北大を去るにあたって

 本年3月31日限りで定年退職される方々の略歴とお言葉を紹介します。

南 部   f(なんぶ のぼる) 氏なん    fのぼる 氏(文学研究科教授)
昭和21年1月24日生
(略  歴)
昭和44年3月   北海道大学文学部卒業
昭和47年3月   北海道大学大学院文学研究科修士課程修了
昭和48年10月   北海道大学大学院文学研究科博士課程退学
昭和48年10月   北海道大学文学部助手
昭和49年10月   北海道教育大学教育学部釧路分校助手
昭和51年4月   北海道教育大学教育学部釧路分校講師
昭和53年10月   北海道教育大学教育学部釧路分校助教授
昭和59年4月   北海道大学文学部助教授

平成6年4月

  北海道大学文学部教授

平成12年4月

  北海道大学大学院文学研究科教授
平成17年4月 } 北海道大学評議員
平成21年3月

 1984年4月,文学部に着任した。「兼ねて教養部勤務を命ず」とされ研究室は昨年3月まで現高機能センターにあった。ここで教養部生・文学部生・大学院生の教育に4・3・3位のエネルギーを配分した前半1995年までと,教養部が解体し,3・3・4位の配分となった後半2009年3月までの生活は,かなり異なっている。
 前半の時代には予科の雰囲気を伝え残す老教授が健在であった。
 私は教養部の教官会にも出席し,文系の他部局や理系の方々と現在も続く交際を持てた。当時は,自分の上司が教養部長なのか文学部長なのか迷い,やがて一つの部局が潰えることの重さも感じた。
 後半は文学研究科・文学部さらに全学のため各種委員会で働くことになった。大学祭の禁酒は思い出である。様々な場面で長年の教官や事務官に教えられ,若い方々に助けられたことに感謝したい。
 なお,私は2006年3月の評議会で「大くくり入試」を批判し,これは「ジリ貪」を恐れて「ドカ貪」に進むものであると述べた。私なりに信頼できる情報を集め,熟慮して発言したことであるが,私の杞憂であることを祈っている。


大 怐@龍 児(おおつか りゅうじ) 氏おお つか りゅう  氏(法学研究科教授)
昭和20年4月23日生
(略  歴)
昭和44年6月   東京大学法学部第一類卒業
昭和44年7月   東京大学法学部助手
昭和47年8月   北海道大学法学部助教授
昭和55年12月   北海道大学法学部教授
平成4年12月 } 北海道大学評議員
平成6年12月
平成6年12月 } 北海道大学大学院法学研究科長,法学部長,評議員
平成8年12月
平成12年4月   北海道大学大学院法学研究科教授

 宮の森シャンツェに1位,2位,3位の日の丸が揚がった札幌冬季オリンピックの年,昭和47年(1972年)の夏に本学法学部に助教授として採用されて,はや36年8ヶ月が,夢のように去って行き,無事定年退職を迎えることができました。名誉教授としていただくための時間的要件は揃えることができましたが,学問的には如何でしょうか。法とは何かは時間とともによく分からないというのが正しいようでもあり,どんな業績があったのか自分のことになると,これは全然分かりません。この間,時代適合的とはいえない私に,自由な研究を許してくれ,多くの蔵書の利用を可能にしてくれた北海道大学に深く感謝いたします。学問研究を離れて,法学部法律相談室の顧問を35年間続けることができたことは,業績といえるかもしれません。
 うまいとはいえない講義,演習につきあってくれた歴代の学生諸君,頼りない顧問を起ててくれた歴代法律相談室員,本当にありがとうございました。


内 田 和 男(うちだ かずお) 氏うち  かず  氏(経済学研究科教授)
(略  歴)
昭和50年4月   北海道大学経済学部講師
昭和52年4月   北海道大学経済学部助教授
昭和63年7月   北海道大学経済学部教授
平成元年3月   経済学博士(北海道大学)
平成12年4月   北海道大学大学院経済学研究科教授
平成9年8月 } 北海道大学評議員
平成9年12月
平成10年1月 } 北海道大学経済学部長
平成12年3月
平成12年4月 } 北海道大学大学院経済学研究科長,経済学部長
平成13年3月
平成14年8月 } 北海道大学大学院経済学研究科長,経済学部長
平成16年7月

