岸 浪 建 史(きしなみたけし) 氏(理事・副学長)
| 昭和19年1月2日生 |
| (略 歴) |
| 昭和46年3月 |
北海道大学大学院工学研究科博士課程修了 |
| 昭和46年4月 |
北海道大学大学工学部講師 |
| 昭和47年4月 |
北海道大学工学部助教授 |
| 昭和62年3月 |
北海道大学工学部教授 |
| 平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
| 平成9年11月 |
北海道大学総長補佐 |
| 平成11年3月 |
| 平成14年4月 |
北海道大学評議員 |
| 平成15年4月 |
| 平成15年5月 |
北海道大学大学院工学研究科長・工学部長 |
| 平成16年3月 |
| 平成16年4月 |
北海道大学理事・副学長 |
1962年に北大に入学し,退職するまで45年間を北大で過ごした事になります。入学当初の中央ローン周辺の校舎での授業とクラーク会館での昼食は懐かしい思い出です。北大を去るに当たって,36年間働いた工学部・工学研究科・情報科学研究科には自由な雰囲気と自主性が溢れていて,思う存分,研究と教育に没頭することができました。貴重な助言を頂いた同僚の先生方,また多くの有能な学生に巡り会えたことに心から感謝いたします。最後の3年間は中村総長の下で施設環境計画室,国際交流室を担当させて頂き,それぞれの分野での北大の長期的展望を検討することが必須でありながら,法人化により大学が直面する種々の課題を如何に解決するかに多くの時間を費やさざるを得なかったことは大変心残りであります。北海道大学に学ぶ若人が人類の未来に必要な基礎研究と応用研究に真っ正面から取組み,北大の輝かしい未来を切り開くことを心から期待しております。
|
|
坂 井 昭 宏(さかいあきひろ) 氏(文学研究科教授)
| 昭和18年10月18日生 |
| (略 歴) |
| 昭和42年3月 |
北海道大学文学部卒業 |
| 昭和45年3月 |
北海道大学大学院文学研究科修士課程修了 |
| 昭和50年3月 |
北海道大学大学院文学研究科博士後期課程単位修得退学 |
| 昭和50年4月 |
千葉大学教養部講師 |
| 昭和51年12月 |
千葉大学教養部助教授 |
| 昭和62年6月 |
千葉大学教養部教授 |
| 平成2年4月 |
北海道大学文学部助教授 |
| 平成7年7月 |
北海道大学文学部教授 |
| 平成12年4月 |
北海道大学大学院文学研究科教授 |
「学問というものは,幾つになっても面白い」
私の本来の研究領域はデカルトを中心とする西洋近世哲学研究である。平成2年4月文学部哲学科西洋哲学第3講座助教授として着任し,西洋哲学史概説2及びこれに関連した講義演習等を担当した。その後,文学部の組織替えで,平成7年4月倫理学講座に所属することになった。表向きの理由はともあれ,実情は哲学倫理学関係教員のなかで最高齢者が哲学講座主任,その次の私が倫理学講座主任という割り振りだった。
まもなく,諸般の事情で倫理学概論も担当することになった。これはまさに青天の霹靂であった。若い頃の私は倫理学などという軟弱な学問に何の関心もなかったからである。しかし,職責を果たす義務がある。そこで,最初はメタ倫理学と呼ばれる部門の研究から始め,次第に現代の規範倫理学研究へと進んだ。ところが,これが意外に面白い。気性に合っていたのかもしれない。西洋哲学史概説2は他の教員に代わってもらった。
こうして10年あまりがすぎた。現代倫理学研究の領域で,私の指導した大学院学生が高い評価を受けることも珍しくはない。しかし,この間,私自身は現代倫理学に関する論文を一つも書いていない。この年末から,元大学院学生諸君の配慮で啓蒙的な論文を書き始めたのだ。ところが,書き始めたら終わらない。これまで読んできた研究論文の要約や講義ノートが溜まっているし,書くべき主題が尽きることなく立ち現れて来る。これは楽しい。そう思いながら,無事に定年退職を迎えることができる。幸せな人生なり。 |
|
河 内 祥 輔(こうちしょうすけ) 氏(文学研究科教授)
| 昭和18年10月7日生 |
| (略 歴) |
| 昭和42年3月 |
東京大学文学部卒業 |
| 昭和44年3月 |
東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了 |
| 昭和46年3月 |
東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学 |
| 昭和46年4月 |
東京大学史料編さん所教務職員 |
| 昭和48年4月 |
東京大学史料編さん所助手 |
| 昭和52年5月 |
北海道大学文学部助教授 |
| 平成元年9月 |
北海道大学文学部教授 |
| 平成12年4月 |
北海道大学大学院文学研究科教授 |
北大に来ましたときは,研究といっても何の実績もなく,教育についても全く未経験でしたが,それから30年の間,どれほどのことをしてきたのかと問われれば,まことに心許ない日々であったと自省せざるをえません。しかし,ともかくも定年まで,健康を保ち,授業を続け,何かを書くこともできましたのは,私にとっては本当に有り難いことでした。これはひとえに,自由気ままに過ごすことを許していただけたお蔭と,只々感謝するばかりです。北大のゆったりとさわやかなキャンパスの中で,これからもこのおおらかで寛容な雰囲気が失われず,教師も学生もここに来てよかったと思えるような大学であり続けてほしいと願っています。 |
|
長 尾 輝 彦(ながおてるひこ) 氏(文学研究科教授)
| 昭和19年3月8日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
東北大学文学部卒業 |
| 昭和43年3月 |
東北大学大学院文学研究科修士課程修了 |
| 昭和43年4月 |
高知大学文理学部助手 |
| 昭和44年4月 |
高知大学文理学部講師 |
| 昭和49年10月 |
高知大学文理学部助教授 |
| 昭和52年5月 |
高知大学人文学部助教授 |
| 昭和56年4月 |
北海道大学文学部助教授 |
| 平成7年4月 |
北海道大学文学部教授 |
| 平成12年4月 |
北海道大学大学院文学研究科教授 |
地下鉄の駅から文学部に行く通いなれた道。歩行者だけの通用門を抜けると,毎春芳香をただよわせるスミレの群生,少し行くと薬草畑。文・教育学部の敷地に入ったところに並んで立つ桜と梅。昨年の春,その桜がいつになくみごとに咲き誇りました。数日間満喫したあと,ある朝その桜の下を通ると,突然風が吹いて息をのむような花嵐。そのときでした,これが北大で最後の年だと実感したのは。と同時に,二十数年前私を採用し,以来私をはぐくんでくれた北海道大学,そのキャンパス,さまざまな出会いをもった学生,教職員の方々に対して心からの感謝をおぼえ,胸が熱くなったものです。ほんとうにすばらしい26年間でした。もちろん,日々の生活は悪戦苦闘の連続でしたが,今ふり返れば,そうやって鍛えてもらっていたのだと思えます。北大で得たものを糧として今後も努力を続け,この大きな節目もまたひとつの通過点だったと思えるようにしたいと思っています。 |
|
鈴 木 敏 夫(すずきとしお) 氏(教育学研究科教授)
| 昭和18年10月4日生 |
| (略 歴) |
| 昭和44年3月 |
東京教育大学大学院体育学研究科修士課程修了 |
| 昭和44年4月 |
文化女子大学室蘭短期大学講師 |
| 昭和47年5月 |
| 昭和47年5月 |
北海道大学教育学部講師 |
| 昭和49年7月 |
北海道大学教育学部助教授 |
| 平成3年9月 |
北海道大学教育学部教授 |
| 平成12年4月 |
北海道大学大学院教育学研究科教授 |
昭和47年から35年間,教養部,教育学部,大学院教育学研究科で楽しく過ごさせていただき,大変幸せに思います。教養部では,体育実習,総合講義(現代生活とスポーツ)を担当し,一方では課外体育の充実を目指して,体育会顧問,軟式庭球部部長などを引き受けながら,体育・スポーツに関心を抱く多くの学生諸君と接してきました。
近年,北大生のスポーツ観も多様化し,身体を動かすことの喜び,身体機能(健康)を維持するための運動として,スポーツが益々注目されるようになりました。また一方では,教職員のスポーツ志向の高まりも無視できない状況にあります。私は,21世紀のできるだけ早い時期に,北海道大学としてあるべき「Sport
for All」の促進計画の策定と,その実現を心から期待します。今後は,自らの課題として取り組んできた,日本近代体育・スポーツ史に関しての理論形成作業に専念したいと思っております。
現在,法人化後の多難な時期にありますが,北海道大学がさらなる発展を遂げられんことを祈念します。 |
|
山 中 善 夫(やまなかよしお) 氏(法学研究科教授)
| 昭和19年3月28日生 |
| (略 歴) |
| 昭和42年3月 |
東京大学法学部卒業 |
| 昭和44年4月 |
最高裁判所司法研修所司法修習修了 |
| 昭和44年4月 |
弁護士(東京弁護士会登録) |
| 昭和45年10月 |
札幌弁護士会に登録換 |
| 平成16年4月 |
北海道大学大学院法学研究科教授 |
還暦の年にロースクールの教授になりました。以来,まさに60の手習いでした。特に授業期間中や,試験の時期は土,日,祝日も返上して改めて教科書を読み返し,判例・学説を調べ,教えるというより学生とともに学んだ3年間でした。実務家教員の役割は理論と実務の架橋だといわれますが,教員と弁護士の二足の草鞋を両立させるのは本当に大変でした。それが架橋だと自らに言い聞かせて精一杯頑張った3年間でもありました。そのおかげか学生諸君は熱意を評価してくれたようで,授業は概ね好評でした。学生達も試行錯誤の新制度にとまどいつつも制度の趣旨をくみ取りよく勉強し,期待に応え,新司法試験の好結果につなげることができ,とりあえずほっとしています。お世話になりました皆様に心から御礼申し上げます。
今後は,エルムの木陰から,北大法科大学院が創意工夫を積み重ねて有為の人材を育てていかれんことをお祈りし,静かに応援させていただきます。 |
|
小 野 浩(おのひろし) 氏(経済学研究科教授)
| 昭和18年11月5日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
小樽商科大学商学部卒業 |
| 昭和44年3月 |
一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了 |
| 昭和50年6月 |
米国ブラウン大学大学院博士課程修了 |
| 昭和50年6月 |
Ph.D(ブラウン大学) |
| 昭和50年9月 |
ブラウン大学Post Doctoral Research Associate |
| 昭和51年8月 |
北海道大学経済学部助教授 |
| 昭和61年7月 |
北海道大学経済学部教授 |
| 平成7年8月 |
北海道大学評議員 |
| 平成9年7月 |
| 平成12年4月 |
北海道大学大学院経済学研究科教授 |
1976年8月,5年間のプロビデンスの留学生活に終止符をうって,北海道大学経済学部に赴任いたしました。
その後,今日迄,時は流れ,アッという間に30年余が過ぎました。誠に,走馬燈のようで,煙草の煙だらけの教養教官会議や,学生部第一小委員会委員長としての恵迪寮生との団交などが,懐かしく思い出されます。当時は,皆が現状を打破しようと,熱く燃えていたように思われます。又,北大在職中には,私の研究上の必要から,米国,カナダ,英国へと,渡航機会を与えていただきました。そこでの細やかな研究成果は論文や著書として発表させて頂きました。
この様な機会は,私の思考に大きな活力を与えてくれました。これらのチャンスをいただいた事に大変感謝しております。
尚,北大にも正式にサバティカルシステムが導入されましたが,多くの優れた研究が,このシステムのもとで得られる事を願っております。今後とも北大がますます発展されますことを祈っております。 |
|
唐 渡 興 宣(からとおきのり) 氏(経済学研究科教授)
| 昭和18年8月1日生 |
| (略 歴) |
| 昭和45年3月 |
一橋大学経済学部卒業 |
| 昭和47年3月 |
一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了 |
| 昭和50年3月 |
一橋大学大学院経済学研究科博士課程単位修得退学 |
| 昭和50年4月 |
北海道大学経済学部講師 |
| 昭和52年4月 |
北海道大学経済学部助教授 |
| 昭和61年7月 |
北海道大学経済学部教授 |
| 平成5年8月 |
北海道大学評議員 |
| 平成7年7月 |
| 平成12年4月 |
北海道大学大学院経済学研究科教授 |
| 平成13年4月 |
北海道大学大学院経済学研究科長・経済学部長 |
| 平成14年7月 |
何よりも北大に感謝の念で一杯である。北大における教育と研究が何よりも私を鍛えてくれた。32年間,私はゼミナールの学生とマルクスの『資本論』を読み続けてきた。読み返すごとにそこには新しい発見があった。『資本論』の文体やその論理展開の方法の細部にわたるまで,それは私の血肉となっていった。この年になって初めて納得のいく論文が書けるようになったのは,いつも立ち返るべき原点としての『資本論』があったからだと思う。そうして,今はじめて私には資本主義というものがどういうものであるのかが分かり始めた,と言うことができるようになった。それは少し遅きに失するかもしれないが,この世に問わなければならないことの構想が幾つも浮かびあがってきている。大学を辞めたあとは,現実が突きつける厳しい諸問題についての執筆活動に励んでいこうと思っている。雑務から開放されたいま,そうした自由な活動に自由に取り組んで行こうと思っている。 |
|
米 山 喜久治(よねやまきくじ) 氏(経済学研究科教授)
