生徒には敗北感が漂っていました。意欲をなくし、享楽的に生きているように見えました。折しもコギャルや援助交際が流行語となり、メディアでもちやほやされていました。
 その頃から稲北高校では、生徒にルールを守らせ、事故には組織で対応し、学年や個人の対応差をなくす取り組みが始まっていました。業務は煩雑ですが、今でも毎朝の日番、毎月の服装頭髪検査、登校時の手稲駅バス指導などが継続されています。学校が落ち着けば、レベルの高い学習指導や部活動に力を入れることもできます。学区内での順位も上がったようで、現在では、生徒の表情や自信が、以前とは全く違ってきました。今春、卒業生を出しましたが、クラスの生徒が将来について真剣に考え、高い目標に向けて努力して進路を決めていったことは大きな喜びでした。
 どちらの学校でも、私が貢献できた部分はごく僅かで、このように書き進めてきたことも恥ずかしい限りです。学生の皆さんに高等学校教諭という仕事の魅力の一部を知ってもらえれば嬉しく思います。
 とはいえ、私は、やってみて初めてこの職の魅力に気づきました。強い目的意識はなくても、時間の経過とともに見えてきたり、一緒に仕事をする仲間や生徒が育ててくれることもあります。そのような目的の方が、ずっと強いような気もします。後輩の皆さんにも、「とりあえずやってみる」ことをお勧めします。
がんばれ北大

Namie ZENGAME
平成6年 北海道大学文学部史学科日本史学専攻課程 卒業
平成6年 北海道留寿都高等学校 勤務
平成12年 北海道札幌稲北高等学校 勤務
写真
写真:女子バレーボール部・練習試合後の一枚。
(右側が膳亀先生、左側は、同じく北大卒
(理学部数学科)で主顧問の中田一秀先生)




メインメニュー