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○藤 田 宏 達 氏
このたび叙勲の栄に浴し,まことに恐縮に存じております。関係各位の御高配に対し厚く御礼申し上げます。
私は札幌から少し離れた町の出身ですが,早くに両親を失い,身辺の事情もあって,故郷に近い北大に奉職することができたのは,たいへん有難いことでした。当時インド哲学・仏教学を専攻できるのは,国立大学ではごく限られた大学だけでした。戦後,北大文学部で印度哲学講座が開設された当初は,当然のことながらこの講座を古くから持つ他大学との隔差は大きかったのですが,私が赴任した頃には研究・教育の諸条件が徐々に整いつつあり,じっくりと研究に没頭できる環境に恵まれました。さらに幸いであったのは,ハーヴァード大学の招聘で2年間研究の機会を与えられたことでした。これは専門のインド仏教の研究を進める上で,私にとって大きな転機となりました。それまでの原始仏教から後の大乗仏教へと研究領域を広げ,世界屈指の蔵書を誇るワイドナー図書館で浄土思想関係の内外の文献を渉猟し,帰国後数年をかけて,『原始浄土思想の研究』を纏めることができました。その出版の時期がちょうど大学紛争と重なったこともあり,この本をめぐってのさまざまな感慨や場景などが,今も懐かしくよみがえってきます。
学部内では年を重ねてくると,色々な役職を振り当てられますが,特に学部長在任中には全学の学位規定の改正や学部の予算配当の見直しなどに多くの時間を費したことが忘れられません。ただ大学運営の一端に携わり,学部内外の異なった分野の知己を得ましたのは,有意義なことであったと感謝しております。
北大退職後,かねて計画していた一連の著作に取り組みはじめた矢先,札幌大谷短大から招かれて再び職を得ることになり,しかもそれが10年も続きました。私学の保育・音楽・美術の三科という,これまでとはまったく違った教育環境の中での職務でしたが,短大の学的水準の向上と四大化という目標のもとに教育体制の充実を図りました。その結果,平成18年4月札幌大谷大学音楽学部が開学の運びになりまして安堵しております。
短大から解放されて,漸く本来の研究に専念する時間が得られましたので,念願の『浄土三部経の研究』を今春上梓することができました。しかし,計画中の仕事もまだ多く残っており,安閑としてはいられない気持です。
私は親鸞の浄土真宗の流れを汲む者ですが,年齢の上から見ますと,親鸞は数え63歳ころ20年住み慣れた関東の地を離れて京都に帰り,76歳から88歳にかけて多くの著作活動を行い,90年の生涯を閉じました。この驚くべき強靭な老年期の行実を師表としたいところですが,まずは,90年も生きるのさえ難しいことです。とすれば,せめて一日も早く,なすべくしてなし終えなかった著作に取りかからねばならぬのですが,はたしてどこまでやれるか分かりません。ただ私の人生にとって最も長い間お世話になった北大に対する深い謝念をこめて,命終る時まで努めていきたいと願っております。
略 歴 等 |
生年月日 |
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昭和3年3月24日 |
昭和25年3月 |
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東京大学文学部哲学科卒業 |
昭和25年4月 |
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東京大学文学部大学院特別研究奨学生 |
昭和29年3月 |
昭和29年4月 |
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北海道大学文学部助手 |
昭和30年7月 |
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北海道大学文学部助教授 |
昭和42年11月 |
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文学博士(東京大学) |
昭和43年12月 |
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北海道大学文学部教授 |
昭和55年2月 |
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北海道大学評議員 |
昭和59年3月 |
昭和57年4月 |
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北海道大学大学院文学研究科長・文学部長 |
昭和59年3月 |
平成3年3月 |
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北海道大学停年退職 |
平成3年4月 |
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北海道大学名誉教授 |
平成4年4月 |
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札幌大谷短期大学学長・教授 |
平成14年3月 |
平成14年3月 |
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札幌大谷短期大学名誉教授 |
功 績 等
同人は,昭和3年3月24日北海道に生まれ,昭和25年3月東京大学文学部哲学科(印度哲学専修)を卒業し,引き続き同大学院特別研究奨学生に採用されましたが,昭和29年4月北海道大学助手に任命され,昭和30年7月同大学助教授,昭和43年12月同大学教授となり,平成3年3月停年により退職されました。その後平成4年4月札幌大谷短期大学長(同短期大学付属幼稚園長兼任)に就任,平成14年3月に退職して現在に至っています。