| 昭和19年1月12日生 |
| (略 歴) |
| 昭和42年3月 |
名古屋工業大学工学部卒業 |
| 昭和44年9月 |
東京工業大学大学院理工学研究科修士課程修了 |
| 昭和49年3月 |
東京工業大学大学院理工学研究科博士課程修了 |
| 昭和49年3月 |
工学博士(東京工業大学) |
| 昭和50年4月 |
明治学院大学経済学部講師 |
| 昭和53年4月 |
明治学院大学経済学部助教授 |
| 昭和54年4月 |
北海道大学経済学部助教授 |
| 昭和63年7月 |
北海道大学経済学部教授 |
| 平成12年4月 |
北海道大学大学院経済学研究科教授 |
私の北海道大学との最初の出会いは,小学6年「国語」教科書の札幌農学校に赴任したクラーク博士が,藻岩山・野外調査の際,学生を自らの背中に立たせて標本を採取させた逸話と別れの辞「少年よ,大志をいだけ」であった。第2は,高校1年時の中谷宇吉郎博士の名著『雪』であった。赴任は,子供の頃から抱くフロンティアのイメージと学風に導かれたものであった。日本列島の北端に位置する積雪寒冷地北海道における学問は,自然に接する純粋経験から始まり,空虚な観念や情報からスタートするものではない。環太平洋と北方圏をクロスさせたフィールドを設定すること。21世紀人類社会が,直面する困難な諸問題の解決に貢献しうる「野外科学」,「現場の科学」の方法による研究と教育こそは,北海道大学の歴史的使命である。若き明治日本の志を継承する学徒による「新しい学の府」としてのさらなる発展を,祈るばかりです。長い間ありがとうございました。 |
|
上 野 武 治(うえのたけじ) 氏(医学部保健学科教授)
| 1943年9月28日生 |
| (略 歴) |
| 1968年3月 |
北海道大学医学部卒業 |
| 1968年4月 |
北海道大学医学部附属病院精神科神経科研修医 |
| 1970年4月 |
市立釧路総合病院医員 |
| 1971年6月 |
北海道大学医学部附属病院医員 |
| 1976年1月 |
北海道大学医学部附属病院助手 |
| 1977年12月 |
市立稚内病院医長 |
| 1978年3月 |
医学博士(北海道大学) |
| 1978年12月 |
北海道大学医学部附属病院助手 |
| 1981年2月 |
北海道大学医学部附属病院講師 |
| 1981年4月 |
北海道大学医療技術短期大学部助教授 |
| 1989年1月 |
北海道大学医療技術短期大学部教授 |
| 2003年10月 |
北海道大学医学部保健学科教授 |
1962年の入学以来,途中の2年間を除く43年余を北12〜14条界隈ですごして来ました。しかし,昨年廃業した「おさむら旅館」との付き合いはもっと古く,小6の修学旅行に始まり,旅館前の電停で乗降する学生時代を経て,医療短大への赴任により再びこの旅館前で生活して来たことになります。
医療短大や保健学科では作業療法士や理学療法士,看護師など保健医療職の教育とリハビリテーションに関る研究に従事して来ましたが,どういう訳か,このところ頭に浮かぶのは北大病院や釧路,稚内で関ってきた患者さん達やそのご家族のことばかりです。
ここ数年,保健医療や介護,福祉の制度改悪が急速に進み,病気や障害を持つ方々の生活は悪化し,地方医療は崩壊しつつあります。こうした日々の報道に接するにつけ,胸が痛むと同時に,退職の感慨に耽ることは許されず,これまでへの厳しい再点検と事態是正に向けての新たな決意が求められていることを痛感するこの頃です。
|
|
武 藤 眞佐子(ぶとうまさこ) 氏(医学部保健学科教授)
| 昭和19年1月1日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
北海道大学医学部附属看護学校卒業 |
| 昭和41年4月 |
北海道大学医学部附属病院看護婦 |
| 昭和48年3月 |
札幌短期大学商業科卒業 |
| 昭和48年4月 |
北海道大学医学部附属看護学校講師 |
| 昭和53年9月 |
東京女子医科大学病院看護婦 |
| 平成3年4月 |
東京医科大学八王子医療センター看護学校設立準備室(教務主任) |
| 平成6年3月 |
放送大学発達と教育専攻卒業 |
| 平成7年4月 |
岩手女子看護短期大学看護学科教授 |
| 平成10年4月 |
北海道大学医療技術短期大学部助教授 |
| 平成12年3月 |
国士舘大学大学院経済学研究科修了
経済学修士(国士舘大学) |
| 平成15年10月 |
北海道大学医学部保健学科教授 |
北大医学部附属看護学校入学以来,看護学校の講師迄15年間の思い出は,挑戦と悩む青年期にある私が,専門職としてのスタートを切った時期でした。農学部の大きな前庭と樹木に備わる品格は,歴史的視座から私に語りかけているようでした。雄大なキャンパス,工学部の緑のとんがり屋根は,夕映えに異国情緒を漂わせ,晩秋の陽光に輝く銀杏並木から,慈しみと励ましを実感したものでした。
再び,平成10年から現在迄の9年間は「北大に少しでも恩返しができれば・・・」との思いで,医短部の発展と医学部保健学科の設置,看護学専攻成人看護学分野における教育と研究に取り組んで参りました。この間,多くの方々からご協力を頂くことができましたことを,心から感謝申し上げます。
看護学専攻が入学生に行う,北大構内オリエンテーリングは,遠友学舎を終着点とし,名所や史跡を尋ね,時代背景や目的,ならびに今日的意味を紐解き,北大が果たすべき役割にふれさせております。
北大人が伝統を引継ぎ,北大のさらなる進化と発展をお祈りしております。 |
|
村 松 宰(むらまつつかさ) 氏(医学部保健学科教授)
| 昭和18年6月18日生 |
| (略 歴) |
| 昭和43年3月 |
徳島大学医学部卒業 |
| 昭和45年3月 |
東京大学大学院医学系研究科修士課程修了 |
| 昭和49年3月 |
東京大学大学院医学系研究科博士課程修了 |
| 昭和49年3月 |
保健学博士(東京大学) |
| 昭和48年8月 |
北海道衛生部 |
| 昭和50年12月 |
北海道大学医学部助手 |
| 昭和57年4月 |
北海道大学医療技術短期大学部助教授 |
| 平成6年4月 |
北海道大学医療技術短期大学部教授 |
| 平成15年10月 |
北海道大学医学部教授 |
幼い頃を別として小学校から高校卒業まで北海道で過ごしましたがその後大学,大学院時代は道外で暮らしました。そのためか,北海道の良いところ悪いところが客観的によく見えるような気がします。それがそのまま北海道大学の印象に結びついているかもしれません。四季の移り変わりがはっきりとし広々と自然豊かな美しい北大キャンパスは,例えば同じ都心にあって広いといわれた東大の本郷キャンパスが鉄筋コンクリートの建物で閉塞感が感じられるようになってきた昨今と比べても恵まれた環境にあるのは確かといえます。開放的で進取に富んだ道民気質はそのまま北大の校風にもなっています。しかしながら私は長い間,留学生委員や国際交流委員を受けさせて頂きましたが,留学生の留学希望先大学として北大は旧7帝大の中で最低ランクにあり,希望しない最大の理由は「北海道は寒くて遠い」となっておりました。実はこれが道外からみた偽らない一般的な負のイメージだと思います。メディアにも問題があるのですが私は何かイベントがあったときその場所の名前を「北の大地」や「北海道」と一派ひとからげに呼ぶのではなくはっきりと「札幌」や「函館」などと都市名を言うべきと思っています。例えば日本ハムファイターズの本拠地は「北の大地」や「北海道」ではなく「札幌」と表現すべきです。「札幌」のイメージは「北海道」の持つイメージと違っているからです。実際,32年間に亘って,その大都市の真ん中に位置する北海道大学で都会のもつ文化的利便性を享受できる学園生活を送ってきました。研究の場で考えてみますと欲しい専門書が大型書店で簡単に手に入りましたし,また昭和40年代から50年代初めでは今と違って簡便な統計解析ソフトが殆どなく,医療や予防医学領域の大量データ解析を研究手技としていた私は当時,全国では主要大学にしか置かれていなかった大型計算機センターに磁気テープやカードボックスを携えてカードリーダーの音を聞いていたのが昨日のように思い出されます。コンピュータ・インフラと人材が揃っていた「札幌」であったこそ出来た仕事も多かったと思っています。
道外からは北大は道内の人が思っている以上にブランド大学と評価されています。研究に終着はありませんし未だ途上との思いが強いので私も4月からは再び道外の大学で研究を続けながら北大が日本の代表的な総合大学としてさらに発展されるよう,OBとして応援し,また見守って参りたいと思います。札幌での恵まれた生活環境で研究生活を送ることができました事をそして御世話になりました皆様に厚く感謝申し上げます。
|
|
中 村 仁志夫(なかむらにしお) 氏(医学部保健学科教授)
| 昭和18年4月8日生 |
| (略 歴) |
| 昭和43年3月 |
北海道大学医学部卒業 |
| 昭和50年2月 |
新潟大学脳研究所助手 |
| 昭和52年5月 |
医学博士(新潟大学) |
| 昭和53年6月 |
北海道大学医学部助手 |
| 昭和57年4月 |
北海道大学医療技術短期大学部助教授 |
| 平成7年4月 |
北海道大学医療技術短期大学部教授 |
| 平成15年10月 |
北海道大学医学部保健学科教授 |
昭和44〜53年を釧路,新潟で過ごした以外は,学生時代を含め通算35年を北大で過ごしました。奇しくも医療技術短期大学部の草創期から閉校まで教育に関与することになり,医学研究科をはじめ,多くの部局の方々に大変お世話になりました。授業の代替えをお引き受け下さった先生方のご支援のもと,在外研究員として10カ月余派遣された英国オクスフォードでの経験がその後の教育・研究に大きく影響しました。
滞英中にBSEが発生し,帰国後平成4年に我が国で最初のBSEの纏まった報告をし,市民公開講座などでも「ヤコブ病とBSE」について繰り返し話す機会を得ました。医学書院医学大辞典の海綿状脳症など21項目の担当は身に余る光栄です。「医療系学生のための病理学」は3版を数えました。
平成元年以降10数年間にできた,「腫瘍病理の歌」「BSEの歌」「脳神経の歌」「染色体の歌」「アポトーシスの歌」「三胚葉の歌」
「脳卒中の歌」「血液細胞の歌」「エイズ(HIV感染症)の歌」「脳死の歌」「糖尿病の歌」「医学・医療史の歌」など20曲近くの医学教育ソングは図らずも私のライフワークとなりそうです。これからも挑戦します。
皆様ごきげんよう。ありがとうございました。
|
|
赤 池 忠(あかいけただし) 氏(歯学研究科教授)
| 昭和18年12月7日生 |
| (略 歴) |
| 昭和44年3月 |
東京大学医学部卒業 |
| 昭和49年3月 |
東京大学大学院医学系研究科博士課程修了 |
| 昭和49年3月 |
医学博士(東京大学) |
| 昭和49年4月 |
東京大学医学部助手 |
| 昭和52年12月 |
名古屋大学医学部助手 |
| 平成7年3月 |
名古屋大学医学部講師 |
| 平成8年10月 |
北海道大学歯学部教授 |
| 平成12年4月 |
北海道大学大学院歯学研究科教授 |
北大に来て10余年,大学生活は45年となる。学問探究に明け暮れた楽しい毎日を過ごさせていただいた。静かに思索を練ることができたのは,喧噪から離れ自然に囲まれた北海道大学の雰囲気のお陰である。また昨今のインターネットの発達により,図書館通いしなくても自室で多くの文献に目を通すことができるようになった。我々生物系の研究者にとって日々の進歩を追うのは大変な作業である。実験動物についてもネコ・ウサギ・ラットと変わってきた。実験動物に対する世間の目も変わってきている。男女差別の解消・身障者にとって暮らし易い生活環境改善と社会での物の見方は,大学を象牙の塔として許していた時代は終わり厳しく細かくなっているのを感ずる。北大での学生との交流には思い出が尽きない。それぞれ立派に大学を巣立って,大いに活躍して欲しい。 |
|
野 口 徹(のぐちとおる)
氏(工学研究科教授)
| 昭和18年5月10日生 |
| (略 歴) |
| 昭和43年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
| 昭和43年4月 |
北海道大学工学部講師 |
| 昭和45年10月 |
北海道大学工学部助教授 |
| 平成元年4月 |
北海道大学工学部教授 |
| 平成9年4月 |
工学研究科教授に配置換 |
母校の教員として39年,学生時代を含めて45年間の北大生活を終えます。小学生の時から憧れていた工学部で人生の過半を過ごせたことは誠に幸せでした。戦後の復興から工業力・技術力が急上昇し,一貫して経済が発展し続けた時代の幸運もありました。
この間に大学を巡る情勢も大きく変わりました。学の蘊奥を極めた学者が少数のエリートを教育する場であった大学は,社会が求める多くの専門家を確実に育成する機能を持たねばならなくなっています。研究者としての教員が,国際的に評価される成果を上げると同時に教育の責任も果たすよう期待される,その両立は容易ではありません。学生諸君もまた,明確な目的意識と自覚をもって勉学することが求められます。
世界各国,特にアジア,東欧などの若者の高い意欲,また欧米の学生の強い自信を見る時,北海道大学の学生もまた,高い志を持ち,世界に通用する若者達であれとの思いを深くします。大好きな北大がいつまでも輝き続けるよう願い,期待しています。 |
|
澤 村 貞 史(さわむらさだし) 氏(工学研究科教授)
| 昭和18年10月11日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
| 昭和43年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
| 昭和46年3月 |
北海道大学大学院工学研究科博士課程修了 |
| 昭和46年3月 |
工学博士(北海道大学) |
