![]() |
新しい生命誕生の瞬間に魅せられて
|
去る11月25日の国際生物学賞の受賞に先立って,報道関係の3社と共同インタビューをしました。その際,最近男性不妊の治療に盛んに利用されている顕微受精に私も基礎研究の面で関係しているので,過大な期待や根拠のない不安をもたないようにとか,今後の研究課題は何か等,約2時間にわたって話しました。あとで新間に載った記事を見ると,それらにはほとんど触れられてなく,時々交えた雑談の方が主になっていました。ある記事のタイトルは“受精の研究に30年の情熱”というものでした。私はインタビューの時特にそのように言った覚えはないのですが,聞いている側にはそう思えたのでしょう。考えてみると実際,1953年に魚の受精に関する最初の論文を発表して以来,途中で何年かの中断はありましたが,40年以上にわたって受精とそれにまつわる現象の研究をしてきました。 私が何故これまでずっと受精の研究にこだわってきたかを考えてみますと,学生時代に忍路での臨海実習で初めてウニの受精を見た時に端を発します。顕徴鏡の下で卵子の周りに無数の精子がむらがり,やがて1個の精子が進入して受精膜がふわっと盛り上がり,1時間もしないうちに細胞分裂を始め,それを繰り返しやがて海水中を泳ぎ出す幼生になる。それをほとんど寝ずに徹夜で観察したように覚えています。また,学生時代に読んだE.B.Wilsonの名著“The Cell in Development and Heredity”の始めの方の一章に,次のような文がありました。 “The child does not inherit its characters from parents’body,but germ cell…As far as heredity is concerned,the body is merely the carrier of germ cells.”この考えは私にコペルニクスの地動説に匹敵するはどの影響を与えました。“我考えざれば我無し”と哲学者が言うように脳がヒトの中心くらいに考えていたが,一転してgerm cellが動物(ヒトを含め)の中心に見えてきました。蜜蜂の集団で言えば、女王蜂がgerm cell(生殖細胞)で,多数の働き蜂が体細胞に相当するという風に。この考えに異論のある人もいるでしょうし,またそう考えたくない人も大勢いると思います。しかし,そうであって欲しいと思う事と実際にどうであるかは別な事です。先に述べた考えに一理ある,と私は今も考えています。それが私を40年以上受精や生殖生物学の研究に従事させた原動力になっていると思います。 旧制大学の理学部では,3年目の1年間を研究論文の作成に使うようになっていました。それで私は動物の受精か発生をテーマに選ぶ事にし,狩野康比古先生(当時30才代の助教授)の下で伊東鎮雄君(後・熊本大学理学部教授)と共に卒論研究をする事にしました。狩野先生が私に与えたテーマは「ニシンの受精・発生」でした。伊東君と一緒に1952年の4月に留萌市の郊外にある漁村の一軒に泊り切りで研究しました。その頃はまだ北梅道の西海岸に多数のニシンが産卵に来たので,無料で思う存分の材料を得る事ができました。その後数年で急に漁獲高が滅り,その他の事情もあってニシンを使っての研究は中断しました。学位(理学博士)は旧制度の最後に近い1960年に,寄生性甲殻類である“Rhizocephalaの生活史と生殖”でとりました。 当時は就職先を自分で捜す事はできず,教授が“お前はどこへ行け”という風でした(今私のいるアメリカでは,学生が卒業近くになったら自分で発表した,または準備中の論文を持って,または送って,自分の行きたい所と交渉します。論文が一番のreferenceになります。教授はせいぜい推薦文を書くぐらいです。もし発表した論文が秀れていれば,教授の推薦も不要なくらいです)。それはともかく,私は大学または研究所のポストには縁がなく,1960年まで同期の友人や後輩がどんどん助手や講師になっていくのに万年研究生のままでした。1年間教授の推薦してくれた高等学校にフルタイムで勤めましたが,私は“金八先生”にはなれないし,研究を続けたいので,その高校をやめました(あとで分かった事ですが,その時教えた学生の1人が国際生物学賞受賞式にかけつけてくれ,私の名前を覚えており,また彼の進んだ道(生化学)を選ぶのに私の影響があったと言っていました)。 