この間,同人は,北海道大学に在職した37年間のうち,助教授昇任後の36年間にわたって文学部印度哲学講座の授業を担当され,専門教育課程の印度哲学史概説,印度哲学演習,仏教学概論,並びに大学院文学研究科東洋哲学専攻の印度哲学特殊講義,仏教学・仏教史演習を講じ,また一般教育課程の東洋思想及び「がん」の総合講義を分担し,印度哲学・仏教学の教育と研究の発展に貢献され,有為な人材を育成することに努められました。この間,ハーヴァード大学客員研究員(昭和35年7月〜37年7月),イェール大学客員研究員(昭和51年8月〜11月)として専門研究を深めるとともに,ブリティッシュ・コロンビア大学に出講(昭和62年3月)し,斯学の国際交流にも尽力されました。また,札幌大谷短期大学においては,10年間にわたって仏教思想論及び道徳教育に関する授業を担当し,短期高等教育の充実に努められました。
同人の専攻分野はインド仏教であり,その研究範囲は原始仏教から大乗仏教に至る仏教思想にとどまらず,広く中国・日本への展開にまで及んでいます。東京大学における卒業論文として取り上げた台密思想の研究によって,いちはやく金沢大学暁烏記念賞を受賞されましたが,その後原始仏教の思想研究に力を注ぎ,仏教における信の形態等に関する諸論文によって学界で注目を受け,日本宗教学会姉崎記念賞(昭和32年10月),日本印度学仏教学会賞(昭和33年6月)を受賞されました。また,大乗仏教研究に関しては,サンスクリット語原典並びにその漢訳・チベット訳経典を精密に資料批判するとともに,国内外における膨大な研究史を精査・批判し,インド・ヨーロッパ・アメリカ等の学界で紹介された多数の新資料を加えて,原始浄土思想の文献学的・思想的研究を集大成されました。東京大学より文学博士の学位(昭和42年11月)を授与された『原始浄土思想の研究』が公刊(岩波書店,昭和45年2月)されるや,学界において画期的な業績として高く評価され,日本学士院より日本学士院賞(昭和46年5月)を受賞され,仏教界よりは仏教伝道文化賞(昭和47年3月)を受賞されました。また,原始仏教研究の一環としてパーリ文『ジャータカ』(本生説話)第1巻の現代語訳を行われましたが,その成果として日本翻訳文化賞(平成3年11月)を受賞されました。さらに,多年にわたって,浄土経典のサンスクリット原典である『スカーヴァティーヴューハ』(極楽の荘厳)のネパール写本を38部蒐集し,そのすべてを忠実にローマ字に転写・集成し,英文で
Manuscripts from Nepal, 3 vols. (Tokyo, 1992, 1993, 1996)の大冊を公刊されましたが,わが国仏教学の世界に誇る一大成果として後進研究者の指針と見なされています。また,最近『浄土三部経の研究』(岩波書店,
平成19年3月)を完成し,『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三経それぞれの成立問題,思想内容,展開過程を総合的に解明し,前著『原始浄土思想の研究』の続篇として,学界から大きな注目を浴びておられます。
同人は,北海道大学在職中,昭和54年1月大学院委員会委員,昭和55年2月に評議員に選出され,また昭和57年4月から2年間文学部長及び大学院文学研究科長に任命され,全学の重要な議事に携わるとともに,学部・研究科の運営・発展のために職務を完遂されました。また,札幌大谷短期大学においては,学長をつとめること10年に及び,私学の短期高等教育の運営・振興に寄与されています。
また,同人は,これまで東京大学・東北大学・九州大学・広島大学・金沢大学・東洋大学・大谷大学の非常勤講師として他大学の教育研究に助力されるとともに,日本印度学仏教学会,日本仏教学会,日本宗教学会,仏教思想学会の理事・評議員として諸学会の発展のために尽くされ,昭和60年11月には北海道印度哲学仏教学会を創設し,その会長に選出されて今日に至っています。また海外においても,インド・ネパール・アメリカ・カナダ・ヨーロッパ諸国等の諸大学・研究機関と多年にわたって学術交流を続けられています。
以上のように,同人は,北海道大学における教育と研究において,文学部及び大学院文学研究科の充実・発展に尽力され,専攻分野であるインド仏教研究において国内外の学界に多大な影響を与え,また地域社会における学術研究者を組織し先導されてきています。同時に国立大学及び私立短期大学の管理運営においても,永年にわたり重要な貢献を果たされ,大学人としての教育と研究並びに行政上の功績は,まことに顕著であります。
(文学研究科・文学部)
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○須 貝 新太郎 氏
この度図らずも叙勲の栄に浴しましたが,これも北海道大学でお世話になった諸先生,同僚及び学生諸君のお陰であり,これらの諸氏に厚くお礼申し上げます。
私は北大予科理類に昭和19年4月に入学,22年4月に理学部物理学科に進学,卒業研究は古市二郎先生の所を選び,卒業後助手に採用されました。
そこでは優れた固体物性の研究が成されていましたが,先生は当時物理学としては手が付けられていなかった高分子物質の特性の解明と応用に着眼,又その頃から進展が顕著な分子生物学の主役の高分子から生物学への進展も心に秘められていた様でした。私は水溶液中で荷電する高分子電解質の研究テーマを頂きましたが,米国ペンシルバニア州立大の高分子物理学科でそれを拡げる機会を得,さらにそこで蛋白質内に見出される螺旋状アミノ酸配列等二次構造のモデル物質ポリアミノ酸の勉学も出来た事が私にとっては大きい収穫でした。