| 昭和46年4月 |
北海道大学工学部助手 |
| 昭和48年4月 |
北海道大学工学部講師 |
| 昭和55年8月 |
北海道大学工学部助教授 |
| 平成7年4月 |
北海道大学工学部教授 |
| 平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
昭和37年4月,津軽の海を初めて越えました。以来,45年間に何度この海峡を往復したか定かではありません。連絡船の中で,この下にトンネルのできる日の夢を語り合ったこともありました。特急に乗ることなどは贅沢で,飛行機に乗ることなど思いもしないころでした。いつしか“往復”の字で表わす方向が,意識の中でも逆になり,そして今,誰もが何の感慨も抱かずに飛行機で行き来する時代になり,定年を迎えます。この間,卒業論文でふと出会った放射線や放射性同位元素とその後一貫して付き合うこととなりました。パルス状放射線の測定では附属農場に大変お世話になりました。手稲山に沈む夕日の美しさに息を呑みながら実験ができる幸せを感じました。完成したばかりの加速器を使ってピコ秒,ナノ秒といった極短時間内での化学反応を追っかけた興奮も忘れられません。表層土壌中の微量放射性同位元素の動態測定も出来るようになり,愉しい大学生活を送らせていただきました。これもみな,諸先生や職員の皆様,先輩,同輩そして学生諸氏のお陰と深く感謝いたします。今後も柔軟でおおらかな大学であり続けて欲しいと願っています。 |
|
榎 戸 武 揚(えのとたけあき) 氏(工学研究科教授)
| 昭和19年3月28日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
| 昭和43年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
| 昭和46年3月 |
北海道大学大学院工学研究科博士課程修了 |
| 昭和46年3月 |
工学博士(北海道大学) |
| 昭和46年4月 |
北海道大学工学部研究生 |
| 昭和46年8月 |
北海道大学工学部助手 |
| 昭和50年4月 |
北海道大学工学部助教授 |
| 平成2年4月 |
北海道大学工学部教授 |
| 平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
| 平成16年4月 |
北海道大学エネルギー変換マテリアル研究センター長 |
北大に入学してから45年間に亘って,北大のキャンパスに育まれ教育・研究に従事できたことを大変幸せに感じております。電子工学科学生時代に授業で受けた,空間の複素インピーダンスの概念に強く心引かれ,電磁界の回路網解析法の研究,プラズマ密度のホログラフィー計測,超高速度駒取りカメラの開発,赤外−可視2段ホログラフィー計測法など,振り返ってみますと,電磁波・光の複素平面での取り扱い,位相に係わる研究・教育に携わって来たことに気づきました。
この5年ほどの間は,生協理事長あるいは全学教務委員として北大生の教育・正課外活動・福利厚生に幾ばくかの貢献が出来たかと満足しております。北大の花である延齢草は花が開くまでに15年を要するそうです。大学に於ける教育研究も長い時間を経過して花開く活動であります。これからも北大らしく着実な歩みを進めていただきたいと念じております。有り難うございました。 |
|
鏡 味 洋 史(かがみひろし) 氏(工学研究科教授)
| 昭和18年8月3日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
東京工業大学理工学部卒業 |
| 昭和41年4月 |
東京工業大学理工学部助手 |
| 昭和49年7月 |
北海道大学工学部助手 |
| 昭和52年2月 |
工学博士(東京工業大学) |
| 昭和52年4月 |
北海道大学工学部講師 |
| 昭和54年4月 |
北海道大学工学部助教授 |
| 平成2年4月 |
北海道大学工学部教授 |
| 平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
| 平成12年4月 |
東北大学大学院工学研究科客員教授(平成16年3月まで併任) |
昭和41年卒業と同時に助手に採用されて以来,41年,北海道大学にお世話になるようになって32年8ヶ月で定年を迎えることができました。この間よき師,よき同僚,よき学生に恵まれ研究を楽しく進めてこられたことをうれしく思います。大学では建築学を学び構造系に,そして構造物に被害を与える地震動の研究をテーマとしました。地域の地震動分布に与える地盤の影響について,地震時の被害分布,実測による検証を大切にして研究を進めてきました。微動による地盤構造の探索を国内だけでなく,海外との共同観測を含め進めてきました。さらに,地域内の地震動の分布から被害予測,地震防災への問題と展開してきました。
平成15年十勝沖地震は繰返し発生する海溝型の巨大地震として他地域に先駆けて発生し長周期地震動の問題などを提起しています。北海道からの問題発信,研究展開を期待しています。 |
|
小 沼 操 (おぬまみさお) 氏(獣医学研究科教授)
| 昭和19年4月1日生 |
| (略 歴) |
| 昭和44年3月 |
北海道大学獣医学部卒業 |
| 昭和46年3月 |
北海道大学大学院獣医学研究科修士課程修了 |
| 昭和46年5月 |
札幌医科大学助手 |
| 昭和49年5月 |
米国ウィスコンシン大学獣医学科研究員 |
| 昭和49年6月 |
獣医学博士(北海道大学) |
| 昭和51年9月 |
北海道大学獣医学部助手 |
| 昭和59年4月 |
酪農学園大学獣医学科助教授 |
| 平成元年7月 |
北海道大学獣医学部教授 |
私は36年余り北大をはじめ4つの大学で研究,教育をしてきました。
その間,よき師・同僚・学生達にめぐまれ定年を迎えることができました。
皆様に心からお礼を申し上げます。
感染症の宿主・寄生体関係に興味を持ちこの世界に入りました。病原微生物がどのようにして宿主の免疫から逃れ生き残ってきたか,その戦略を知ることで感染症を制御できるのではないかと考え,これまで癌ウイルスや原虫による疾病の病態解明やワクチンによる制御を研究してきました。病原微生物は宿主である動物に感染(寄生)を繰り返し,宿主と共進化して現在に至っている。病原微生物の生残り戦略を理解することにより,疾病を制御するという考えは間違ってはいなかったが,いつも微生物のしたたかさに思い知らされてきたが,このような感染症研究の一端に携わることができ幸せでした。
大学在職中,真理を探求し成果を社会に還元するという思いが自分の研究のエネルギーでした。今,法人化による改革の最中です。真理追求という大学本来の姿を持ち続け,改革に大胆に取り組むことを期待しています。 |
|
前 出 吉 光(まえでよしみつ) 氏(獣医学研究科教授)
| 昭和19年生 |
| (略 歴) |
| 昭和42年3月 |
北海道大学獣医学部卒業 |
| 昭和44年3月 |
北海道大学大学院獣医学研究科修士課程修了 |
| 昭和44年4月 |
日本モンキーセンター |
| 昭和45年6月 |
北海道大学獣医学部助手 |
| 昭和55年3月 |
獣医学博士(北海道大学) |
| 昭和60年5月 |
北海道大学獣医学部助教授 |
| 昭和62年11月 |
北海道大学獣医学部教授 |
| 平成元年8月 |
北海道大学獣医学部附属家畜病院長 |
| 平成5年8月 |
| 平成5年6月 |
北海道大学評議員 |
| 平成7年5月 |
| 平成7年8月 |
北海道大学獣医学部附属家畜病院長 |
| 平成8年3月 |
| 平成8年4月 |
北海道大学大学院獣医学研究科長,評議員 |
| 平成11年3月 |
| 平成11年4月 |
北海道大学高等教育機能開発総合センター長,副学長,評議員 |
| 平成13年4月 |
| 平成12年4月 |
北海道大学アドミッションセンター長 |
| 平成12年5月 |
| 平成13年4月 |
北海道大学附属図書館長 |
| 平成13年4月 |
| 平成13年8月 |
北海道大学大学院獣医学研究科附属家畜病院長 |
| 平成15年8月 |
入学した昭和38年当時の北大は構内の随所に農学校時代の牧歌的風景が残っており,季節毎に移り変わるそれらの景色は,喧騒の大都会,大阪からはるばるやってきた私を魅了し続けた。さらに,恵迪寮,桑園学寮で過ごした学生生活は,それまでの模範的な優等生としての私の生活を一変させた。その生活を4年で終わらせるのはあまりにも惜しいことであったので大学院へ進学することにした。当時の獣医学部は全国唯一の国立大学の学部であったが,学生の人気は全学で最低で,しばしば定員割れを起こしていた。しかし小所帯ながらも新興の学部ということで先生方の研究意欲は高く,大学外では多分あまり役に立たないと思われる方々が意気軒昂,それぞれにユニークな研究を進め,我が国の獣医学をリードされていた。こうして,北大の自然環境と学寮や獣医学部で出会った様々な変わった人たちからの強い刺激によって私自身がいつのまにか北大から離れられない体質に変えられてしまい,気がつくと40年余の月日が過ぎていた。この間,私は常に学生に囲まれ,研究仲間の同僚や後輩とも苦楽を共にするという幸福な大学生活を送らせていただいた。さらに,研究科長や高機能センター長を拝命したことにより,大学を支える多くの有能な事務職員とも触れ合うことができた。特に高機能センターでは,建物改修と全学教育充実のために努力してくれた当時の学務部職員の人たちの協力は今も忘れることができない。
我が愛する北大が,その良さを失うことなく,さらに多くの学生から慕われる大学として発展してくれることを心より願っている。 |
|
縺@原 幹 典(くわばらみきのり) 氏(獣医学研究科教授)
| 昭和18年4月26日生 |
| (略 歴) |
| 昭和42年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
| 昭和44年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
| 昭和44年10月 |
北海道大学獣医学部助手 |
| 昭和52年3月 |
理学博士(北海道大学) |
| 昭和56年11月 |
北海道大学獣医学部助教授 |
| 平成8年4月 |
北海道大学大学院獣医学研究科教授 |
| 平成11年4月 |
北海道大学評議員 |
| 平成15年3月 |
昭和44年,北海道大学大学院理学研究科博士課程を中退し,新設の獣医学部獣医放射線学講座に助手として採用して頂きました。物理学から獣医学という私に取りましては全く未知の世界に入りましたので,まるで羅針盤の無い船で大海に乗り出す様な心境だったことを覚えております。幸いにも,獣医学部の先生方に暖かく迎えて頂き,定年に至るまで大過なく過ごさせて頂きました。獣医学部に赴任した当初は,何人かの先生方に獣医学の専門書あるいは自らの講義ノートを頂いたこと,また,私は当時助手会のメンバーに加えて頂きましたが,そのときに知り合った先生方とはその後,獣医学会,シンポジウム,獣医学関連協議会等でお会いする度に旧交を温めることが出来たこと等々,これ以上の無い宝物を頂くことが出来ました。ここに,改めて獣医学部の先生ならびに職員の方々にお礼申し上げる次第です。最後に,北海道大学ならびに獣医学研究科の更なる発展をお祈り申し上げます。 |
|
三田村 好 矩(みたむらよしのり) 氏(情報科学研究科教授)
| 昭和19年2月1日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
名古屋工業大学計測工学科卒業 |
| 昭和46年3月 |
北海道大学大学院工学研究科博士課程修了 |
| 昭和46年3月 |
工学博士(北海道大学) |
| 昭和46年7月 |
北海道大学応用電気研究所助手 |
| 昭和53年4月 |
同研究所助教授 |
| 平成元年4月 |
北海道東海大学工学部教授 |
| 平成10年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
| 平成16年4月 |
北海道大学大学院情報科学研究科教授 |
昭和46年から18年間応用電気研究所(現電子科学研究所)に,平成10年から9年間工学部に勤務し,このたび定年退職することになりました。この間何とか過ごすことができましたのは,皆様のお陰と感謝しております。
途中で9年間私立大学に勤務しました。私立大学は創立者の建学の目的や精神に基づいて創立されており,それに基づいて教育が行われています。一方,従来の国立大学は,特定の精神に基づいて教育することはタブー視されていました。しかし,国立大学が法人化されたこと,大学間の競争が激しくなったことより,本学は何を目的に設置されているかを明らかにすることが求められています。幸い,本学には創立の時からはっきりとした建学の目的がありました。法人化を機会に,建学の目的を改めて確認し,それに基づいて教育・研究を進めれば,本学の更なる発展があると確信しています。長い間お世話になりありがとうございました。 |
|
三 宅 秀 男(みやけひでお) 氏(水産科学研究院教授)
| 昭和19年2月9日生 |
| (略 歴) |
| 昭和43年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
| 昭和47年7月 |
北海道大学大学院理学研究科博士課程中退 |
| 昭和47年8月 |
北海道大学水産学部附属北洋水産研究施設助手 |
| 昭和59年9月 |
水産学博士(北海道大学) |
| 昭和61年6月 |
北海道大学水産学部附属北洋水産研究施設助教授 |
| 平成7年4月 |
北海道大学水産学部助教授 |
| 平成10年10月 |
北海道大学水産学部教授 |
| 平成12年4月 |
北海道大学大学院水産科学研究科教授 |
| 平成17年4月 |
北海道大学大学院水産科学研究院教授 |
