「私の若いころ」

 雪解けの北大教養学部の校舎を新入生として迎えたのは昭和42年の春でした。大戦後のベビーブームの影響で私が学んだ北海道立札幌南高校は日本一のマンモス校で3学年合計3千人60クラスでした。しかし、北大のクラスは40人単位でそれは移行した工学部でも40人であり、応用物理学科ではさらに6講座に分かれて数人単位で教育がおこなわれ、親身な指導を授かりました。北大は学生の数に比較し、教職の方が多く大変恵まれた環境と思います。少人数教育にこそ深い理解と指導が生まれ、それは生涯を通じての支えとなってゆくと今振り返ると思います。クラブ活動は自然を謳った寮歌に憧れ応援団に入りました。また今も存続している理論物理研究会にも属しました。酒を痛飲し寮歌で青春を発散する生活が、一方では別のクラブで電磁気学における理論方程式の解釈議論に加わる生活でした。しかし結局忙しくなり1年の後半で理論物理研は退部し、応援団を中心に西部劇や仁侠映画ばかり見る生活で、度胸を付けるにはどうしたらいいのだろうと試行錯誤する状況になってゆきました。これが20年後に仕事の交渉に役立つとは露知らぬ20歳前後でした。
 当時の北大生は教養学部から専門学部へ選択移行しました。
 結局応用物理学科へ進学となり、専攻は応用光学となりました。ここで生涯、折に触れてご指導いただく諸先生に教育された次第です。
 やがて3年の秋になり、大学院を別の大学へ行きたいものと考えはじめました。色々な先生にご相談し結局大阪大学工学部の大学院を受験することにしました。大学院試験は各大学で大いに問題や傾向が異なります。そこで4年の春勇躍、大阪大学工学部まで行って応用物理学科の事務室に飛び込み、親切なご婦人事務官に何とか過去試験問題を頂けないものかと頼み込みました。幸い大学院生を紹介していただき、札幌まで丁寧に後日過去問題集のコピーを送っていただきました。
 傾向がわかるとあとは連日深夜まで学習し、なんとか其の秋合格しました。今でも大阪大学同窓会では当時に問題を送っていただいた大学院生の先輩には全く頭が上がりません。
 大学院を終了し現在の(株)ニコンへ入社しました。
 北大時代も大阪大学時代も光学と光学機器に興味を一貫して持ち続けておりました。学生時代も少ないお金で参加を許される学会や講演会には、知識も無く理解できないことがいっぱいあったのですが、雰囲気だけでも学びたくて自費参加しました。そうすると断片的な知識が体系化できて、若年でも色々視野も広がってゆきました。また、哲学や歴史物が好きな私は、20歳代後半は哲学者梅原猛先生著の日本古代史ものを愛読しました。日本古代史はなぞだらけで、先生は大胆な仮説で問題を実証してゆきます。私は会社に入り、技術問題で謎だらけのときは、考え方を180度変えて仮説を立てて問題を解いてみました。問題解決は梅原先生の導きのような気がします。
がんばれ北大
 拙い私の経験を後輩諸氏に申し上げるなら
(1) 興味のある分野で努力してください、可能 であれば専門家となってください
(2) 地道に勉強に時間を掛けて基礎を理解してください
(3) 世の中は交渉ごとも必要なので、心を清らかにし勇気もち誠心誠意交渉すること
(4) 北大は落ち着いて勉学のできる大学です
(5) 大学院に進学するなら別大学を受けてみてください 友人が2倍になります
 以上 振り返り見てですが、どうか皆様ご自分で幸多き大学生活をすごしてください。
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Kyouichi SUWA
1971年 北海道大学工学部応用物理学科卒
1973年 大阪大学大学院工学研究科修了
同年   (株)ニコン 入社
精密光学機器の設計部勤務後、アメリカ研究所日本人代表、営業職、事業部長職を経て、現在 取締役専務




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