帰国後新設の高分子学科の生体高分子学講座に所属,兼任教授で合成化学の野口先生のご指導で種々のポリアミノ酸及びその誘導体を合成,蛋白質変性のモデルたるヘリックスーコイル転移等を研究出来,特にアミノ酸側鎖の疎水度を系統的に変えて疎水相互作用の二次構造安定性を定量化しました。又蛋白質の三次構造変化類似挙動をするビニール系疎水−親水性共重合体を作りその挙動の解析もしました。1970(昭和45)年頃からは蛋白質のアミノ酸配列から立体構造及びその折れ畳み過程の推定に仕事を進め,天然状構造,機能が詳細に明らかにされていて可逆変性する酵素リゾチームと同一遺伝子から進化した乳蛋白質α−ラクトアルブミンの性質の比較から出発しました。両者のアミノ酸配列差は僅かですが機能は全く違います。世界で初めてミリ秒域での二次構造変化の測定機を開発しての数年の我々の研究は図らずも蛋白質一般の重要な特性の示唆に発展出来ました:蛋白質は折れ畳みで素早く二次構造のみ形成された中間体が出来,その後ゆっくりと三次構造の形成でコンパクト化する。この折れ畳み中間体がその蛋白質の種々の構造特性に反影します。さらに我々が取り上げた両蛋白質の特性差はリガンドに関係していました:卵白リゾチームにはないCaがラクトアルブミンには1個結合している。その上リゾチームでも馬や鳩由来等にはCaが見出されました。この結合Caに着目して哺乳動物の進化の過程の論議に進展出来ました。
生体高分子講座は高分子学科の特色たる物理的,化学的両手法を使って,且つ生物的意義ある先駆的な仕事をとの要望に職員や学生諸君の貢献で多少とも答えられたかと考えています。彼等の中から北大は勿論,東大,名大,阪大その他の生体高分子の教授を多数輩出でき,遺伝子工学の手法等を併用して私の講座の考えがさらに展開された事,又現在も引き継がれている事は感激に耐えません。
若い頃教養部で担任したクラスの数人の学生が,彼等が定年退官した今でも来札時に訪問してくれると,懐かしく50年前の北大を思い出します。又入学試験制度検討委員,入学試験の実施責任者,あるいは評議員として北大全体に関する仕事に従事出来た事も今は忘れられない思い出であります。
大学が最近急激に変貌していますが恵まれた環境にある北大が益々研究,教育の面で発展される事を祈念いたしております。
略 歴 等 |
生年月日 |
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大正15年12月3日 |
昭和25年3月 |
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北海道大学理学部物理学科卒業 |
昭和25年7月 |
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北海道大学理学部助手 |
昭和30年6月 |
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北海道大学理学部助教授 |
昭和35年7月 |
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理学博士(北海道大学) |
昭和40年4月 |
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北海道大学理学部教授 |
昭和62年6月 |
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北海道大学評議員 |
平成元年5月 |
平成2年3月 |
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北海道大学停年退職 |
平成2年4月 |
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北海道大学名誉教授 |
平成2年4月 |
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創価大学工学部教授 |
平成14年3月 |
平成7年4月 |
} |
創価大学工学部長 |
平成9年3月 |
功 績 等
同人は,大正15年12月3日北海道に生まれ,昭和25年に北海道大学理学部物理学科を卒業,北海道大学理学部助手に任ぜられ,助教授を経て,同40年に同学部高分子学科教授に昇任,以来25年の長きに亙り同学科生体高分子学講座を担当されました。平成2年3月北海道大学を停年退官後,同大学名誉教授の称号を授与されました。引き続き,新設の創価大学工学部生物工学科教授に就任し,同大学工学部長を歴任,同大学大学院工学研究科の設置にも貢献されました。同14年3月同大学を退職され,現在に至っています。
同人は,卒業直後から物性物理学の研究に従事されていましたが,昭和28年から高分子物性物理学の仕事に着手,トレーサー法で溶液中での高分子の拡散過程の研究中,放射線による高分子水溶液の性質の変化に興味を抱き,高分子物理学と放射線生物学の境界に進み,学位論文「合成高分子溶液への電離放射線の照射効果」をまとめられ,同35年に北海道大学から理学博士の学位を授与されました。同36年から米国ペンシルバニア州立大学の高分子物理学研究グループに属し,原子炉で放射性同位元素を作り,高分子溶液物性の研究を続けていましたが,そのグループでは蛋白質の二次構造モデルとしてのポリアミノ酸の仕事も進められており,ここでの新しい生物物理学の勉学が後に役立つことになりました。また,同60年にはドイツ,マールブルグ・フィリップス大学物理化学科に客員教授として3ヶ月滞在されています。
同人は米国から帰国後,ポリアミノ酸を使って蛋白質の二次構造安定化の因子を明らかにする研究を始められました。側鎖の疎水度,荷電性を系統的に変えた一連のポリアミノ酸あるいはその共重合体を合成し,その溶液中での協同的分子形態転移を分光法,電気化学的手法などで調べ,特にβ構造と鎖状形態(コイル)間の転移の熱力学パラメータをpH滴定で初めて示したことや,疎水性側鎖の周りの水構造の重要牲を喚起した仕事は高く評価されました。また同人が示した二〜三のアミノ酸のヘリックス構造形成パラメータは現在でも蛋白質の分子設計のためのエネルギー計算で使用されています。一方,蛋白質の三次構造安定化への疎水相互作用の寄与を明らかにするモデル研究として,疎水・親水両性高分子を合成し,その水溶液中での球状形態(グロビュール)と鎖状形態(コイル)との間の転移を詳細に研究されました。この仕事は度々外国での国際学会の招待講演として,また国際的な学術誌のレビューとして報告されています。