北海道の大自然とクラーク先生や中谷宇吉郎先生に憧れて北大に入学し,そのまま教員としてお世話になりました。学生の頃にフィールドを楽しみながら生きていけたらいいなあと勝手なことを考えていましたが,高度成長の波に乗ってほぼそのような四十余年を過すことができ感謝しております。札幌時代は,湖沼や温泉,火山に,函館では噴火湾や陸奥湾から,ベーリング海,北極海まで調査や研究で駆けめぐり,楽しい思い出を沢山残すことができました。
戦後の体制の見直しが声高に叫ばれていますが,終戦後の間もない頃に戦争に対する深い反省と新しい教育理念のもとで育った私には,クラーク先生の理念や札幌農学校の初期の卒業生の思想は心の中で輝き放っています。研究の発展はもとよりですが,時流に流されないで高い見識を世の人々に示すことができる大学であることを願っております。 |
|
山 本 勝太郎(やまもとかつたろう) 氏(水産科学研究院教授)
| 昭和18年9月12日生 |
| (略 歴) |
| 昭和42年3月 |
北海道大学水産学部卒業 |
| 昭和44年3月 |
北海道大学大学院水産学研究科修士課程修了 |
| 昭和44年4月 |
北海道大学水産学部助手 |
| 昭和55年9月 |
水産学博士(北海道大学) |
| 昭和63年4月 |
北海道大学水産学部助教授 |
| 平成7年4月 |
北海道大学水産学部教授 |
| 平成12年4月 |
北海道大学大学院水産科学研究科教授 |
| 平成17年4月 |
北海道大学大学院水産科学研究院教授 |
大学院修士課程修了後すぐに助手(水産学部)に採用されて以来38年間北大に勤めさせて頂きました。この間丁度半分の19年間を助手として勤めました。振り返って見るとこの助手の時代が一番懐かしく楽しかった様に思われます。夏休みに学生達と一緒に巻尺と竿を使って人海戦術で行った平磯調査,魚探と測量用水準器を使った漁場図作り,院生と競い合って作った容量式波高計,今も水槽実験で使っている防水型の2分力計の製作等々。この助手時代に実際に手を動かしながら経験した多くの事が私の教育・研究の糧となりました。
水産学部も平成7年の学部改組,平成12年,17年の2度の大学院改革を経て,今や卒業生は自分の出身講座が分からなくなるまでに講座の名前も変りました。漁業という冠はなくなり環境と資源を頭に付けなければ生き残れない時代となっています。これからの皆様の生き残りを懸けた奮闘を期待しております。
最後に,今年創基100周年を迎える水産学部水産科学院の新たな発展と北大の益々の発展を願い,併せて皆様方のご健勝を祈念致します。 |
|
猪 上 徳 雄(いのうえのりお) 氏(水産科学研究院教授)
| 昭和19年1月24日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
北海道大学水産学部卒業 |
| 昭和46年3月 |
北海道大学大学院水産学研究科博士課程修了 |
| 昭和46年3月 |
水産学博士(北海道大学) |
| 昭和47年4月 |
北海道大学水産学部助手 |
| 昭和62年2月 |
北海道大学水産学部助教授 |
| 平成6年4月 |
北海道大学水産学部教授 |
| 平成12年4月 |
北海道大学大学院水産科学研究科教授 |
| 平成17年4月 |
北海道大学大学院水産科学研究院教授 |
| 平成11年4月 |
北海道大学評議員 |
| 平成16年4月 |
| 平成16年4月 |
北海道大学大学院水産科学研究院副研究院長 |
| 平成19年3月 |
山育ちの生徒が,海にあこがれて北海道大学の水産学部に入学して45年が経過しました。昭和40年,たんぱく源としての水産資源活用をしていた谷川英一先生の下で指導を受けたことが,その後35年間教育研究に携わるきっかけとなりました。水産物の利用が缶詰の全盛期を経て冷凍食品への時代に変化していく中で,研究も冷凍変性を中心に展開してきました。この間,多くの先輩,同僚,教職員の皆さん,学生達に支えられて,大学での生活を楽しんで過ごすことができました。心から感謝申し上げます。水産学部では,2度の大学院改組(平成12年と平成17年)および学部再編成(平成18年)など教育研究体制が大きく変化し,100年を経て今世紀の新しい教育研究体制が整いました。その中で教育の質の向上面で多少なりとも関わることで,少しは恩返しができたのではないかと考えています。一層の研究発展と社会で活躍する人材育成を期待して止みません。 |
|
三 宅 敏 恒(みやけとしつね) 氏(理学研究院教授)
| 昭和19年3月27日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
大阪大学理学部卒業 |
| 昭和41年4月 |
東京大学大学院理学系研究科修士課程入学 |
| 昭和42年9月 |
アメリカ合衆国ジョンズホプキンス大学大学院入学 |
| 昭和44年6月 |
アメリカ合衆国ジョンズホプキンス大学大学院修了 |
| 昭和44年6月 |
Ph.D(ジョンズホプキンス大学) |
| 昭和44年7月 |
アメリカ合衆国プリンストン高等研究所研究員 |
| 昭和46年4月 |
| 昭和44年9月 |
東京大学大学院理学系研究科数学専門課程修士課程中退 |
| 昭和46年4月 |
大阪大学理学部助手 |
| 昭和47年4月 |
京都大学理学部講師 |
| 昭和51年9月 |
北海道大学理学部助教授 |
| 平成元年4月 |
北海道大学理学部教授 |
| 平成7年4月 |
北海道大学大学院理学研究科教授 |
| 平成18年4月 |
北海道大学大学院理学研究院教授 |
私が北海道大学にお世話になってから,今年で丁度30年,正確に言うと9月に赴任しましたので,30年と7ヶ月になります。30年という月日は,経ってしまえば本当に短い時間でした。今では北大の周りにはマンションが林立して取り囲んでいますが,私が札幌に呼んで頂いた30年前は,
本当に田舎で閑散としておりました。ロシア菓子屋が1軒寂しくあるくらいで,他には何にもなかったような気がします。それが,いつの間にか道が広くなり,北大を横切るトンネルが出来て,急に18条から14条の地下鉄の界隈も大都会になりました。札幌駅の北口も賑やかになりました。全く隔世の感があります。こんなに周りが発展しているのに北海道大学には,まだまだ自然が残っているすばらしい所であると思います。科学の発展と自然の保護を調和させることが,私共に課せられた義務だと思います。北海道大学の発展をお祈りします。 |
|
中 原 純一郎(なかはらじゅんいちろう) 氏(理学研究院教授)
| 昭和18年8月5日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
大阪大学理学部卒業 |
| 昭和43年3月 |
大阪大学大学院理学研究科修士課程修了 |
| 昭和46年3月 |
大阪大学大学院理学研究科博士課程退学 |
| 昭和46年4月 |
東京大学物性研究所助手 |
| 昭和46年9月 |
大阪大学大学院理学研究科物理学専攻博士課程修了 |
| 昭和46年9月 |
理学博士(大阪大学) |
| 昭和55年3月 |
北海道大学理学部助教授 |
| 平成4年4月 |
北海道大学理学部教授 |
| 平成7年4月 |
北海道大学大学院理学研究科教授 |
| 平成18年4月 |
北海道大学大学院理学研究院教授 |
北海道大学へ来るときは10年のつもりでしたが,はや28年,とうとう退職する年までいることになってしまいました。北国それは学生時代に旅行で来たときに,冬は遊んで暮らせる良いところ,そんな地元の人の甘言に惑わされやってきたものの,研究と教育を両立させる身にとっては学生の休みには忙しく,教室会議も勤務時間の終わり近くに始まりエンドレス,あたふたと過ごしている間に時がたってしまったような気がします。ようやく自分の仕事が出来るように環境が整ったと思ったときに思わぬ事から何も出来なくなりましたが,遠くの友人や学内の先生方に助けられ,やっと無事研究生活を終えれる日が近づきました。研究に明け暮れた楽しさを胸にしまい込んでの退職です。
|
|
増 田 道 夫(ますだみちお) 氏(理学研究院教授)
| 昭和18年4月5日生 |
| (略 歴) |
| 昭和43年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
| 昭和45年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
| 昭和49年3月 |
北海道大学大学院理学研究科博士課程修了 |
| 昭和49年3月 |
理学博士(北海道大学) |
| 昭和49年4月 |
北海道大学理学部研究生 |
| 昭和50年1月 |
北海道大学理学部助手 |
| 昭和57年6月 |
北海道大学理学部講師 |
| 昭和61年7月 |
北海道大学理学部助教授 |
| 平成5年4月 |
北海道大学理学部教授 |
| 平成7年4月 |
北海道大学大学院理学研究科教授 |
| 平成18年4月 |
北海道大学大学院理学研究院教授 |
昭和38年以来北大にお世話になりました。昭和44年から約5年間,当時の理学部附属海藻研究施設(室蘭市)に在籍しましたが,それ以外のほとんどを札幌のキャンパスで過ごしました。対象はいくつか変わったものの,子供の頃から好きなことに熱中する性格は変わらず,大学院入学後は実験・観察用の海藻採集,培養,検鏡,論文執筆と,あっという間に定年を迎えてしまった感じがします。調査対象海域も北海道を中心とする寒流域から熱帯を含む暖流域へと変わり,東南アジアの学術調査では得難い体験(ベトナムからプークオク島に向かう途中,チャーターした小さな漁船のエンジンが止まり,1つの島影も船影も見えないタイランド湾での漂流)もしました。先生方をはじめ,先輩諸兄,スタッフの方々,そして学生諸君のおかげで充実した研究生活を送ることができました。心から御礼申し上げます。法人化に伴う教育研究上の難問を解決して,我が愛するエルムの学園の今後の発展を祈念いたします。 |
|
岡 田 弘(おかだひろむ) 氏(理学研究院附属地震火山研究観測センター教授)
| 昭和18年12月27日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
| 昭和43年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
| 昭和43年4月 |
北海道大学理学部助手 |
| 昭和52年3月 |
理学博士(北海道大学) |
| 昭和54年10月 |
北海道大学理学部講師 |
| 昭和56年7月 |
北海道大学理学部附属有珠火山観測所助教授 |
| 昭和62年4月 |
北海道大学理学部附属有珠火山観測所長 |
| 平成10年4月 |
| 平成10年4月 |
北海道大学大学院理学研究科附属地震火山研究観測センター助教授 |
| 平成10年8月 |
北海道大学大学院理学研究科附属地震火山研究観測センター教授 |
| 平成14年4月 |
北海道大学大学院理学研究科附属地震火山研究観測センター長 |
| 平成16年4月 |
| 平成18年4月 |
北海道大学大学院理学研究院附属地震火山研究観測センター教授 |
助手発令日は創設直後の理学部付属浦河地震観測所にいた。戻って最初の仕事は,セスナ機で積雪調査中の同僚助手2名が行方不明になった対策だった。地球物理学教室助手時代は,地球科学はプレートテクトニクス説の確立期でゼミが面白かった。米国カーネギー研究所での2年間の地震研究,そこで目を世界に広げられたことが,その後の研究ベースとなった。ScSp波の発見で島弧下のプレートを実証し,博士号をいただいた。1977年有珠山噴火が契機で,専門を地震学から火山物理学へ変えた。世界で始めてテレメータや光波測量などの新手法を組織的に活用し,地震空白域・地震ファミリー・低周波地震・直前予知など,噴火予知科学の飛躍時代だった。予知計画で設立された有珠火山観測所で20年間過ごした。観測・研究成果を社会でどう生かすか,ハザードマップ拒絶時代から,社会が理解し行動し,2000年有珠山噴火を死傷者なしで迎えることができたことは,かえすがえすも嬉しかった。基礎と応用の二つの車輪を回しながら,現場で世界的な仕事をめざした39年間となった。 |
|
内 藤 繁 男(ないとうしげお) 氏(農学研究院教授)
| 昭和18年12月4日生 |
| (略 歴) |
| 昭和42年3月 |
東京農工大学農学部卒業 |
| 昭和45年3月 |
北海道大学大学院農学研究科修士課程修了 |
| 昭和42年4月 |
塩野義製薬株式会社植物薬品部 |
| 昭和46年1月 |
日本甜菜振興会てん菜研究所研究員 |
| 昭和48年7月 |
農林省北海道農業試験場てん菜部研究員 |
| 昭和56年4月 |
農林水産省北海道農業試験場てん菜部主任研究官 |
| 昭和57年12月 |
農学博士(北海道大学) |
| 昭和63年10月 |
農林水産省北海道農業試験場畑作管理部主任研究官 |
| 平成元年3月 |
インドネシア国中央作物研究所(長期派遣職員) |
| 平成3年4月 |
農林水産省東北農業試験場地域基盤部研究室長 |
| 平成9年4月 |
農林水産省北海道農業試験場生産環境部研究室長 |
| 平成12年4月 |
北海道大学大学院農学研究科教授 |
| 平成18年4月 |
北海道大学大学院農学研究院教授 |
人類初の月面第一歩,内では学園紛争といった出来事の学生時代から37年,この間,主に農水省試験研究機関を渡り歩き,29年振りに母校に奉職し,それまでの試験研究現場での経験を微力ながら教育現場に活かす機会を与えられたことに感謝いたします。
