北大寄宿舎の沿革
明治9年7月31日:クラーク博士が着任され,札幌農学校が開校した。
明治38年4月:北10条西7丁目に南北2棟の定員128名の新寄宿舎が完成。この新寄宿舎に名前を付けようじゃないかとの声に,明治40年(1907)4月,書経の「迪に恵えば吉し」から「恵迪寮」と命名された。爾来,今年がちょうど百年の記念すべき年となった。
恵迪寮と命名されるや,まるで生き物のように寮は活性化し,毎年作られる寮歌と新しい催しがクラーク先生の教えに基づいた開拓精神を涵養し,「恵迪精神」としての揺るぎ無い伝統を作り上げていった。明治45年には,寮歌「都ぞ弥生」が誕生,北の自然をおおらかに歌い上げ,恵迪寮生にとどまらず全国の学生の詩情を養い,今や北海道大学を代表する歌となっている。
昭和6年11月:北17条西8丁目に解体移築された4棟からなる2代目の恵迪寮は,昭和58年,現在の新恵迪寮の出来るまでの約50年に亘る激動の時代に大きな役割を果たした。即ち,支那事変が第二次世界大戦へと拡大,学徒動員,恵迪の仲間たちの戦死,そして敗戦。戦後の食料不足時代をくぐり抜け,安保反対から津波のように襲った学生運動の嵐の中で,恵迪寮は明治32年以来の自治の砦を頑なに守ったのである。寮友とは夜昼なく激論を交わし,互いに切磋琢磨し,困難なある時期には寮歌を歌って己を鼓舞し,悲しみにあっては寮友と肩を寄せ合い慰め合った。恵迪寮はまさしく若者の魂の揺籃なのであった。
昭和56年,北大当局は老朽化したこの恵迪寮を取り壊し,新しい寄宿舎を作ることを決めた。それを知った恵迪寮OB達は,旧寮舎の北海道開拓村への一時保存,寮名,寮歌の継続を目標として昭和58年8月:全国的な恵迪寮同窓会を正式に立ち上げたのであった。
昭和58年,放射状6棟(定員560名)の新寮が完成,既に24年を経過し,現在,大学院生,留学生,女子学生をも収容し,毎年の寮歌作成も続ける3代目の恵迪寮となっている。
|
恵迪百年記念祭
 |
披露された歌碑 |
平成18年11月,恵迪寮同窓会は,当時の北大総長 中村睦男先生に恵迪寮命名百年記念事業計画を示し,ご理解とご協力を要請。また,これを機会に同窓会の懸案であったクラーク先生肖像画,佐藤昌介
初代総長の書などの貴重な恵迪文化財を大学が管理して下さることを要請した。その快諾を得て,計画が更に具体化され,百年記念祭の目玉事業として,50年の歳月を経て悄然と草臥れ果てた「都ぞ弥生」の歌碑の修復を取り上げ,直ちに募金を開始した。約1年の準備期間が過ぎ,平成19年9月22日(土),恵迪百年記念祭が始まった。
|
1.「都ぞ弥生」歌碑の改修除幕及び寄贈式 (11:00-)
絶好の秋日和に,北大応援吹奏楽団の「都ぞ弥生」の響く中,式は定刻通りに始まった。佐伯浩北大総長,川内淳子さん(横山芳介君3女),赤木万里子さん(赤木顕次君息女),中瀬篤信
恵迪寮同窓会長,横山清恵 迪寮同窓会代表幹事,高橋興道 第289期恵迪寮執行委員長の6名により除幕が行われ,ファンファーレと共に新装なった歌碑が原始の森に出現した。
中瀬会長の挨拶,寄贈目録の贈呈,佐伯総長の謝辞の後,北大第96代応援団長 児玉康成君の発声で「都ぞ弥生」が300名の参加者により献歌された。歌碑修復の発案者でもあり,百年記念祭実行委員長でもある横山清君の感無量の閉式挨拶で式を終えた。なお,この改修工事は,同窓会理事
山崎勝彦君(昭和32年入寮)のご尽力によるところが大きく,また,文化財保護法による検査官の厳しい工事立会を無事通過したものであることを付記する。