同人は,モデル高分子による仕事と並行して天然蛋白質の立体構造の研究も展開され,「アミノ酸配列がいかにして立体構造と機能を決定しているのか」という問題の解決に向けて,当時,立体構造が解明されていた酵素,卵白リゾチームとアミノ酸配列が相同でありながら機能が異なる蛋白質αラクトアルブミンを研究対象に取り上げられました。蛋白質の変性は通常,天然構造とコイル構造との間の平衡によって記述されることが知られており,リゾチームの変性はその代表的なものでした。これに対して,αラクトアルブミンの変性剤による変性過程では変性中間体が観測され,これが後に蛋白質の立体構造形成(折れたたみ)の中間体として脚光を浴びる「モルテン・グロビュール」という概念の確立に寄与することとなります。さらに同人のリゾチームとαラクトアルブミンの比較研究からαラクトアルブミンが卵白リゾチームと違ってカルシウムイオン結合蛋白質であることが発見されました。さらに同人は卵白リゾチームと違って馬と鳩のリゾチームが一次構造上αラクトアルブミンのカルシウムイオン結合に関与するアミノ酸残基を保持していることに注目して,両リゾチームのカルシウムイオン結合能を実証し,αラクトアルブミンや馬および鳩のリゾチームがカルシウムイオン結合能を進化の過程で獲得する機構についても新たな説を提案されています。同人は,核酸の立体構造と一次構造との相関についても小さなリボゾームRNAをモデルに研究され,合成DNAでのB型とZ型の間の構造転移の仕事も行なわれています。
モデル高分子および生体高分子の化学構造と立体構造を相関させることに焦点があった同人の仕事は,物理学・化学・生物学に広くまたがり,北海道大学理学部高分子学科では多くの学生が同人の指導を希望しました。同人の指導を受けた多くの研究者が,各機関で活躍しています。創価大学に移られてからも蛋白質の研究に情熱を傾けられ,同大学においても博士号取得者を送り出しています。また,同人は米・独・ソ連などから多数の研究者が共同研究に訪れることで国際的な研究指導者として評価されました。
学外にあっては,日本生物物理学会および高分子学会の運営に携わるとともに,高分子学会北海道支部長などを歴任され,また日本生化学会の欧文誌「Journal
of Biochemistry」の編集にも携わりました。また,アメリカ化学会の常任論文審査員,さらにアメリカの国立衛生研究所等の研究計画審査員も勤め国際的評価も高かったのです。北海道大学では,図書館委員会委員,教養課程教育協議会委員,言語文化部共同利用委員会委員,入学試験制度調査委員会委員,入学試験総務の責任者など要職を務め,昭和62年から平成元年に亙って評議員として大学行政上重要な貢献をされました。創価大学では平成7年から同9年まで工学部長を務められました。
以上のように,同人は生体高分子の立体構造の高分子物理学および生物物理学的研究における優れた業績によって学術上の進歩に寄与するところ多大であるとともに,教育および行政上の功績もまことに顕著であります。
(理学研究院・理学院・理学部)
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○吉 田 仁 志 氏
このたび,叙勲の栄に浴し,まことに光栄に存じます。これもひとえに恩師をはじめ,多くの方々が永年にわたり私を,ご指導,ご支援下さった賜と存じ,衷心より御礼申し上げます。
振り返ると,私の学んだ理学部化学科分析化学講座(太秦教授)は,私たち同期6名の分属で,どの研究室も満杯で賑やかとなりました。そんな中で私は蟇目助教授室の片隅に机を置かせてもらい,卒論として行った溶液噴霧発光分光分析実験は,石英分光器のある大きな暗室での一人相撲でした。噴霧に必要な高圧ガスボンベを理学部玄関から3階実験室まで担いで運んだり,写真乾板の現像・定着,光度の測定などの手作業の研究環境は現在とは大きく異なっていました。
しかし,化学実験の面白さに惹かれ大学院に進みました。途中病気での中断はありましたが研究実験を大いに進めることができました。修了後,学生募集増の時代でもあり,幸いにも昭和33年理学部助手(教養担当)を拝命しました。最初の担当は,改築廃材で急造した100名収容の大実験室での定性分析実験の準備・点検と指導でした。学生は週1回の実験ですが,私の準備・点検は殆ど連日の作業でしたので,研究実験は夕刻からとなりました。それでも真剣に実験に取り組む明るい学生たちの姿にも励まされ,事故もなく継続することができたのです。その後教養部新館が完成し,講義室,学生実験室も充実したものとなりました。
しかし,それもつかの間,学園紛争により教養部は長期封鎖され,大学入試の実施も困難になりかけたのです。当時入試の総務であった私は,事務局,関連委員等と一丸となってこの解決に当たり,同じように学園紛争で入試の実施が危ぶまれていた大学が多い中,北大の入試を無事完了でき,学長とともに万歳三唱をした時のことは今でも鮮明に記憶に残っています。
また,教養部長,評議員在職中に,永年の懸案であった教養部問題を全学的関心事まで高め得たことは,その後の北大改革推進の一助になったものと思っています。
北大で明るく元気な学生と過ごした日々も遠い彼方となりつつありますが,北海道大学の益々のご発展と北大の皆々様のご健勝を祈念致します。
略 歴 等 |
生年月日 |
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昭和2年5月8日 |
昭和25年3月 |
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北海道大学予科理類修了 |
昭和28年3月 |
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北海道大学理学部化学科卒業 |
昭和33年7月 |