植物病理学研究室は札幌農学校2期生の宮部金吾先生にその起源を遡り,わが国における植物病理学の発祥の地となっています。この伝統ある研究室を運営するにあたり,赴任当初は,学生時代の農業生物学科の錚錚たる諸先生方の面影もあり,大変な役を引き受けたものだと思いました。幸い(?)にも,予想以上に大学の変革が進んでおり,歴史の重みにつぶされず勤めることができました。人間は虫のいいもので,昨今の加速度的な大学の変革の中で,失われつつある伝統に郷愁すら感じるようになってきました。つまり,学舎を去る潮時の域に入ってき,時は将に定年となりました。大過なく定年を迎えることができましたことに感謝するとともに,本学の未来永劫の益々の発展を祈念致します。 |
|
大 澤 勝 次(おおさわかつじ) 氏(農学研究院教授)
| 昭和18年9月28日生 |
| (略 歴) |
| 昭和42年3月 |
北海道大学農学部卒業 |
| 昭和42年4月 |
農林省農業技術研究所生理遺伝部遺伝科研究員 |
| 昭和42年7月 |
農林省園芸試験場蔬菜部育種第一研究室研究員 |
| 昭和54年4月 |
農林水産省野菜試験場主任研究官 |
| 昭和60年3月 |
農学博士(北海道大学) |
| 昭和60年4月 |
農林水産省農業生物資源研究所細胞育種部遠縁雑種研究室長 |
| 平成4年7月 |
茨城県農業総合センター生物工学研究所長 |
| 平成7年3月 |
農林水産省農業生物資源研究所細胞育種部長 |
| 平成8年10月 |
農林水産省農業生物資源研究所生物工学部長 |
| 平成10年7月 |
農林水産省北海道農業試験場地域基盤研究部長 |
| 平成12年4月 |
北海道大学大学院農学研究科教授 |
| 平成18年4月 |
北海道大学大学院農学研究院教授 |
縁があって,青春の5年間を過ごした北大農学部の,自分が学んだ出身教室の教授に赴任することになって,あっという間の7年間でした。晴れた日はもちろん,風や雨,雪の日でも,毎朝農学部に通うのが楽しくて仕方ありませんでした。北大に戻って来るまでの33年間の,野菜試験場や農業生物資源研究所等での実学的な経験を,講義時間やゼミの折に彼らに伝えられることは実にありがたいことでした。後輩たちの目の輝きに囲まれて過ごせた幸せを,あらためて思い出しています。北海道農業の現実と未来への希望を語り,新しい園芸作物への熱い思い,食と食材の重要性を語っていると,つい時間を忘れました。未来を担う若者に有機農業や園芸療法の展望を語り,技術開発の夢を語ることが許される職業。なんとありがたいことでしょう。法人化後の厳しい現実を認識した上で北大に残る皆さんに伝えたい。若者に自らの夢や信念,思いを伝えられる職場は他にありません。今後もフロンティア精神に溢れた農学部でありつづけてください。
|
|
端 俊 一(はたしゅんいち) 氏(農学研究院教授)
| 昭和19年1月6日生 |
| (略 歴) |
| 昭和42年3月 |
北海道大学農学部卒業 |
| 昭和42年4月 |
帯広畜産大学畜産学部助手 |
| 昭和46年4月 |
北海道大学農学部助手 |
| 昭和55年6月 |
農学博士(北海道大学) |
| 平成8年3月 |
北海道大学農学部助教授 |
| 平成12年4月 |
北海道大学大学院農学研究科教授 |
| 平成18年4月 |
北海道大学大学院農学研究院教授 |
学生時代を含めると,41年間北大にお世話になりました。学生のときに,恩師から「大学の助手にならないか」と声をかけていただいたのがきっかけで,農業作業機械に関する研究と教育に携わってきました。私が農学部を卒業した当時は国をあげて農業の近代化が進められていた時期でもあり,次々と新しい農業機械が研究・開発されていました。今ではごく普通の機械である田植機も,この頃は産官学をあげての開発のまっただ中でした。これに続く農業機械化の発展期から,オイルショックや輸入農産物の自由化を契機とした省力化・低コスト化,さらには環境保全と食料生産の調和など,農業を取りまく多様な状況の中で研究できたことは,“人間の営みとしての農業”を考える貴重な経験であったと感謝しています。また,最後に国立大学法人を3年経験したことは,大学がどうあるべきかを改めて考えるよい機会でもありました。札幌農学校に源流をもつ北大が,今後ともユニークな大学として発展されるよう願いつつ,北大の外から応援したいと思います。有り難うございました。 |
|
和 田 龍 彦(わだたつひこ) 氏(農学研究院教授)
| 昭和18年12月9日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
千葉工業大学電子工学科卒業 |
| 昭和44年4月 |
北海道大学応用電気研究所助手 |
| 昭和58年3月 |
北海道大学医療技術短期大学部助教授 |
| 平成4年6月 |
北海道大学医療技術短期大学部教授 |
| 平成15年10月 |
北海道大学大学院農学研究科教授 |
| 平成18年4月 |
北海道大学大学院農学研究院教授 |
北海道大学に通い初めて40年強,これまで過ごしてきた道のりを振り返るとき,あれこれの思い出が走馬燈のように浮かんでは消えてゆく。その中でも時折フラッシングされたような場面が現れ,前後の時代風景が呼び起こされる。前ばかりを見つめてきた教職生活を終えて退職の時を迎え,初めて過去を振り返る特権を得たような気がする。大学紛争という荒波もあった応用電気研究所(現電子科学研究所)時代,17年もの間良き教官や仲間の中で多岐に渡る研究に勤しむことができた。北大に国立大学医療技術短期大学部が併設された次の年,機会があって研究所から転出し,約二十年もの間教育研究半々の時期を過ごした。研究所時代とは異なり,毎年新たに若い生き生きとした学生が入ってくるので,常に新鮮な気持ちを保つことができた。その後,教養教育改革による全学教育の立場から農学研究科に配置換えし,短時間ではあったが濃縮された毎日を経てこの時を迎えた。戦時中に生まれた我々が,周りの多くの方々に支えられて,ここまで行き着いた歴史を大事にしたい。北海道大学のより良き発展を祈り,感謝しつつ筆を置かせて頂くこととする。 |
|
諏 訪 正 明(すわまさあき) 氏(農学研究院教授)
| 昭和18年8月24日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
北海道大学農学部卒業 |
| 昭和43年3月 |
北海道大学大学院農学研究科修士課程修了 |
| 昭和49年3月 |
北海道大学大学院農学研究科博士課程修了 |
| 昭和49年3月 |
農学博士(北海道大学) |
| 昭和49年10月 |
北海道大学農学部助手 |
| 平成7年8月 |
北海道大学農学部助教授 |
| 平成8年4月 |
北海道大学農学部教授 |
| 平成11年4月 |
北海道大学大学院農学研究科教授 |
| 平成13年4月 |
北海道大学総合博物館長 |
| 平成15年3月 |
| 平成14年4月 |
北海道大学評議員 |
| 平成15年3月 |
| 平成15年4月 |
北海道大学大学院農学研究科長,農学部長 |
| 平成18年3月 |
| 平成18年4月 |
北海道大学大学院農学研究院教授 |
| 平成18年4月 |
北海道大学大学院農学研究院長大学院農学院長,農学部長 |
| 平成19年3月 |
イナゴやアメリカザリガニをおやつ代わりに育った幼子は,ごく自然にセミやトンボを追いかける昆虫少年になりました。半世紀後の今,松村松年博士の開設した昆虫学教室で定年を迎えます。恵まれた年月でありました。多くの方々のお蔭であり,感謝の念が溢れます。
世間では,命が軽んじられる出来事が相次いでおります。変容する社会にあって居場所を定められない人が,大人も子供も,増えているからと思います。「経済とは庶民がこの世に生まれてよかった,楽しい思いをしたと思って死ねる世界を作ることである。そのためには経済にHumanism,すなわち倫理性が伴わなければならない」という新渡戸先生の教えが今こそ大事であると痛感されます。
大学も否応のない競争社会にあり,今しばらくは大きな振幅の中で様々な試みが為されるのでしょうが,大学人の競争は切磋琢磨の一形態であって欲しいと願います。「樹氷咲く壮麗の地」にあって,「貴とき野心の訓へ」を培い築いてきた本学には,これからも有為の若者が集い,そして次代を担うことでしょう。 |
|
寺 沢 実(てらざわみのる) 氏(農学研究院教授)
| 昭和18年5月3日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
北海道大学農学部卒業 |
| 昭和45年6月 |
帯広畜産大学畜産学部助手 |
| 昭和56年3月 |
農学博士(北海道大学) |
| 昭和59年8月 |
北海道大学農学部助教授 |
| 平成元年4月 |
北海道大学農学部教授 |
| 平成11年4月 |
北海道大学大学院農学研究科教授 |
| 平成18年4月 |
北海道大学大学院農学研究院教授 |
昭和38年(1963年)4月に北大理類に入学以来,44年の永きにわたって北海道に住み着いた事になる。恐らくここに骨を埋めることになるであろう。この間,昭和45年から帯広畜産大学に14年間助手として赴任した。就職,結婚,3人の子育て,博士号の取得,アメリカ留学など,青春の思い出の地である。故三宅基夫教授,奥山寛教授,藤野安彦教授,伊藤精亮教授はじめ多くの方々に大変お世話になった。構内に宿舎があり,3度の食事を家族とともに出来た。学生もしょっちゅう家に来た。ソフトボールとジンギスカン鍋。ラグビー部と乗馬クラブ。研究のための時間はたっぷりあった。すばらしい助手仲間に恵まれて切磋琢磨した。書斎は教室という生活。実に良かった。懐かしい。
昭和59年に北大農学部に助教授として戻り,あっという間に23年が過ぎた。故半澤道郎教授,香山彊教授,故榊原彰教授,故宮島寛教授,笹谷宜志教授はじめ多くの方々に大変お世話になった。戻ってからは,学部改革,大学院改革,国立大学法人化など,立て続けの改革のための会議,会議。めまぐるしい組織改編。次々と回ってくる講義。研究生活にどっぷりという訳にはいかなかった。それでも樹木やキノコの含有化学成分,白樺樹液の飲料化,オガ屑利用のバイオマス廃棄物の資源化・循環などの研究を,どうにかこうにかやってこられた。教室の教職員・学生・院生諸氏の協力のお陰であり,ここに深謝したい。
|
|
田 原 哲 士(たはらさとし) 氏(農学研究院教授)
| 昭和18年4月5日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
北海道大学農学部卒業 |
| 昭和43年3月 |
北海道大学大学院農学研究科修士課程修了 |
| 昭和43年4月 |
北海道大学農学部助手 |
| 昭和50年3月 |
農学博士(北海道大学) |
| 昭和50年6月 |
北海道大学農学部助教授 |
| 平成7年8月 |
北海道大学農学部教授 |
| 平成11年4月 |
北海道大学大学院農学研究科教授 |
| 平成11年8月 |
北海道大学評議員 |
| 平成14年3月 |
| 平成18年4月 |
北海道大学大学院農学研究院教授 |
昭和37年札幌の地を踏み,学部,修士課程は農芸化学科生物化学講座で終え,昭和43年同学科新設の農薬化学講座小幡彌太郎教授のもとで助手に採用された。爾来,農薬化学研究室で24年間,生態化学研究室で15年間,学部学生,大学院生,英語コース留学生の教育・研究指導に携わった。初期には農芸化学領域の広範な生理活性物質に関する研究を行った。昭和56−57年の10ヶ月間,平成2年に4ヶ月間の英国レディング大学,カナダ国コンコルディア大学への留学を機に,フラボノイドの生態生物化学研究を主課題とし,天然希少フラボノイドの構造と機能の解析,プレニル化フラボノイドのカビによる新規代謝経路の究明,ベンズイミダゾール系抗菌物質に対する解毒作用物質の探索,ホウレンソウ根腐れ病菌の生活環展開を制御する宿主特異的情報物質の同定,非宿主植物の多様な防御物質の検索などを行い,生態系における植物・微生物複合系の生物間相互作用の実態や生態系の安定化機構の解析に努めた。 |
|
田 村 守(たむらまもる) 氏(先端生命科学研究院教授)
| 昭和18年5月12日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
| 昭和43年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
| 昭和46年3月 |
北海道大学大学院理学研究科博士課程修了 |
| 昭和46年3月 |
理学博士(北海道大学) |
| 昭和46年3月 |
アメリカ合衆国ペンシルバニア大学博士研究員 |
| 昭和49年9月 |
|
| 昭和49年9月 |
大阪大学産業科学研究所助手 |
| 昭和53年3月 |
|
| 昭和53年4月 |
北海道大学応用電気研究所助教授 |
| 昭和63年12月 |
北海道大学応用電気研究所教授 |
| 平成4年4月 |
北海道大学電子科学研究所教授 |
| 平成18年4月 |
北海道大学大学院先端生命科学研究院教授 |
“北海道大学”,かつての夢とロマンを抱いた北国の大学のイメージは今はもう無い。最近の法人化による大学の激変は,この動きを強めていると言える。筆者は助教授の時代に,その後の研究の方向を決める仕事を5〜6年,試行錯誤を行っていた。この間,論文は一報も出せなかった。恐らくこの状況が東京や大阪であったら許されなかったであろう。また,現在ならば研究業績もなく,当然研究費も得られず,大学に居られないことになる。独創的な研究を声高に叫ばれているが,10年は,成果が出るのにかかるであろう。研究プロジェクトが大手を振っている時,大学に必要なことは個人の研究の自由を保障することである。この自由から初めて独創的な研究も生まれ,そしてその結果として社会に認知されることになる。大学の法人化は一見活性化したように見られるが,その実は本質的な大学の役割を失わせつつある。法人化の功罪を厳しく見つめなおし,無節操に旗を振った方々の責任もまた重大である。もう一度北大の持つ真の大学としての役割を期待したい。 |
|
工 藤 正 廣(くどうまさひろ) 氏(言語文化部教授)
| 昭和18年5月5日生 |