 |
 |
「都ぞ弥生」で歌碑新装を祝う |
横山百年記念祭実行委員長の挨拶 |
|
2.恵迪寮同窓会第11期総会(12:30−)
総会はクラーク会館大集会室にて開催された。第10期事業・決算報告,第11期事業計画・予算案の審議が行われた。次いで役員の改選が行われ,次期会長に横山清君(昭和31年入寮),代表幹事に白浜憲一君(昭和40年入寮)が選出された。
|
 |
式辞を述べる中瀬会長 |
3.恵迪百年記念式典(13:00−)
式典は午後1時からクラーク会館大講堂において約300名の参加で極めて厳粛な雰囲気のうちに開催された。渕上玲子君(平成8年入寮)の司会により物故者への黙祷を捧げ,中瀬会長は「新しい時代を作る主役となるべき人間を育てる坩堝,それが恵迪寮であり,そして今,恵迪寮は百年の節目を超え,新たな世紀に向かって,なお栄えゆく我らが寮を誇らずや」と式辞を結んだ。
北大総長 佐伯浩様,北大連合同窓会副会長 齋藤和雄様よりお祝辞を頂き,次いで寮歌CD製作にご協力下さった北大合唱団OB会会長
平川明久様,ポストカードの原画を描いて頂いた画家の伊藤太郎様に中瀬会長から感謝状を贈呈し,式典を終えた。
|
 |
講演する藤田教授 |
4.恵迪百年記念講演(兼 開識社)(14:00−)
講師は北大獣医学部 藤田正一教授(昭和38年入寮)で,「新渡戸稲造を育てた札幌農学校」という演題で,クラーク会館大講堂のスクリーン上にパソコンを駆使し,非常に判りやすく,しかも情熱を持って講演された。札幌農学校時代の自由闊達な人物はもはや育たず,北大時代になっては,お上におもねるような輩しか育たないと嘆いた。300の聴衆は息を呑んで聞き入った。
|
5.1万人で歌う「都ぞ弥生」(15:30−)
恵迪寮らしいキャッチコピーで催された会に,果たして何人が集まるのか?
クラーク像裏の中央ローンに全国からの同窓生,現役寮生そして寮歌を愛している札幌市民,総勢800名が集まり,ローンを埋めた。応援団の指揮の下,老いも若きも共に肩を組み「都ぞ弥生」を歌い,そして桜星会歌「瓔珞みがく」,札幌農学校校歌「永遠の幸」など5曲を歌った。爽やかな秋の午後,応援団の太鼓の音と歌声はエルムの梢を震わせ,恵迪百年を祝った。真に圧巻であった。
 |
 |
大勢の参加者が中央ローンに集う |
応援団によるエール |
|
6.「都ぞ弥生」deクラッシック(北大交響楽団の演奏)(16:15−)
 |
聴衆も手拍子で共演 |
クラーク会館大講堂の500席は札幌市民,同窓生で満席となり立見席が出るほどであった。指揮者 川越守氏の編曲による「都ぞ弥生」の流麗な調べは新たな感動を呼び起こし,そしてこの日のメインの曲目ドボルザークの「新世界」は,完全に聴衆を魅了した。渕上玲子君から感謝の花束,横山清君より謝礼を川越先生に手交,興奮冷めやらぬうちに幕を閉じた。司会の井口光雄
副会長(昭和29年入寮)は,ドボルザークのアメリカ滞在期間(1892−1895)に作曲された「新世界」,同じ時代,新天地北海道にアメリカからの教授たちにより創設された札幌農学校を想い,恵迪百年祭に際しそのキャンパスで北大生によるオーケストラが初めてこの「新世界」を演奏する意義は大きいと述懐した。
|
 |
前列左から:繁富ご夫妻,中瀬会長,
後列左から:佐伯北大総長,廣重元北大総長 |
7. 恵迪百年記念「大寮歌祭」(京王プラザホテル札幌)(18:00−21:00)
参加人数220の予想を100名近くも上回り,祭りの最終行事が始まった。