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北海道大学理学部助手 |
昭和36年12月 |
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理学博士(北海道大学) |
昭和37年5月 |
|
北海道大学理学部助教授 |
昭和49年4月 |
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北海道大学理学部教授 |
昭和62年1月 |
} |
北海道大学評議員 |
平成2年12月 |
昭和64年1月 |
} |
北海道大学教養部長 |
平成2年12月 |
平成3年3月 |
|
北道大学停年退職 |
平成3年4月 |
|
北海道大学名誉教授 |
功 績 等
同人は,昭和2年5月8日北海道に生まれ,同28年3月に北海道大学理学部化学科を卒業,引き続き同大学大学院に進学,同33年7月同大学理学部化学科助手に任じられました。同37年5月には同大学理学部助教授,同49年4月に教授に昇任し,平成3年3月停年により退官されました。この間,主として教養課程化学を担当,併せて大学院理学研究科を担当して学生の教育と研究指導に尽力されました。同大学を停年退職後,平成4年までは東日本学園大学において非常勤講師,平成11年までは株式会社北海三共研究所において研究顧問として各種分析法の指導と信頼性の向上,データの解析と管理に従事され,同社を退職後現在に至っています。
なお,昭和36年12月には「硫黄を含む有機試薬による無機イオンの迅速光度定量に関する研究」により北海道大学から理学博士の学位を授与されました。また,同53年から1年間,カナダ及びアメリカ合衆国への出張を命じられ,特にカナダNRCにおいて,誘導プラズマ発光分析法に関する研究に従事されました。
この間,同人は永年にわたって,分析化学の教育,研究に務め,水溶液中に存在する微量成分のための高感度,高選択的分析手法の開発と分離化学に関する研究に取り組んでこられました。初期の溶液噴霧発光分光分析法の開発に関する研究から始まり,有機試薬を用いる無機イオンの迅速光度定量に関する研究,その後の細管等速電気泳動,温度滴定,特異的反応を用いるボルタンメトリーの高感度化,キャピラリゾーン電気泳動など多岐にわたりますが,それぞれに多くの優れた業績があります。
同人の等速電気泳動法に関する研究は,対象イオンを反応活性な錯体やイオン対を形成する平衡下におくことで,それらイオンの有効移動度を精密に制御調節しようとする新しい泳動系を開発したものです。化学的性質が酷似しほとんど同じ移動度を有するためにその分離が極めて困難とされていた14種のランタノイドイオンも,同人の開発した泳動系では完全な一斉分離が達成されました。この成果は分離化学における錯形成平衡適用の典型的成果として外国のテキストにも紹介されるなど国内外から高く評価されています。同人はこの手法をさらにジメチルホルムアミドなど非水溶媒系にまで発展させ,ターミナルゾーンに錯形成剤の供給源と,移動度の調節機能とを保持させた新たな泳動系を創案されました。
また,同人は熱的分析法の開発においても,多くの業績をあげられています。精密な温度制御の困難さからこれまで開発が見送られていた温度滴定装置の開発に着手し完成させるとともに,この装置を用いて多成分系における滴定終点の鋭敏化,終点指示反応の開拓などの研究を行ない,この方法の普及拡大に多大なる貢献をされました。極微量分析の分野においても,ストリッピング・ボルタンメトリーやポーラログラフィーなど主に電気化学的手法に基づく開発を行い,電極表面の修飾や反応波の導入により高感度で選択牲に富む分析法を確立されました。その他,ビスムチオール
II など含硫有機試薬による吸光光度法に関する研究,均一沈澱を利用する重量分析法,溶媒抽出・イオン交換などの分離分析,原子吸光法,三元錯体を用いる電導度滴定,極低濃度復極剤のストリッピング・ボルタンメトリー滴定など多方面にわたり優れた業績があります。
このような同人の永年にわたる分析化学分野における研究業績「錯形成反応の考察に基づく電気分析法及び温度滴定法に関する研究」に対しては,分析化学の発展に貢献するところ顕著であるとして昭和63年日本分析化学会から学会賞が授与されています。
一方,北海道大学内においては,昭和64年1月から平成2年12月までは教養部長として,また昭和62年から4年間は評議員として大学院整備構想との関連における教養部改革に関連する問題に積極的に取り組むと共に,教育環境の整備と平穏な教育研究の場の確保に努力されました。また大学紛争時の極めて困難な時期を含めて多年にわたり北海道大学入学試験委員会委員,総務担当,入学者選抜試験制度調査委員会委員,あるいは入学者選抜委員会副委員長として,本学入学試験の改善と円滑な運営に貢献されました。
学会にあっては,日本分析化学会北海道支部の運営,同学会誌の編集に携わり,さらに,昭和63年には同学会第37年会を札幌で成功裡に開催されました。また,日本化学会においては化学教育関連,広報関連等に携わり,同学会北海道支部の学会活動の発展に尽力されました。特に,高校と大学との関連における化学教育の振興に貢献されました。
学外にあっては,北海道教育委員会公立高校入学選抜改善研究協議会,北海道環境科学技術センター,また,北海道立理科教育センターでは講師として地域社会の発展に寄与されました。
以上のように,同人は,多年にわたる教育,研究を通じて人材の育成や,分析化学分野における優れた研究業績によって学術上の進歩に寄与するところ大であるとともに,大学教育上および行政上の功績もまことに顕著であります。
(理学研究院・理学院・理学部)
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○北 村 忠 代 氏
この度平成19年度秋の叙勲の栄に浴し,身に余る光栄と思っております。私がこのような機会に恵まれたのはひとえに諸先輩,同僚など多くの皆様方のご指導,ご支援の賜物と深謝し,心から厚くお礼申し上げます。