| (略 歴) |
| 昭和43年3月 |
北海道大学文学部卒業 |
| 昭和46年3月 |
東京外国語大学大学院外国語学研究科修士課程修了 |
| 昭和47年4月 |
北海道大学文学部助手 |
| 昭和50年7月 |
北海道大学文学部助教授 |
| 昭和58年4月 |
北海道大学言語文化部助教授 |
| 平成6年2月 |
北海道大学言語文化部教授 |
思えばそのむかし,津軽海峡を連絡船で渡りやっと札幌について北大の恵迪寮にもぐりこみ,それからのち,一時的な中断はあったものの,今日まで寛大な自然と人事に恵まれた母校で自分の全力を尽くしたと思っていますが,教師としても若かった頃から変わらず,若い友人という気持ちで教えながら,学ぶことが多かった。全学教育で教えた学生の数は厖大です。そのなかから未来をになう人材がどんな形で出るのかが楽しみでなりません。
四十余年も北大と北海道〈静かな大地〉でお世話になって,いよいよ職を辞するにあたって,うむ,老後はなんとかしてこの大地の人と自然にたいして恩返しをしなければならない,と覚悟し,故郷は津軽の地なのですが,そろそろこの北海にこそ骨埋めるときがきたと思っているのです。いよいよ文学者として研鑽して,生きた時代と未来を描くべき時だと思っています。母校に感謝はつきない。 |
|
下 澤 楯 夫(しもざわたてお) 氏(電子科学研究所教授)
| 昭和19年1月17日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
| 昭和43年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了(工学修士) |
| 昭和43年9月 |
北海道大学理学部文部技官(教務職員) |
| 昭和50年6月 |
理学博士(北海道大学) |
| 昭和52年1月 |
北海道大学理学部講師 |
| 昭和53年7月 |
北海道大学理学部助教授 |
| 昭和63年10月 |
北海道大学応用電気研究所教授 |
| 平成4年4月 |
北海道大学電子科学研究所教授(研究所の改組・転換) |
| 平成13年4月 |
北海道大学電子科学研究所長,評議員 |
| 平成15年3月 |
| 平成15年5月 |
北海道大学総長補佐 |
| 平成16年3月 |
| 平成16年4月 |
北海道大学役員補佐 |
| 平成17年4月 |
| 平成17年5月 |
北海道大学副理事 |
| 平成19年3月 |
終戦前後の幼児期に,疎開先で栄養失調になり「この子はもうだめだ」と宣告された。大人になる前に死ぬのだと思って育ったので,「生きてるだけで丸儲け」の楽観と「否定された存在」の虚無とが同居している。北大理類に入り生物学に興味を持ったが,ひとまず喰いっぱぐれの無い電子工学を卒業した。大学院の学資支給人は連れ合いで,低所得者用の第2種市営住宅に入った。神経活動の計測装置を作る特技で生物の教務職技官になり,計測結果を論文にして生物学者になった。教授になれたと思ったら,研究所の改組,未来戦略,所長,創成の設置,総長補佐,役員補佐などに駆り出され,「学成り難し」のうちに定年を迎えた。教員に大学運営を担わせるには長期の訓練が要る。大学はこれまで,教育・研究の人材育成のみで,運営面への教員人材育成を怠たってきた。現状は,無訓練の上に研究も兼業の「運営したフリ」教員が殆どだ。今後は,運営専念の教員キャリアパスを設定し,副学長などの人材育成プールを整えるべきだと思う。
|
|
狩 野 猛(かりのたけし) 氏(電子科学研究所教授)
| 昭和18年8月9日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
山形大学工学部卒業 |
| 昭和43年3月 |
山形大学大学院工学研究科修士課程修了 |
| 昭和43年4月 |
山形大学工学部助手 |
| 昭和52年11月 |
McGill大学大学院博士課程修了 |
| 昭和52年11月 |
Ph.D(McGill大学) |
| 昭和52年10月 |
カナダ心臓及び脳卒中基金給費研究員 |
| 昭和54年7月 |
McGill大学医学部講師 |
| 昭和55年7月 |
McGill大学医学部助教授 |
| 昭和61年6月 |
McGill大学医学部准教授 |
| 平成3年11月 |
北海道大学応用電気研究所教授 |
| 平成4年4月 |
北海道大学電子科学研究所教授 |
北大の美しいキャンパス内の最も恵まれた環境にある電子科学研究所で15年間,日本で学んだ工学(流体力学)とカナダで身につけた基礎医学の知識とを併せて血流と血管病との関係について研究を展開し,微力ながら医科学の進歩に貢献できたこと,そして,工学および情報科学研究科で大学院教育を担当させていただいて,研究と教育の両方に携わることが出来たことは,大変幸せなことであった。定年退職するに当たり,マギル大学在職中に日本より招聘して研究を手伝っていただいた多くのフェロー達および北大に来てから一緒に研究を行いあるいは支援していただいた同僚,職員の皆様および優秀な学生諸氏に心から感謝いたします。
最後に,最近日本の大学における研究は,科学の後に常に技術が付きまとっていて,産学協同・連携など,直接特許出願に結びつくような研究が推奨され,科学の影が薄れてきているように感じられますが,せめて研究所でだけは,科学を重視した先見的な研究を展開して欲しいものだと願っています。 |
|
松 島 龍 夫(まつしまたつお) 氏(触媒化学研究センター教授)
| 昭和19年2月6日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
| 昭和43年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
| 昭和46年3月 |
北海道大学大学院理学研究科博士課程修了 |
| 昭和46年3月 |
理学博士(北海道大学) |
| 昭和46年4月 |
北海道大学触媒研究所助手 |
| 昭和60年9月 |
北海道大学触媒研究所助教授 |
| 平成元年5月 |
岡崎国立共同研究機構分子科学研究所助教授 |
| 平成3年4月 |
北海道大学触媒化学研究センター助教授 |
| 平成5年10月 |
北海道大学触媒化学研究センター教授 |
“都ぞ弥生”に歌われる牧歌的雰囲気が北大にはありました。私が過ごした45年の間にキャンパスの隅に追いやられたようです。触媒化学も反応速度論を中心とする時代の終焉から,表面分光の興隆,ナノ触媒の設計まで変化しました。学生の時手がけた水の電気分解は当時日陰でしたが今や燃料電池として最先端にあり,触媒化学の基礎とされた表面科学ではその興隆・拡散を体験しました。古い枠から抜けられなかった研究所の廃止,透明性の高い研究センターの創設と苦くも得がたい体験でした。科学の進歩・情報が日々はやくなり,研究者は生涯に何度も脱皮しないと使い捨てとなる時代です。私は米国,ドイツ,岡崎での合計6年間を含めて,「生成物の空間・エネルギー分布からみる反応場」の確立に専念でき,北大の寛容さに感謝しています。情報を遠望できる利点を生かして「科学は永く人生は短い」と評価される仕事がこの北の大地から発信されることを期待します。 |
|
向 井 宏(むかいひろし) 氏(北方生物圏フィールド科学センター教授)
| 昭和19年1月24日生 |
| (略 歴) |
| 昭和46年7月 |
広島大学大学院理学研究科博士課程単位取得退学 |
| 昭和46年8月 |
東京大学海洋研究所助手 |
| 昭和47年1月 |
理学博士(広島大学) |
| 平成4年4月 |
北海道大学理学部教授 |
| 平成5年4月 |
北海道大学理学部附属臨海実験所所長 |
| 平成16年4月 |
北海道大学北方生物圏フィールド科学センター厚岸臨海実験所教授および所長 |
| 平成17年4月 |
北海道大学大学院環境科学院教授(理学研究科教授併任) |
前任地の東京から北海道大学にお世話になって15年になります。北大といっても私の任地は道東の厚岸町にある厚岸臨海実験所でした。この道東の地で,それまであまりなじみのない寒流域の海洋生物の生態学に取り組むことになり,それまで中心としてきた熱帯域の生態学と比較しながらフィールド研究を行ってきました。札幌から遠く離れた勤務地は,不便な面もないわけではありませんでしたが,フィールド研究に打ち込むという意味では,恵まれていたと思います。おかげで学内のいろんな雑事や管理業務や政治から離れて研究に打ち込めましたことはもっとも嬉しかったことでもあります。
札幌と違って地方に勤務していると,地元の人々とのつきあいや地域への貢献が求められることが多いのですが,15年間にわたって厚岸臨海実験所の持っているアイカップ自然史博物館の自然観察会や,厚岸町と一緒になって行ってきた公開講座・環境フォーラムなどは,反応が直接見えるという意味で大変でもあり楽しかったことでもあります。
札幌からは地方のことがよく見えないのでしょうが,法人化したあとの地方の大学施設は,これまで以上に存在感が出てきたのではないかと思います。地域あっての北海道,地域と生きてこその北海道大学であると思います。皆様の今後のご健闘を心からお祈りいたします。 |
|
橘 治 国(たちばなはるくに) 氏(工学研究科助教授)
| 昭和18年5月15日生 |
| (略 歴) |
| 昭和42年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
| 昭和44年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
| 昭和45年4月 |
北海道大学大学院工学研究科博士課程中途退学 |
| 昭和45年4月 |
北海道大学工学部助手 |
| 平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科助教授 |
45年前,北大に木原均研究を夢みて入学した。工学部ガイダンスを聞き,衛生工学科で衛生微生物や微生物工学を勉強するという新分野を選択したが,指導教官の逝去や学科の指導・研究方針変換で,その道は砕けた。北大は無責任な大学である。北大では開拓・開発というイメージを保てない。そのなかで北海道の水環境を生涯の研究テーマとした。石狩川など河川の汚染研究,北海道の貴重な湿原や湖沼・ダム湖の環境保全,これらをもとに東南アジアの水環境保全研究に発展できた。大学は,おおらかな,そして素晴らしい北海道の自然を基盤に,若手の育成に頑張って欲しい。研究活動では,陸水学会で,評議員(昭和59〜63),北海道支部会長(平成14〜18),水環境学会では理事・支部長(平成13〜17),土木学会では環境工学委員会委員(平成11〜12),水文水資源学会では編集出版委員(平成2〜)として活動した。平成20年は陸水学大会委員長を務める予定である。
|
|
今 村 平(いまむらたいら) 氏(理学研究院助教授)
| 昭和19年1月27日生 |
| (略 歴) |
| 昭和42年3月 |
山形大学文理学部卒業 |
| 昭和44年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
| 昭和47年3月 |
北海道大学大学院理学研究科博士課程修了 |
| 昭和47年3月 |
理学博士(北海道大学) |
| 昭和47年7月 |
日本学術振興会奨励研究員 |
| 昭和48年1月 |
| 昭和48年1月 |
アイオワ大学博士研究員 |
| 昭和49年1月 |
| 昭和49年1月 |
イリノイ大学博士研究員 |
| 昭和51年3月 |
| 昭和52年4月 |
日本学術振興会奨励研究員 |
| 昭和52年11月 |
| 昭和52年12月 |
北海道大学理学部助手 |
| 昭和63年4月 |
北海道大学理学部講師 |
| 平成4年4月 |
北海道大学理学部助教授 |
| 平成7年4月 |
北海道大学大学院理学研究科助教授 |
| 平成18年4月 |
北海道大学大学院理学研究院助教授 |
今から,約40年前の1967年の3月に山形大学を卒業し,北海道大学の理学部大学院(当時,化学第二学科)に進学しました。博士号を取得の後,米国の大学で3年間の博士研究員などを経て,北大に29年と少し,勤めました。その間,国立大学の法人化など,おおきな変化もありましたが,ほとんど,何も変わらなかった部分もあるように思います。それは,一部の大学や学部によくみられる古いシステムです。現在では,アジアの国も含めた多くの国の躍進している大学では,米国と同じように,各研究者は立場を問わず,金銭的にも研究の上でも独立しています。また,教育と研究は,それぞれが重要であり,遂行に十分な時間を必要としているために,分離されています。それらの大学では,自分にとって都合の良い,同じような研究をする研究者ではなく,自分たちとはまったく異なる考えや手法を持った研究者を集めています。トーマス・フリードマンの云う「世界のフラット化」が進行している現在,北海道大学が率先して全学部・研究院でシステムの大きな変換を行って,日本の中ではなく,世界の北海道大学となるように祈っています。 |
|
若 原 正 巳(わかはらまさみ) 氏(先端生命科学研究院助教授)
| 昭和18年11月10日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
| 昭和43年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
| 昭和45年3月 |
北海道大学大学院理学研究科博士課程中退 |
| 昭和45年4月 |
北海道大学理学部助手 |
| 昭和49年3月 |
理学博士(北海道大学) |
| 昭和57年4月 |
北海道大学理学部講師 |
| 昭和60年4月 |
北海道大学理学部助教授 |
| 平成7年4月 |
北海道大学大学院理学研究科助教授 |
| 平成18年4月 |
北海道大学大学院先端生命科学研究院助教授 |