廣重力 元北大総長も遅ればせながら駆けつけて来て下さった。
北海道支部長 白浜憲一君の開会宣言,中瀬会長の開会の辞,ご来賓紹介の後,佐伯 北大総長ご祝辞に続き,名誉会長 繁富一雄君(95歳)が入院中の病院を抜け出し車椅子で登壇。その声量溢れるご祝辞で聴衆を圧倒した。
北海道支部副支部長 千川浩治君の音頭により「都ぞ弥生」を斉唱,恵迪百年記念祭実行委員長の横山清君の発声で祝杯を上げ,祝宴に入る。久しぶりの仲間との話は弾み,やがて寮歌高唱の時が訪れ,遠くは九州からそして全国各地からの同窓生は若き日に立ち戻り,壇上に蛮声を張り上げた。あっという間に時は流れ,高井副代表幹事の閉会の辞とストームの嵐のうちに「大寮歌祭」は大団円を迎えたのだった。
総ての行事を成功裏に終えた恵迪寮同窓会は,恵迪寮命名百年記念の祭を大学当局,同窓生,現役寮生そして札幌市民と共に祝えたことに限りない喜びを覚えているのである。
(文責:中瀬篤信)
|
恵迪寮百年概史
●
プレ恵迪寮時代(1872−1906年) |
1876(明治9年) |
|
W.S.クラーク先生来道,「札幌農学校」創立
恵迪寮の前身の寄宿舎完成 |
1899(明治32年) |
|
寄宿舎自治第1期委員会発足 |
1905(明治38年) |
|
北10条西7丁目新寄宿舎完成,定員128名
|
●
初代恵迪寮時代(1907−1930年) |
1907(明治40年) |
|
新寄宿舎を「恵迪寮」と命名,初代寮歌「一帯ゆるき」が誕生,札幌農学校が「東北帝国大学農科大学」となる |
1912(明治45年) |
|
寮歌「都ぞ弥生」誕生 |
1918(大正7年) |
|
北海道帝国大学に改称,学生の増加により収容困難となり,予科生のみの寮とすべく寮生大会において決定 |
1927(昭和2年) |
|
経済的破綻で自炊制から請負制に戻る |
1929(昭和4年) |
|
寮生章制定(延齢草をデザイン化)
|
● 第2代恵迪寮時代(1931−1982年) |
1931(昭和6年) |
|
北17条西8丁目に解体移築の第2代恵迪寮完成,定員240名 |
1933(昭和8年) |
|
経済安定し,自炊制復活,「恵迪寮史」発行(1,250頁) |
1941(昭和16年) |
|
太平洋戦争開戦,寮生による執行委員会制から予科長任命の幹事制に移行 |
1945(昭和20年) |
|
敗戦,深刻な食糧難,燃料不足で寮を一時閉鎖 |
1949(昭和24年) |
|
新制北海道大学となり,恵迪寮は教養部の寮となる |
1957(昭和32年) |
|
「都ぞ弥生」の歌碑建立 |
1960(昭和35年) |
|
安保反対デモ拡大 |
1969(昭和44年) |
|
学園紛争激化,教室封鎖,機動隊導入 |
1982(昭和57年) |
|
寮舎老朽化,閉寮記念第74回恵迪寮祭開催
|
●
第3代恵迪寮時代(1983−) |
1983(昭和58年) |
|
新寮発足,放射状6棟,定員580名
恵迪寮同窓会発足,寮名の継承,寮歌作成の継続,旧恵迪寮舎の保存を目指し,旧寮舎の一部を北海道開拓の村に寄贈,そして保存 |
1989(平成元年) |
|
「恵迪寮」の名称が正式決定,同窓会寄贈の寮名板標示 |
1994(平成6年) |
|
女子学生入寮決定,11名入寮 |
2005(平成17年) |
|
平成18年寮歌「遙かなる迪」女子寮生が作歌 |
2007(平成19年) |
|
恵迪百年記念祭開催,「都ぞ弥生」歌碑を修復し,大学に寄贈 |
|