私は昭和44年の卒業と同時に事務局庶務部保健課(学生診療所,現保健管理センター)に採用されました。当時は70年安保で学生運動が盛んな時代でした。北大でも大学本部が封鎖され,機動隊の放水等により解除された光景が目に浮かびます。そのような中で当課は学生,教職員の診療の他,健康診断,保健管理を行っていました。学生の検診時にはセンター内が人の波であふれかえったことが懐かしく思い起こされます。検診は定期だけではなく,RI取扱者,有害物質取扱者の検診もありました。大学の性質上それら検診の対象者は多く,また検査項目も尿検査,血液検査,生化学検査,生理検査と多岐にわたりました。小さい検査室で2〜3人の検査技師でしたが,歴代所長の高橋香織先生,木下眞二先生,本間行彦先生のもと,事務職員,他医療技術職員の方々のご協力を得て無事やり遂げることができました。特に高橋先生からは,健康診断の重要性,その後のフォローの大切さ,また診療における患者さんに対する誠意等多くのことを教えていただきました。
平成9年4月に病院検査部に異動しましたが,その年は検査部にとっても転機となる年でした。3月に検査室は中央診療棟に移転し,搬送システムが稼動するという時期でした。また10月には検査技師が看護婦さんと協力して外来患者さんの採血を行うという採血の中央化が行われました。採血の中央化に際してはセンターでの採血の経験を生かすことができました。
平成15年10月には医学部附属病院と歯学部附属病院が統合され,診療支援部が設置されました。それに伴い石塚昇司臨床検査技師長が診療支援部長に就任し,私がその後任として臨床検査技師長を引き継ぐことになりました。当初は戸惑いましたが西村正治先生(元検査部長,現北大病院第一内科長),千葉仁志先生(元検査部長,現医学部保健学科教授)をはじめ,諸先輩,同僚,部員の皆様のご協力により無事勤め上げることができました。また平成17年には日本初のISO15189という国際認定規格を取得できましたが,取得するまでの部員の皆様の努力には心より感謝しています。この中で検査部は基本理念のひとつに「顧客(医師,患者)の利益を尊重する」を掲げていますが,大学として教育・研究はもちろん重要ですが忘れてはならないことのひとつだと考えています。
平成18年からは診療支援部長と検査部臨床検査技師長との兼務となりましたが,検査部にとっては懸案でありました機器システム更新の目途が立ち,また診療支援部としては検査部と放射線部の協力によりエコー検査の拡充を図ることができました。これも病院長をはじめ関係各位のご理解とご協力のおかげと深く感謝しています。
最後に,法人化後には経営感覚も持たなければならないという厳しい状況の中ですが,北大の益々の発展をご祈念申し上げます。
略 歴 等 |
生年月日 |
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昭和21年11月13日 |
昭和44年3月 |
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北海道大学医学部附属衛生検査技師学校卒業 |
昭和44年4月 |
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衛生検査技師免許取得 |
昭和44年5月 |
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北海道大学庶務部保健課 衛生検査技師 |
昭和46年12月 |
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臨床検査技師免許取得 |
昭和47年8月 |
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北海道大学庶務部保健課 臨床検査技師 |
平成7年4月 |
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北海道大学保健管理センター 臨床検査技師 |
平成9年4月 |
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北海道大学医学部附属病院検査部 臨床検査技師 |
平成10年4月 |
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北海道大学医学部附属病院検査部 主任臨床検査技師 |
平成15年10月 |
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北海道大学医学部・歯学部附属病院診療支援部 主任臨床検査技師 |
平成16年4月 |
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北海道大学病院診療支援部 臨床検査技師長 |
平成18年4月 |
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北海道大学病院診療支援部長 |
平成19年3月 |
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北海道大学定年退職 |
功 績 等
同人は昭和21年11月13日樺太恵須取郡恵須取町に生まれ,昭和40年3月北海道立寿都高等学校を卒業,昭和42年4月北海道大学医学部附属衛生検査技師学校に入学されました。昭和44年3月に同校を卒業,同年4月1日北海道大学庶務部保健課(現保健管理センター)技術補佐員として採用され,同年5月15日退職後,同年同月16日文部技官衛生検査技師として同課にあらためて採用されました。昭和47年8月同課臨床検査技師に配置換,平成7年4月北海道大学保健管理センターに配置換,平成9年4月に北海道大学医学部附病院検査部に配置換となり,通算38年の勤続後平成19年3月31日定年により退職されました。