 幸いにも北大に奉職することが出来て今日まで,全て順調であったとは言い難くとも,都心にありながら自然に恵まれた広大なキャンパスで,自分なりに充実した教育研究生活を送ることが出来たことに感謝しております。
 赴任した頃に比べ現在は,航空機の利便性やインターネットの普及等により移動や情報のコスト格差が解消してきましたが,そのことが逆に北海道のこれまでの神秘的な魅力を消失させてはいないでしょうか。どこの如何なる情報も発受信において差が無くなれば,これまで以上に発信すべき情報の質と量が重要となります。もちろん北大では理系文系を問わず各分野の研究に関するプロ集団のネットワーク情報が基本ですが,北大が社会一般から広く高い評価を得るためには,文系の社会に発信する情報の役割がこれまでにも増して重要となり,その充実が求められていくと思います。
 北大の今後一層の発展を祈念しております。


岩 崎 喜 信(いわさき よしのぶ) 氏いわ さき よし のぶ 氏(医学研究科教授)
昭和21年2月10日生
(略  歴)
昭和46年3月   北海道大学医学部卒業
昭和52年10月   北海道大学医学部助手
昭和60年4月   北海道大学医学部附属病院講師
昭和62年9月   医学博士(北海道大学)
昭和62年12月   北海道大学医学部助教授
平成12年8月   北海道大学大学院医学研究科教授

 長年お世話になりました北海道大学医学部を退職するにあたり,一言ご挨拶を申し上げます。北大卒業後,すぐに脳神経外科学教室に入り,以来約40年間,一人の医師として,診療,研究,教育に従事してまいりました。在籍中は全て平穏無事とはいかず,ご承知の方もいらっしゃると思いますが,医師の名義貸し問題,医局制度の見直し,大学の独立行政法人化,早期臨床研究制度の導入,医師不足と医療過疎の拡大等々,医師を取り巻く現場が非常に厳しくなり,その対応に四苦八苦する事が続いております。退職にあたり,大学に所属する医師はどうあるべきものなのか,世間とはある程度,隔絶して研修教育に集中すべきか,あるいは時代への流れに応じて社会とできる限り融合してゆくべきなのか,今もって答えが出ません。北大を去り,今後は一人の臨床医として治療に従事して行くつもりですが,もう一度ゆっくり考えて行きたいと思います。長い間ありがとうございました。


山 下 幹 雄(やました みきお) 氏やま した みき  氏(工学研究科教授)
昭和21年2月15日生
(略  歴)
昭和45年3月   京都大学大学院工学研究科修士課程修了
昭和45年4月   通商産業省工業技術院電気試験所通商産業技官
昭和45年7月   通商産業省工業技術院電子技術総合研究所通商産業技官
昭和51年3月   工学博士(京都大学)
平成3年9月   北海道大学工学部教授
平成9年4月   北海道大学大学院工学研究科教授

 北の大地にきて18年,時には苦しくも楽しく精一杯過ごすことができました。大都会にも関わらず,札幌で初めて,バラエティに富みゆとりある生活空間があることを知りました。
 任された講座に4人の異分野の教職員がおられ面食らったことから北大生活が始まり,これまでの自分1人で行う研究のみの生活から一転して,学生と楽しみながら光科学技術の実験室を立ち上げることに励みました。そのうち研究室にくる学生が増えるにつれて,研究と教育との両立が時間的にもマンパワー的にも予算的にも難しくなってきました。そこで悩んだ末集中することにしたのが,実現すればインパクトのある提案論文を書くこと,そしてこれを実証するためにという論理でふさわしい研究費をとることでした。何度かの失敗の後,始まったばかりの大型プロジェクト制度の独立行政法人科学技術振興機構(JST)・CRESTがあたり,その結果教職員・研究員・学生が建設的な相互作用の下で,研究と教育の一体化ができるようになりました。プロジェクトが終わった直後に,提案に絡む世界最高の極限光技術の開発が可能になりました。その後のこの成果を基にして再度,JST・CRESTプロジェクトが始まり,現在に至っています。
 非力な私がなんとかここまでやってこられたのも,学内外の多くの人達の支え・協力があったおかげです。常に建設的に生きることの重要さを学びました。更に2年間続くCREST研究を成功させることに特任教授として精力を傾けたいと思っています。