1924年に元北大医学部教授の故佐々木望先生が発見した,クッタラ湖のエゾサンショウウオのネオテニー(幼形成熟)現象は世界的な大発見だった。ネオテニーとは変態と生殖腺の性的成熟が時間的にずれる現象で,いわゆるヘテロクロニー(異時性)という未解決の学問分野を含んでいる。その後クッタラ湖に養殖魚が導入されて,残念ながらエゾサンショウウオのネオテニー個体群は絶滅してしまった。何とかそれを復活させようと基礎的な研究を進めてきたが,一度絶滅したものを復活させることは難しく,まだ成功していない。しかしその過程で,エゾサンショウウオの温度依存の性分化や環境依存的に形態が変化する表現型可塑性などいくつかの重要な生物学的現象を発見・解明できたことで満足している。法人化以降ますます効率主義と競争原理が強まっていく大学の中で,このようないわば浮世離れをした基礎的な研究を多くの学生・院生たちと楽しく進めることができたことは,私にとって大変幸せなことだった。大いに感謝している。 |
|
岩 渕 隆(いわぶちたかし) 氏(財務部経理課長)
| 昭和21年9月21日生 |
| (略 歴) |
| 昭和40年3月 |
北海道深川東高等学校卒業 |
| 昭和40年9月 |
北海道大学経理部管財課 |
| 昭和43年6月 |
文部省大臣官房会計課管財班(併任) |
| 昭和46年5月 |
北海道大学医学部附属病院管理課 |
| 昭和51年5月 |
北海道大学庶務部保健課 |
| 昭和54年5月 |
北海道大学学生課 |
| 昭和55年9月 |
北海道大学学生課学生掛課外活動主任 |
| 昭和56年4月 |
北海道大学学生課課外活動掛課外活動施設管理主任 |
| 昭和60年4月 |
北海道大学医学部附属病院管理課医療器材掛医療器材管理主任 |
| 昭和62年4月 |
北海道大学農学部経理掛予算運用主任 |
| 平成元年4月 |
釧路工業高等専門学校会計課総務係長 |
| 平成5年4月 |
北海道大学厚生課専門職員 |
| 平成7年4月 |
北海道大学学務部厚生課専門職員 |
| 平成8年3月 |
北海道大学学務部厚生課課長補佐 |
| 平成8年4月 |
函館工業高等専門学校会計課長 |
| 平成11年4月 |
弘前大学医学部医事課長 |
| 平成14年4月 |
北海道教育大学学務部学生課長 |
| 平成16年4月 |
北海道大学財務部経理課長 |
昭和40年9月本学に奉職以来,早,40年余の月日が流れた。
この40余年間のうちの29年余を本学でお世話になったことになる。思い起こせば,奉職間もない昭和43年6月から1年間東京勤務(文部省併任)を命ぜられ神田一ツ橋に居を構えたが,おりしも学園紛争のまっただ中で,投石の中をかいくぐって通勤した記憶がある。どうにか生き延びられて帰ってきたが,今度は本学の各学部等で封鎖が繰り返され,ついには我が職場である事務局も封鎖され,学内の空き施設を転々として執務を行ったのが懐かしく思う。さらに脳裏に残っているのが,昭和54年4月30日に発生したサークル会館(クラーク会館前)の火災である。その時は既に5月1日付異動の内示があり,残務整理に出ていた時であった。職務柄サイレンが鳴ると消防署に確認したり,現場に急行するのが癖になっていたが,この時も同様な行動を取ったもので,それが明日にも私が赴くであろう職場の学生部(現学務部)で担当する事になる施設と知るや,顔面蒼白となったのを鮮明に覚えている。これらを一例として40余年間には色々なことがあったが,おかげをもって大過なく定年を迎えられるのは,皆様方の温かいご指導,ご鞭撻のおかげと衷心より感謝しているところであります。今後は影ながら御学の益々の発展をご祈念申し上げまして,お別れのご挨拶といたします。
|
|
野 村 勉(のむらつとむ) 氏(学務部学生支援課長)
| 昭和21年11月2日生 |
| (略 歴) |
| 昭和40年5月 |
北海道大学附属図書館 |
| 昭和60年4月 |
北見工業大学教務課入学試験係長 |
| 昭和63年4月 |
北見工業大学庶務課人事係長 |
| 平成2年4月 |
北海道大学工学部総務課研究協力係長 |
| 平成3年11月 |
北海道大学庶務部庶務課専門職員 |
| 平成6年3月 |
北海道大学庶務部庶務課課長補佐 |
| 平成6年4月 |
磐梯青年の家庶務課長 |
| 平成7年4月 |
旭川医科大学教務部学生課長 |
| 平成11年4月 |
長岡技術科学大学教務部学生課長 |
| 平成13年4月 |
岩手大学学生部学生課長 |
| 平成16年4月 |
北海道大学学務部学生支援課長 |
昭和40年5月,北海道大学に採用となり社会人としての人生がスタートしました。気がつくと,42年の月日が流れ,人ごとと思っていた定年の時がきてしまいました。
勤務地は,札幌以外では,北大水産学部・北見工大・磐梯青年の家・旭川医大・長岡技科大・岩手大で,札幌の勤務とそれ以外の勤務はちょうど半々の21年ずつとなりました。
この間,大学紛争,大学改革,法人化等様々なことがありましたが,たくさんのすばらしい上司,先輩,同僚,後輩との出逢いがあり,支えていただきましたことを感謝しております。
特に,最後の3年間は,北海道大学に戻って学生支援事務を担当させていただき,「七大戦の開催」,「地区体の実施方法の変更及び負担金の改正」,「大学祭での飲酒の禁止」,「恵迪寮生の入居・退去届の提出」,「専門職大学院の入学料及び授業料免除・ペンハロー賞・新渡戸賞・大塚賞制度の新設」等々に参画することができたことをうれしく思っております。
法人化も3年を経過し,大学を取り巻く状況はますます厳しいものになりますが,本学のますますの発展を心から祈念してご挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。
|
|
宮 腰 秀 弘(みやこしひでひろ) 氏(学務部教務課長)
| 昭和22年2月4日生 |
| (略 歴) |
| 北海学園大学法学部卒業 |
| 昭和40年4月 |
北海道大学理学部 |
| 平成元年4月 |
日高少年自然の家庶務課会計係長 |
| 平成4年4月 |
文部省大臣官房文教施設部札幌工事事務所庶務係長 |
| 平成8年4月 |
沼津工業高等専門学校学生課長 |
| 平成11年10月 |
北海道教育大学入試課長 |
| 平成12年4月 |
北海道教育大学学務部入試課長 |
| 平成14年4月 |
横浜国立大学学生課長 |
| 平成16年4月 |
北海道大学学務部教務課長 |
昭和40年4月,北海道大学に採用となって以来,この度,定年を迎えることになりました。
この間,平成元年から平成16年までは,他の5機関で勤務をし,貴重な経験をさせていただきました。
平成16年4月には国立大学法人となり,四季折々の自然あふれる北海道大学に再び採用となり,最後の3年間お世話をいただいたこと,大学職員として大半を北海道大学に勤務できたことを誇りに思い,また感謝しております。今の心境は,大学紛争から国立大学法人化まで,貴重な経験をしながらよく最後まで勤めてこれたものだと思っております。これも良き先輩,同僚,後輩など数多くの方々にご指導,ご支援をいただいたお陰とこの紙面をお借りして心よりお礼申し上げます。
最後に,北海道大学が今後益々発展されることを祈念し,また,教職員皆様の今後のご健勝とご活躍を心からお祈りして,ご挨拶とさせていただきます。
|
|
飯 坂 弘 美(いいさかひろみ) 氏(施設部施設整備課長)
| 昭和21年5月28日生 |
| (略 歴) |
| 昭和40年4月 |
北海道大学施設課 |
| 昭和42年4月 |
北海道大学建築課 |
| 昭和55年4月 |
北海道大学建築課営繕掛長 |
| 昭和58年4月 |
北海道教育大学施設課工営第二係長 |
| 昭和61年4月 |
北海道大学建築課第一工営掛長 |
| 平成3年4月 |
北海道大学企画課企画掛長 |
| 平成4年4月 |
北海道大学企画課専門職員 |
| 平成5年4月 |
横浜国立大学施設課課長補佐 |
| 平成11年4月 |
旭川医科大学施設課長 |
| 平成13年4月 |
東京農工大学施設課長 |
| 平成16年4月 |
北海道大学施設整備課長 |
北海道大学が「エルムの杜」「エルムのキャンパス」等と呼ばれるようになったのは何時の頃からなのかは知る由もないが,私はこの響きが好きである。
他大学での勤務期間(14年間)を除く28年間,縁があってこれまでの人生の半分近くは北海道大学とともにあったことになる。この間,驚きであったり,戸惑いであったりの出来事を重ねて,今日の充実に繋がっているのだと思っている。
思い出して見ると,驚きの学園紛争:占拠された当初に学生と交渉して,製図用具等を運び出すことが出来た。(優しい学生でしたヨ)事務局開放の時,催涙弾を浴びひどい目にあった。(普通の人は一生出会うことはない!!)戸惑いの転勤:いきなりヨコハマであり,環境が一変してしまった。(慣れるとハマっ子気取りで○○じゃん)これが悪夢の始まりで,その後11年間に及ぶ単身赴任。(本当は夢のような生活だったりして……?)
そして今の充実:高度経済成長時代と共に本格的に始まった大学施設整備に関わり続けることが出来た。(初期の施設が負の遺産にならぬよう後輩よ頑張れ)再生された倒木ポプラの芽吹きを確認出来た時は今時の‘萌えー
’(気になって時折見に来るんだろーなー)
北海道大学のすべてに感謝し,お礼申し上げます。本当にありがとうございました。 |
|
木 下 彰(きのしたあきら) 氏(附属図書館情報管理課長)
| 昭和21年5月25日生 |
| (略 歴) |
| 昭和40年3月 |
北海道夕張北高等学校卒業 |
| 昭和40年4月 |
北海道大学経理部 |
| 昭和40年5月 |
北海道大学法学部 |
| 昭和43年4月 |
北海道大学薬学部 |
| 昭和46年5月 |
北海道大学歯学部 |
| 昭和48年4月 |
北海道大学工学部 |
| 昭和51年5月 |
北海道大学附属図書館教養分館 |
| 昭和57年4月 |
北海道大学工学部 |
| 昭和59年4月 |
北見工業大学附属図書館整理係長 |
| 平成4年4月 |
北海道大学附属図書館情報システム課学術情報掛長 |
| 平成5年4月 |
北海道大学附属図書館情報システム課情報処理掛長 |
| 平成8年3月 |
北海道大学附属図書館情報システム課課長補佐 |
| 平成8年4月 |
鳴門教育大学教務部図書課長 |
| 平成11年4月 |
広島大学附属図書館情報サービス課長 |
| 平成14年4月 |
静岡大学附属図書館情報管理課長 |
| 平成16年4月 |
北海道大学附属図書館情報サービス課長 |
| 平成17年4月 |
北海道大学附属図書館情報管理課長 |
昭和40年4月に,北海道大学に採用になって以来,42年間の公務員及び大学法人職員としての勤務を終え,このたび3月31日をもって定年退職することになりました。
採用されて最初に配属されたのが法学部図書係であったことで,以来,図書系の業務のみに携わって参りましたが,この間,諸先輩や周りの方々に教えられ,助けていただきながら今日までやって来ることが出来たことを感謝しております。
また,北海道大学以外でも北見工業大学,鳴門教育大学,広島大学,静岡大学の各図書館の勤務も経験いたしましたが,特に道外の勤務地はいずれも温暖な土地ばかりで,北海道で生まれ育った私には北海道の気候風土と異なる環境の中で非常に楽しい数年間を過ごすことができ,よい思い出となっております。
法人化後,何かと厳しい状況にあるように感じられますが,北海道大学がますます発展することを願って退職の挨拶とさせていただきます。 |
|
佐 藤 清 一(さとうせいいち) 氏(附属図書館情報サービス課長)
| 昭和21年9月16日生 |
| (略 歴) |
| 昭和40年5月 |
北海道大学工学部 |
| 昭和45年5月 |
北海道大学附属図書館 |
| 昭和50年5月 |
北海道大学文学部 |
| 昭和51年5月 |
北海道大学水産学部 |
| 昭和55年4月 |
北海道大学工学部 |
| 昭和57年4月 |
北見工業大学附属図書館運用係長 |
| 昭和60年4月 |
北海道大学水産学部図書掛長 |
| 平成3年4月 |
北海道大学附属図書館情報サービス課相互利用掛長 |
| 平成5年4月 |
北海道大学附属図書館情報管理課教養分館情報管理掛長 |
| 平成7年4月 |
北海道大学附属図書館情報管理課北分館情報管理掛長 |
| 平成9年4月 |
北海道大学理学部図書掛長 |
| 平成10年10月 |
北海道大学附属図書館情報システム課図書館専門員 |
| 平成12年4月 |
北海道大学附属図書館情報管理課図書館専門員 |
| 平成15年4月 |
北海道大学附属図書館情報サービス課課長補佐 |
| 平成17年4月 |
北海道大学附属図書館情報サービス課長 |
昭和40年5月,北海道大学に採用され工学部図書掛に配属されてから今日まで42年間もの長きにわたり図書館職員として勤務させていただきました。この間,北見工業大学,函館の水産学部にお世話になりましたが,それぞれ大変に思い出深いものがあります。
どの職場においても,数多くの方々と親しくお付き合いさせていただき楽しく仕事をさせていただきましたことに,心よりお礼申し上げます。
振り返ってみますとたくさんの経験をさせていただきました。大学紛争で毎日書類を民間の倉庫に運んだこと。北分館が封鎖されたとき宿直室を追い出されたこと。水産学部ではおしょろ丸,北星丸,うしお丸の試験航海に乗船したこと。等などが思い出されます。
また,48才から始めたマラソンを学内で練習出来たこと。昼休みには陸上競技場グラウンドで練習できたこと。また,体育館,トレーニングセンターなど学内施設を利用出来たことに感謝しております。
最後になりましたが大変お世話になりました上司,先輩,同僚,後輩の皆様方にこの場をお借りして心から感謝するとともに,皆様方のご健康と今後のご活躍を心からお祈りして,ご挨拶とさせていただきます。 |
|
阿 部 巖(あべいわお) 氏(経済学研究科・経済学部事務長)