同人は昭和44年北海道大学庶務部保健課に採用以来,学生・職員の診療への補助となる臨床検査,及び学生・職員の健康診断の各検査を業務とされ,平成9年4月に医学部附属病院(後北海道大学病院)検査部に配置換となった後には,地域医療の中枢となる大学病院の一員として臨床検査業務に精励されました。
同人は庶務部保健課に就職後,衛生検査技師として尿検査,血液検査,細菌検査の業務を行われましたが,昭和46年12月には生理検査,採血行為を可能とする臨床検査技師の免許を取得し,心電図検査を業務に取り入れ,検査のための採血を行い,医師・看護師の業務軽減を図られました。また昭和48年からは脳波検査を新規に取り入れ,精神科医が行う学生の精神衛生相談に大きく貢献されました。
学生・職員の定期健康診断時は腎疾患,糖尿病等の早期発見を目的とし尿検査を行いますが,同人は医師と積極的に協議し一次検査の陽性者に対して,最終診断までの標準工程を作り上げられました。特に尿糖陽性者に対しての再検査は空腹時血糖を測定していましたが,業務の効率化を図り,検査に時間のかかる糖の負荷試験を行うことにより,糖尿病の早期診断を可能としました。また放射線取扱者の健診項目である,白血球5分画についても機器による簡易分類のみに頼らず,顕鏡することにより精度を高め医師の信頼を得られました。有害物質取扱者の健診については,取扱物質により多岐にわたる多種多様な検査項目について,各人が必要とする項目を自動的に出力するパソコンのプログラムを開発されました。
同人は昭和63年に細胞検査士の資格をとり,大学職員が受ける肺がんの早期発見を目的とする喀痰の細胞診を行い,肺がんの早期発見に寄与されました。
平成9年4月に北海道大学医学部附属病院検査部に配置換となってからは,それまでの経験を生かし,看護部と協力して採血の技術,知識を他臨床検査技師に訓練,教育し平成9年10月の中央採血室開設に尽力されました。外来採血の中央化は各科看護師の業務の効率化につながり,患者さんに対しても,臨床検査技師と接することにより自らに行われる検査について,理解を深める機会を与え患者サービスの向上につながりました。
同人は同院に配置換となって以来,一般検査,血液検査,フローサイトメトリー検査のルーチンを行ってきましたが,学生の実習,後進の指導にも熱心にかつ積極的にあたり,平成10年4月には主任臨床検査技師となり,緊急検査室,中央採血室の責任者として医師の要望,患者さんの苦情等に適切に対応,高い評価を受けられました。
同人はこの間の功績が認められ,平成15年12月北海道大学医学部・歯学部附属病院診療支援部臨床検査技師長に昇任されました。当時検査部では臨床検査室における品質マネジメントシステムの国際規格である「ISO15189」の認定取得に取り組んでいましたが,同人は同認定を取得するためさらに強いリーダーシップを発揮し,ともすれば挫折しそうになる部員を鼓舞し,部員とともに積極的に文書作成,マネジメント体制の確立に取り組み,平成17年9月大学病院としては日本第1号の「ISO15189」の認定を取得しました。このことにより,検査部はもちろん,大学病院としても高い評価を得,各学会等の反響は大きく,他施設,他大学等からの見学来訪者も多くなりました。また検査部長,臨床検査技師長をはじめ部員が他大学,他施設,各学会等で講演をすることにより「ISO15189」の認知度は高まり,認定取得施設は増えています。このことは日本の臨床検査の質を高め,最終的には医師・患者の満足度を向上させるものであり,同人が率先して行った「ISO15189」認定取得の功績は多大なものがあります。
同人は平成15年12月に臨床検査技師長となるとともに,平成15年10月に発足した診療支援部の副診療支援部長として,歴代の診療支援部長の補佐を行い平成18年4月には北海道大学病院診療支援部長に昇任されました。診療支援部は,臨床検査技師,診療放射線技師,理学療法士,作業療法士,臨床工学技士,歯科技工士,視能訓練士,言語聴覚士等の医療技術職員約130人を統括し,診療を支援する部ですが,同人は人員の配置を見直し放射線部,検査部とで相互に協力し,超音波検査の業務拡大を行ないました。このことは診療科に高い評価を得るとともに,早期に検査を行うことにより患者の不満が解消されました。また作業療法士と言語聴覚士の定員配置を見直し,部員の職務に対する意識を高められました。
同人は北海道大学庶務部保健課に採用されて以後平成8年まで,医学部附属臨床検査技師学校学生,医療短期大学衛生技術学科学生に対して,尿検査の実習教育に携わってこられました。また平成9年からは医療短期大学衛生技術学科学生に対して,一般検査,血液検査,採血の実習を担当し,平成16年からは医療短期大学衛生技術学科の非常勤講師,平成18年は医学部保健学科の非常勤講師としておよそ30年余学生教育に携わり,臨床検査技師の養成に大きく貢献されています。
また同人は北海道知事から委嘱を受け北海道精度管理システム運営委員会委員として,北海道内の登録衛生検査所の精度管理調査にも尽力されました。
同人はこれら約38年もの永きにわたり,臨床検査の向上と進歩に寄与され,後進の育成に尽力されたその功績は誠に顕著であると認められます。
(北海道大学病院)
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○佐 山 幸 雄 氏
このたび叙勲の栄に浴し,身に余る光栄と感謝いたしております。今日までご指導,ご支援,ご協力くださった多数の方々に衷心より御礼申し上げます。
顧みますれば,昭和42年5月北海道大学医学部附属病院登別分院,平成9年1月北海道大学事務局経理部経理課に勤務し,平成14年3月の退官迄の34年余り大過なく北海道大学に勤務出来た事を誇りに思っております。
このたびの叙勲受章は私を支えて下さった同僚の皆様方と共に受けられるものであり,受章を代表させて頂きました事を感謝申し上げます。