工 藤 一 彦(くどう かずひこ) 氏 どう かず ひこ 氏(工学研究科教授)
昭和20年12月生
(略  歴)
昭和43年3月   東京大学工学部卒業
昭和45年3月   東京大学大学院工学系研究科修士課程修了
昭和45年4月 } 民間(株式会社日立製作所)
昭和56年8月
昭和54年6月   工学博士(東京大学)
昭和56年9月   北海道大学工学部助教授
平成6年4月   北海道大学工学部教授
平成9年4月   北海道大学大学院工学研究科教授

 北海道大学での27年間は,球充填層内ふく射透過特性モデル化,燃料電池ガス拡散層内水分移動モデル化など,熱工学の広い分野で好奇心の赴くままに,自然の女神がそのベールの裏に隠した神秘を垣間見ることに没頭し,好奇心の湧き上がりとその充足を味わわせていただきました。その間,ありとあらゆることを知り,学び,人類の知恵に少しのことを付け加え,次の世代にそれを引き継ぐことができたことを幸せに思います。これもひとえに私の周りの皆様が,知的好奇心の探究などという浮世離れした私の行動を暖かく見守り,手助けをしていただいたおかげだと深く感謝するしだいです。今後は若い世代の方々のご健闘を期待し,北海道大学の研究者・卒業生であることが,世界の中でのステータスになることを期待しております。
 北大における27年の間お世話になった皆様に感謝申し上げて,なつかしい北大および札幌から去らせていただきたいと思います。ありがとうございました。


池 川 昌 弘(いけがわ まさひろ) 氏いけ がわ まさ ひろ 氏(工学研究科教授)
昭和21年1月5日生
(略  歴)
昭和43年3月   東京大学工学部卒業
昭和45年3月   東京大学大学院工学系研究科修士課程修了
昭和48年3月   東京大学大学院工学系研究科博士課程修了
昭和48年3月   工学博士(東京大学)
昭和48年4月 } 民間(株式会社日立製作所) 
平成13年3月
平成13年4月   北海道大学大学院工学研究科教授

 日立製作所で28年間の研究生活に別れを告げ,北大に赴任して8年が過ぎました。着任直後は,民間企業とは異なる環境に戸惑うこともありましたが,大学の独立行政法人化後,大学の運営体制も変わり,次第に目指す方向も見えてきたような気がしています。若い先生方が,夢と希望を持って研究と教育に情熱を燃やすことの出来る体制作りに邁進していって欲しいと願っています。
 長いようで短い8年間でしたが,南国土佐出身の私も,すっかり北海道大好き人間になりました。夏は山登りとゴルフ,冬はスキーにと,四季の変化の激しさや自然の雄大さに心洗われる年月でした。特に最後の年には,北海道での思い出にしようと休日をフルに活用して,日高のアポイ岳,利尻島の利尻山,札幌の手稲山,紅葉の映える大雪の赤岳および白雲岳と,毎週のように老骨に鞭打って,登山を楽しみました。北大の益々の発展を,心よりお祈りいたしております。


上 田 正 生(うえだ まさいき) 氏
うえ  まさ いき 氏(工学研究科教授)
 私が昭和50年4月に北大工学部に助手として赴任してから既に34年が経過することになります。当初は工学部一般教育等図学教室に所属しており,理系の1,2年生を対象とした図学の教育に携わっておりました。北大にまだ教養部が存在していた時代でした。その後の教育改革の流れの中で,当時教養部に所属していた全教官は大学院の機構改革の進展に合わせて学内の各学部・大学院に配属されることとなり,図学教室は工学部・工学研究科に配置換えになり現在に至っています。工学研究科では幸運なことに若い優秀な学生諸君に恵まれ,私自身が予期していたより格段に多くの成果を挙げることが出来たように思います。勿論これらの成果の殆どは,同僚と優れた院生(修士・博士後期課程)の能力に負うもので,私が北大で得た最大の幸せは,光り輝く若い優れた才能との邂逅かいこうでした。私にこのような機会を与えて下さった恩師・同僚・学生の皆様に満腔の感謝を捧げます。