| 昭和22年3月17日生 |
| (略 歴) |
| 昭和40年4月 |
北海道大学低温科学研究所附属流氷研究施設 |
| 昭和42年4月 |
北海道大学低温科学研究所 |
| 昭和45年5月 |
北海道大学工学部 |
| 昭和49年5月 |
北海道大学経済学部 |
| 昭和52年5月 |
北海道大学医学部附属病院管理課 |
| 昭和55年5月 |
北海道大学経理部主計課 |
| 昭和60年10月 |
北海道大学医学部附属病院総務課登別分院事務掛長 |
| 平成元年4月 |
北海道大学経理部主計課第二予算掛長 |
| 平成2年10月 |
北海道大学経理部主計課専門職員 |
| 平成5年4月 |
北海道大学庶務部研究協力課研究助成掛長 |
| 平成6年4月 |
北海道大学庶務部研究協力課専門職員 |
| 平成7年4月 |
北海道大学総務部研究協力課専門職員 |
| 平成8年4月 |
北海道大学経理部経理課専門職員 |
| 平成9年4月 |
旭川医科大学総務部会計課課長補佐 |
| 平成12年4月 |
北海道大学経理部第一契約課専門員 |
| 平成13年4月 |
北海道大学経理部主計課課長補佐 |
| 平成14年4月 |
室蘭工業大学附属図書館事務長 |
| 平成16年4月 |
北海道大学経済学研究科・経済学部事務長 |
昭和40年春,地元から札幌駅に着き,新たな出発に一抹の不安を抱きながら旧国鉄の跨線橋を渡り,北海道大学へ向かったのを昨日のように思い出されます。
最初の勤務は,現在は廃止になった低温科学研究所附属流氷研究施設でした。以来,42年間のうち旭川医科大学,室蘭工業大学に勤務した5年間を除き北海道大学にお世話になりました。係単位を含めると18カ所の異動でしたが,どの職場においても数多くの方々にご厚誼をいただき,それぞれが思い出深いものがあります。
山あり谷ありの42年間でしたが,無事に定年を迎えることが出来ますことは,良き上司,先輩,同僚,後輩の方々に恵まれ温かいご指導とご支援に支えられたお陰であると思っております。心から感謝申し上げます。
最後になりますが,北海道大学の今後ますますの発展と皆様方のご健勝とご活躍をお祈り申し上げます。 |
|
関 谷 康 一(せきややすかず) 氏(工学研究科・情報科学研究科・工学部事務部長)
| 昭和21年5月19日生 |
| (略 歴) |
| 昭和42年8月 |
北海道大学庶務部人事課 |
| 昭和46年11月 |
北海道大学歯学部 |
| 昭和50年5月 |
北海道大学医学部附属病院医事課 |
| 昭和52年5月 |
北海道大学薬学部 |
| 昭和56年2月 |
北海道大学工学部総務課人事掛主任 |
| 昭和57年4月 |
釧路工業高等専門学校庶務課人事係長 |
| 昭和60年4月 |
北海道大学教育学部庶務掛長 |
| 昭和63年4月 |
北海道大学庶務部人事課第二任用掛長 |
| 平成2年4月 |
北海道大学庶務部人事課第一任用掛長 |
| 平成5年4月 |
北海道大学庶務部人事課専門職員 |
| 平成6年8月 |
室蘭工業大学庶務課課長補佐 |
| 平成8年4月 |
北海道大学総務部国際交流課課長補佐 |
| 平成9年4月 |
北海道大学総務部総務課課長補佐 |
| 平成13年4月 |
北海道大学文学研究科・文学部事務長 |
| 平成16年4月 |
北海道大学総務部職員課長 |
| 平成17年4月 |
北海道大学工学研究科・情報科学研究科・工学部事務部長 |
最初は訳の判らない例規集,給与・共済小六法の分厚い本を読むことと上司,先輩が書きなぐった書類,資料の浄書の毎日からスタートをして,北大,釧路高専,室蘭工大勤務の中で様々な経験をさせていただき,無事定年を迎えることができました。
この間,いろいろな仕事とアフターファイブを通して多くの方々と知り合うことができ,その中でいろんなことを教わると同時に楽しい充実した時間を過ごすことができたことを幸せに思っています。
特に仕事では数多くの上司,先輩,同僚,後輩にお世話になり,おかげで自分なりの責任を果たすことができたことを感謝しております。
国立大学も法人化後3年が経とうとしており,これからも益々厳しい環境が予想されますが,皆様の英知と努力により北大がますます発展されるよう願っております。ありがとうございました。 |
|
小 野 信 成(おののぶしげ) 氏(工学研究科・情報科学研究科・工学部総務課長)
| 昭和22年3月31日生 |
| (略 歴) |
| 昭和41年3月 |
北海道美瑛高等学校卒業 |
| 昭和41年4月 |
国立大雪青年の家 |
| 昭和45年10月 |
旭川工業高等専門学校 |
| 昭和51年7月 |
北海道大学 |
| 昭和58年4月 |
北見工業大学庶務課文書係長 |
| 昭和62年4月 |
北見工業大学庶務課人事係長 |
| 昭和63年4月 |
北海道大学教育学部庶務掛長 |
| 平成3年4月 |
北海道大学農学部人事掛長 |
| 平成6年4月 |
北海道大学医学部庶務掛長 |
| 平成9年4月 |
北海道大学学務部学生課総務掛長 |
| 平成10年4月 |
北見工業大学庶務課課長補佐 |
| 平成13年4月 |
北海道大学総務部研究協力課課長補佐 |
| 平成15年4月 |
北海道大学工学研究科・工学部総務課課長補佐 |
| 平成16年4月 |
北海道大学工学研究科・工学部総務課長 |
| 平成17年4月 |
北海道大学工学研究科・情報科学研究科・工学部総務課長 |
この3月定年を向かえ,あっという間の40年。「我が,悔いなしの人生」。
今までの日々を思い起こせば,改組に関連した仕事が特に印象深い。農学部の改組に始まり,医学部の大学院重点化と附属癌研究施設と附置研究所との統合及び医短の保健学科格上げに伴う検討。そして最近では,情報科学研究科の設置並びに工学研究科の改組であります。それぞれの期間中,現文部科学省と関連教員との協議・調整等に精一杯過ごした日々が,極めて充実感に満たされ,このことが前段の1行に結び繋がっているものと確信している。
今となって思うことは,自分が勤務したての当時は,一定年齢の先輩と上司が大勢おられましたが,今の自分と比較することはナンセンスであろう。
ただ,今は「老兵は死なず……」と有名な言葉を実感できる今日であります。
今後は,外から北海道大学のさらなる発展を祈念し,お別れとします。 |
|
庫 田 勇 藏(くらたゆうぞう) 氏(獣医学研究科・獣医学部事務長)
| 昭和22年3月19日生 |
| (略 歴) |
| 昭和40年3月 |
北海道岩内高等学校卒業 |
| 昭和40年4月 |
北海道大学医学部附属病院 |
| 昭和45年5月 |
北海道大学歯学部附属病院 |
| 昭和49年5月 |
北海道大学経理部 |
| 昭和56年10月 |
北海道大学農学部附属農場 |
| 昭和59年4月 |
北海道大学経理部 |
| 昭和63年7月 |
北見工業大学会計課管理掛長 |
| 平成4年4月 |
北海道大学庶務部入試課第二入試掛長 |
| 平成6年4月 |
北海道大学大型計算機センター専門職員 |
| 平成9年4月 |
北海道大学経理部主計課監査掛長 |
| 平成10年1月 |
旭川医科大学業務部医事課課長補佐 |
| 平成13年4月 |
北海道大学医学部附属病院医事課課長補佐 |
| 平成14年4月 |
北海道大学医学部附属病院管理課課長補佐 |
| 平成15年10月 |
北海道大学医学部・歯学部附属病院管理課課長補佐 |
| 平成16年4月 |
北海道大学獣医学研究科・獣医学部事務長 |
昭和40年4月1日,北海道大学医学部附属病院(現北海道大学病院)に採用され,早42年が過ぎ,団塊世代としてこのたび定年を迎えることとなりました。
この間,北見工業大学,旭川医科大学にも勤務し,どの職場においても,数多くの方々と親しくご交誼をいただき楽しく過ごすことができました。
北の大地,札幌の都心にありながら広大なキャンパスには自然があふれ,四季折々の美しい情景を見ながら勤務できたことは,忘れることのできない思い出となっています。
また,無事に定年を迎えることができますことは,先輩,同僚,後輩の皆様に恵まれ,温かいご指導とご支援に支えられてきたからであると痛感し,心から感謝申し上げます。
最後に,国立大学法人として3年間経過し,大学を取りまく環境は一層厳しい時代ですが,本学が益々ご発展されますとともに,皆様方のご健康と今後のご活躍を祈念しまして,ご挨拶とさせていただきます。 |
|
伊 澤 照 勝(いざわてるかつ) 氏(国際広報メディア研究科・言語文化部事務長)
| 昭和21年11月20日生 |
| (略 歴) |
| 昭和40年4月 |
北海道大学経理部経理課 |
| 昭和43年4月 |
北海道大学教養部 |
| 昭和48年5月 |
北海道大学庶務部入学主幹付 |
| 昭和52年4月 |
北海道大学庶務部入学主幹付入学試験掛企画調査主任 |
| 昭和53年4月 |
北海道大学庶務部庶務課企画広報掛調査主任 |
| 昭和54年4月 |
北海道大学庶務部人事課第二任用掛福祉主任 |
| 昭和57年4月 |
函館工業高等専門学校庶務課人事係長 |
| 昭和61年4月 |
北海道大学低温科学研究所庶務掛長 |
| 昭和63年9月 |
北海道大学農学部人事掛長 |
| 平成3年4月 |
北海道大学庶務部庶務課秘書掛長 |
| 平成4年4月 |
北海道大学庶務部留学生課第一留学生掛長 |
| 平成7年4月 |
北海道大学学務部留学生課第一留学生掛長 |
| 平成8年4月 |
北海道大学施設部企画課総務掛長 |
| 平成11年4月 |
帯広畜産大学庶務課課長補佐 |
| 平成13年4月 |
北海道大学学務部留学生課専門員 |
| 平成16年4月 |
国際広報メディア研究科・言語文化部事務室長 |
| 平成18年7月 |
国際広報メディア研究科・言語文化部事務長 |
昭和40年4月に大学職員として経理部に採用されて以来,既に42年の月日が経ちました。このたび,大きく組織が替わる国際広報メディア研究科・言語文化部を最終として,退職することとなりました。
この間,北大は12カ所と函館工業高等専門学校及び帯広畜産大学を経験させていただきました。
無事に定年を迎えられますことは,多くの上司,先輩,同僚,後輩の方々からいただいたご指導,ご支援のお陰であり心から感謝申し上げます。
緑豊かなすばらしいキャンパスで勤務できたことを心に刻み,北海道大学が今後,益々発展されることを祈念し,挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。 |
|
北 村 忠 代(きたむらただしろ) 氏(北海道大学病院診療支援部長)
| 昭和21年11月13日生 |
| (略 歴) |
| 昭和44年3月 |
北海道大学医学部附属衛生検査技師学校卒業 |
| 昭和44年5月 |
北海道大学医学部附属病院文部技官 |
| 平成10年4月 |
北海道大学医学部附属病院検査部主任臨床検査技師 |
| 平成15年10月 |
北海道大学医学部・歯学部附属病院診療支援部主任臨床検査技師 |
| 平成15年12月 |
北海道大学医学部・歯学部附属病院診療支援部臨床検査技師長 |
| 平成16年4月 |
北海道大学病院診療支援部臨床検査技師長 |
| 平成18年4月 |
北海道大学病院診療支援部長 |
昭和44年に就職した学生診療所(現保健管理センター)は木造で,すぐ隣には学生のサークル活動をする会館がありました(今は国際交流会館が建っており種々の学会,研修等に幅広く利用されています)。当時は学生運動真っ盛り,連日シュプレヒコールと共にデモ行進が行われていたことが眼に浮かびます。
保健管理センターの業務は種々の健康診断を行うことですが,春の定期健康診断は,各学部へ赴き行なっていました。機器または種々の健康診断に必要な物品の搬入,搬出の苦労,終わった後のジンギスカン等懐かしく思い起こされます。
病院に異動してからも,外来患者さんの採血の中央化,歯学部附属病院との統合,また平成16年の4月からは大学が独立行政法人となるなど激動の10年でした。
北海道大学での40年色々ありましたが,この3月で定年を迎えることができるのは,今まで出会ってきた上司,先輩,同僚の皆様のご指導があったればこそと,心より感謝しております。今後も北海道大学,病院がますます発展することを祈念しております。 |
|
橋 坂 光 一(はしさかこういち) 氏(医療技術短期大学部事務長)
| 昭和22年1月26日生 |
| (略 歴) |
| 昭和40年4月 |
北海道大学経理部経理課 |
| 昭和45年5月 |
北海道大学文学部 |
| 昭和49年5月 |
北海道大学農学部附属演習林 |
| 昭和52年5月 |
北海道大学工学部経理課 |
| 昭和58年4月 |
北海道大学経理部経理課 |
| 昭和63年4月 |
北海道大学水産学部 |
| 平成3年4月 |
北海道大学薬学部 |
| 平成6年4月 |
北海道大学施設部企画課 |
| 平成9年4月 |
北海道大学経理部経理課 |
| 平成10年4月 |
北見工業大学会計課 |
| 平成13年4月 |
北海道大学医学研究科・医学部 |
| 平成15年4月 |
北海道大学医療技術短期大学部 |
昭和40年4月,経理部経理課に採用され,この度,定年退職することになりました。
自然に恵まれた札幌キャンパスでの36年間,そして函館キャンパス・北見工業大学での6年間を含め大学職員として42年間,大きな病気もなく,健康に恵まれて公私ともに楽しく過ごすことができました。
すばらしい環境の中で,医療技術短期大学部の閉校とともに,何とか無事定年を迎えることができましたのも,良き上司,先輩,同僚,そして後輩,また,ご指導いただきました部局長をはじめ諸先生のご協力のおかげであり,心より感謝申し上げます。
大学を取りまく環境は,今後も厳しい状況が続くと思われますが,北海道大学がもてる活力を十分に発揮され,益々発展することと,皆様方のご健勝とご活躍を祈念しております。
長い間お世話になり,本当にありがとうございました。 |