最後に今回の受章の労をお取り下さった皆様に心よりお礼申し上げますと共に,北海道大学の益々の発展を心からお祈り申し上げます。
略 歴 等 |
生年月日 |
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昭和16年4月20日 |
昭和32年3月 |
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登別温泉中学校卒業 |
昭和42年5月 |
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北海道大学医学部附属病院登別分院 技能員 |
昭和46年11月 |
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文部技官 |
昭和47年8月 |
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北海道大学医学部附属病院登別分院 自動車運転手 |
昭和49年1月 |
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北海道大学医学部附属病院管理課 自動車運転手 |
昭和50年4月 |
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北海道大学医学部附属病院総務課 自動車運転手 |
平成9年1月 |
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北海道大学経理部経理課 自動車運転手
事務局公用自動車車庫乗用自動車部門 |
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平成9年4月 |
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北海道大学経理部経理課 自動車運転手
事務局公用自動車車庫大型自動車部門 |
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平成10年4月 |
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北海道大学経理部経理課 自動車運転手
事務局公用自動車車庫乗用自動車部門主任 |
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平成11年4月 |
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北海道大学経理部経理課 自動車運転手
事務局公用自動車車庫貨物自動車部門車庫長 |
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平成13年4月 |
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北海道大学経理部経理課 自動車運転手
事務局公用自動車車庫乗用自動車部門車庫長 |
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平成14年3月 |
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北海道大学定年退職 |
功 績 等
佐山幸雄氏は,昭和42年5月北海道大学医学部附属病院登別分院技能員に採用され,同46年11月文部技官に任官され,平成14年3月定年により退職するまで主に自動車運転手として職務に精励されました。
昭和42年5月北海道大学医学部附属病院登別分院に技能員として採用された当時は,ボイラー室勤務でありましたが,昭和46年11月文部技官に任官され,翌47年8月同分院自動車運転手に配置換になり,ボイラー業務を兼務しながら,運転業務を遂行されました。
分院に勤務されていた当時は,北海道大学医学部附属病院(札幌市)において,毎週木曜日に医学部教授会,診療科長会議,看護婦長会議があり,分院長,看護婦長,教授等の送迎のため,登別・札幌間を日帰りで往復する任にあたりましたが,当時は高速道路がなく,片道3時間程かかり,特に冬場は猛吹雪に遭遇して片道4時間以上かかることもあり,登別分院到着は夜中の時も多数回ありました。これらの業務を無事故で遂行できたのは,同人の温厚な人柄,また,運転手としての模範となるべき自覚を心がけた結果でありました。
昭和49年1月登別分院事務掛を命ぜられ,運転業務の他に郵便物の受取・発送,社会保険事務所への連絡等の事務及び環境整備や営繕業務を行われましたが,環境整備や営繕業務については,業者に外注することなく,自ら進んで業務を行われ,事務職員の信頼は絶大でありました。その後,このような勤務態度が評価され,平成9年1月北海道大学経理部経理課自動車運転手に配置換になり,事務局公用乗用自動車部門勤務を命ぜられました。
札幌へ移転して3年目の平成12年3月有珠山が噴火し,医療支援活動として,北海道大学病院支援活動チームが結成され,同人はその一員として,同年4月から6月の医療支援活動が終了するまでの間,札幌と豊浦間をマイクロバスで救護班の搬送,医療品等の搬送業務等,避難所である豊浦町生活改善センターへの支援活動を行われました。
その後,平成9年4月同車庫大型自動車部門勤務,翌10年4月同車庫乗用自動車部門主任,翌11年4月同車庫貨物自動車部門車庫長,同13年同車庫乗用自動車部門車庫長となり,翌14年3月に定年退職されるまで,部下の模範となり所轄部門の安全管理の職責を全うされました。
以上のように,同人は34年余りの長きに亘り,主として自動車運転業務を通じて病院業務,教育研究の業務を陰から支え,また,真面目な人柄と率先して業務に取り組む姿は,皆の見本となり,その功績は誠に顕著であります。
(財務部主計課)
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