繪 内 正 道(えない まさみち) 氏 ない まさ みち 氏(工学研究科教授)
昭和21年3月17日生
(略  歴)
昭和43年3月   北海道大学工学部建築工学科卒業
昭和45年3月   北海道大学大学院工学研究科修士課程修了
昭和45年4月   北海道大学工学部助手
昭和54年12月   工学博士(北海道大学)
昭和55年1月   北海道大学工学部助教授
平成9年4月   北海道大学大学院工学研究科教授
平成16年4月   北海道大学大学院工学研究科副研究科長
平成18年4月   北海道大学役員補佐

 昭和39年に入学以来45年もの長き間,北大のお世話になりました。後半の数年間は,その借りを多少ともお返ししようと,国立大学法人化以降の改革や改変のお手伝いをすることになりましたが,かえって足手まといになったかも知れません。在職中の主要な研究テーマは北海道の地域特性とも関係の深い積雪寒冷地域における住環境の改善でした。その意味では,我が家を含め,身の回りの居住環境の全てが研究の対象になりました。このような好条件の研究環境に加え,奉職以来,多くの先達や指導者にも恵まれました。幸いにも,研究室の指揮を執ることになった際には,有能なスタッフに大いに助けられ,「パッシブデザイン手法を用いた北方型省エネルギー建築の開発・推進」にて,退職目前に,北海道より科学技術賞のご褒美を頂きました。これまでにお世話になった多くの皆様に心より感謝申し上げます。ありがとうございました。


佐 藤 義 治(さとう よしはる) 氏 とう よし はる 氏(情報科学研究科教授)
昭和21年2月15日生
  (略  歴)
昭和44年3月   北海道教育大学釧路分校卒業
昭和44年4月   北海道工業高等学校勤務
昭和45年5月   北海道大学工学部助手
昭和50年3月   北海道大学大学院工学研究科修士課程修了
昭和50年4月   北海道大学工学部助手
昭和56年10月   北海道大学工学部講師
昭和57年3月   工学博士(北海道大学)
昭和60年5月   北海道大学工学部助教授
昭和63年10月   北海道大学工学部教授
平成9年4月   北海道大学大学院工学研究科教授
平成16年4月   北海道大学大学院情報科学研究科教授

 北海道大学に30余年に亘り教育や研究を行う機会が得られ,ここに定年退職を迎えることができるは,誠に幸運なことであったと感謝申し上げます。
 この間,約10年間,教養部において情報教育を担当しておりました。全学教育が責任部局体制に変る時期に,入学者全員に対する情報処理教育を実施するため,多くの部局や情報処理教育センター(現情報基盤センター)の協力の下で,非常勤講師とTAを中心として実施体制が構築できたことは,皆様のご支援の賜物と考えております。
 私の専門は統計科学の分野でありますが,北大において,貢献できたことは特に思い付きませんが,ただ,周辺の人たちと一緒に統計科学の研究拠点を作ることができたことは,大変幸運であったと思います。
 大学のあり方も時代と共に変化することはあると思いますが,基本は個々の教員が教育や研究を自律的にかつ果断に実施できることであると思いますので,そのような体制を全員で作り上げていくことが極めて重要であると思います。北海道大学の益々の発展を祈念しております。


大 内   東(おおうち あずま) 氏おお うち   あずま 氏(情報科学研究科教授)
昭和20年生
  (略  歴)
昭和43年3月   北海道大学工学部卒業
昭和46年3月   北海道大学大学院工学研究科修士課程修了
昭和49年4月   北海道大学工学部助手
昭和51年3月   北海道大学大学院工学研究科博士課程修了
昭和51年3月   工学博士(北海道大学)
昭和55年4月   北海道大学工学部講師
昭和56年11月   北海道大学工学部助教授
平成元年4月   北海道大学工学部教授
平成9年4月   北海道大学大学院工学研究科教授
平成16年4月   北海道大学大学院情報科学研究科教授

 北海道大学の使命は,全国的且つ世界的視野で教育・研究を行うことである。
 このような場で活躍できる人材を育成し,このような場で高い評価が得られる研究成果を挙げることを目標として,日々努力して頂きたい。
 
Think globally, act globally!