とにかく日本にこのままいたのでは大学の研究には従事できないと判断し,どうせするならその当時あまり皆が見向きもしなかった哺乳類の受精や発生の研究をしたいと思って文献をあさり,3人ほど選びました。その中でWorcestar Foundation for Experimental Biology(マサチューセッツ州)のDr.M.C.Changだけがウサギなどを使って精子・卵子に関するいろいろな実験(体外受精を含め)をしていたので,思い切って彼に手紙を送り,postodoc fellowとしてあなたの所で哺乳類の受精や発生の研究をしたいのだと書きました。私はそれまで哺乳類を使った仕事を一つもしていなかったので返事があるとは期待していませんでしたが,2〜3週間後に論文の別刷を送ってくれるよう指示がありました。受精に関係ある論文と言ったら,ニシンの受精に関するもの数編だけです。とにかくそれらを送ってから間もなく,Dr.Changは私にWorcestar Foundationに来ても良いという返事をくれました。ずっと長い間,何故Dr.Changが哺乳動物での研究に全く経験の無い私を採用してくれたか不思議だったので,彼が亡くなる数年前(彼がハワイに来た折)聞いてみました。返事は“I knew you had done a good work with fish”だけでした。もし彼が“お前の仕事は私のしている仕事と関係ない”と私の希望を断ったら,今日の私は無かったと思います。Dr.Changは1939年頃中国の大学を出てからCambridge大学に留学して,Animal BreedingでPh.D.の学位をとり,その後アメリカに渡り哺乳動物の受精・発生に関する先駆的仕事を多数しました。私は彼の所に行った最初の日本人でした。聞くところによると彼はCambridge大学で学位をとってから日中戦争のために祖国に戻れず,また彼の家族,親戚は日本軍にひどい目以上の事に遭ったそうです。しかしその事については一言も触れず,“戦争は人をおかしくしてしまう。日本人自身が悪かったわけではない”と言ってくれました。私の後からも,合計15人ほどの日本人が彼の所で研究させてもらいました。日本人をきらっても当然なのに,わけへだてなく,留学した皆に気を配ってもらいました。 | |
天皇・皇后両陛下御臨席のもと、藤田良雄国際生物学賞委員会委員長から表彰を受ける。 | |
Dr.Changの所に4年間留学,その後日本に2年間いました。ハワイ大学の医学部が新設された1966年から現在まで,ハワイで自分の思うように研究ができました。ハワイに渡った1966年の秋の日本での私の立場は,研究生(授業料を払う)でした。38才になって初めてハワイで自立できるようになったわけです。日本にいる時,先輩の一人に“お前は世渡りが下手だ”と言われました。それだから何時までたっても日本の大学のポストが得られなかったのかも知れません。今でも世渡りがうまいと思いませんが,アメリカという国は不思議な所で,人格円満とは程遠い,文化人でもない私に何か一つよい事があったのでしょうか。その点を評価されて、NIHの研究費も30年間断える事なく受けることができました。その間アメリカ,英国等の学会の賞も頂きました。今回の国際生物学賞の推薦には何人かの日本人以外の人が関与していると思います(誰が推薦してくれたのか1〜2の人以外は知る余地もない)。受賞式に出席してくれた何人かの外国の友人が,“お前を推薦したけれど,この賞は国際賞なので日本国籍を持ったお前が選ばれるのは難しいかも知れないと思っていた”と私に打ち明けました。“このような形で日本人(及び外国人を含めた選考委員)がお前を選んだ事は非常に嬉しい”と私以上に喜んでくれました。30年前日本で“お前は世渡りが下手だ”と言われた私が天皇・皇后両陸下御臨席の受賞式に立ち,その後宮中で両陸下とお話ができるようになるとは夢にも思いませんでした。 同期や後輩の人達が次々と私が行きたいと思っていた所に就職するのを,うらやましく思ったものです。何故私では駄目なのかと。しかし,その人達は皆各々の所でよい研究をし,立派な後継者を育てました。仮に私があそこであれだけできたかと考えると,彼等がそこに行ったのはそれでよかった。私が日本を離れたのも,それで私のためにはよかったと思う現在です。 (やなぎまち りゅうぞう,ハワイ大学医学部教授,1952年理学部動物学科卒業) |