山 本 克 之(やまもと かつゆき) 氏やま もと かつ ゆき 氏(情報科学研究科教授)
昭和20年11月10日生
   (略  歴)
昭和44年3月   北海道大学工学部卒業
昭和46年3月   北海道大学大学院工学研究科修士課程修了
昭和49年8月   北海道大学応用電気研究所文部技官
昭和50年3月   北海道大学大学院工学研究科博士課程修了
昭和50年3月   工学博士(北海道大学)
昭和50年4月   北海道大学応用電気研究所助手
昭和62年4月   北海道大学工学部助教授
平成3年4月   北海道大学工学部教授
平成9年4月   北海道大学大学院工学研究科教授
平成16年4月   北海道大学大学院情報科学研究科教授
平成18年4月 } 北海道大学大学院情報科学研究科副研究科長
平成19年6月

 学生時代を含めると44年間,本学にお世話になり,大学院時代から一貫して生体医工学(biomedical engineering, BME)の研究に従事できました。旧応用電気研究所,工学研究科,情報科学研究科と,本学におけるBME教育研究組織の変遷とともに歩むことができたのは望外の喜びです。北大BMEが新たな要素を取り入れながら特色ある教育研究組織として国際的にも評価され,本学に大きく貢献できることを願って止みません。私事ながら定年までの2年間は膵ガンとの共存というよりは競存でした(幸い現在進行形)。年4科目の講義と最低限の日常業務は何とかこなし,主査として最後の博士修了者2名(学振特別研究員)を無事輩出できたことは安堵と充足の極みです。昨今,法改正により各大学,各部局の教育理念の明文化が求められる時代となりましたが,本学が,建学の精神の下,古き良き時代の伝統をも活かしつつ,国内外の拠点大学として益々発展されますよう祈念致します。最後に,私を育み奉職の場を与えてくれた本学関係者の皆様に感謝申し上げます。

 山本克之先生は病気療養中のところ,3月14日,63歳でご逝去されました。謹んで先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。訃報記事は来月号に掲載予定です。


三 浦 汀 介(みうら ていすけ) 氏 うら てい すけ 氏(水産科学研究院教授)
昭和20年11月25日生
  (略  歴)
昭和45年3月   北海道大学水産学部卒業
昭和45年4月 }   民間(島田理化工業株式会社)
昭和46年5月
昭和46年8月   北海道大学水産学部助手
昭和63年6月   水産学博士(北海道大学)
平成元年4月   北海道大学水産学部助教授
平成6年4月   北海道大学水産学部教授
平成12年4月   北海道大学大学院水産科学研究科教授
平成17年4月   北海道大学大学院水産科学研究院教授
平成19年4月 } 北海道大学大学院水産科学研究院副研究院長
平成21年3月

 水産学部は,1907年(明治40年)に札幌農学校水産学科として誕生したのであるが,平成19年には,函館キャンパスにおいて創基100周年記念事業がとり行われた。記念式典では,「高邁なる野心(Lofty Ambition)」を刻んだ御影石の碑が関係者に披露され,我々にとってクラークの言葉は,100年を経た今日,改めて考えると,どのような意味となるのか?が話題となった。
 私にとって,定年2年前に,これを体験することができたことは誠に幸せな出来事であった。このことに触発されて,記念事業の一環として,北海道大学出版会より教科書シリーズ発刊の運びとなり,第1巻として拙書「ゼロエミッションと新しい水産科学」が刊行されたことは,これまでの大学生活の中で,もっとも印象に残る出来事となった。
 水産学部の社会的使命を考えると,循環的で持続的な社会へのシフトを念頭においた持続可能な水産業の実現が基本的な課題であろう。定年退官を機に,このことをあらためて確信している次第である。


 橋 豊 美(たかはし とよみ) 氏たか はし とよ  氏(水産科学研究院教授)
昭和21年1月26日生
  (略  歴)
昭和44年3月   北海道大学水産学部卒業
昭和46年3月   北海道大学大学院水産学研究科修士課程修了
昭和49年3月   北海道大学大学院水産学研究科博士課程単位修得退学
昭和49年5月   北海道大学水産学部助手
昭和59年12月   水産学博士(北海道大学)
昭和60年4月   北海道大学水産学部助教授
平成4年4月   北海道大学水産学部教授
平成12年4月   北海道大学大学院水産科学研究科教授
平成17年4月   北海道大学大学院水産科学研究院教授

 大学院生のときの研究フィールドは北洋であった。サケ・マスの調査は順調に進んでいたが,台風が進路を変えて調査船に向かってきた。避難するには陸地が遠すぎるので,リスク覚悟で台風をやり過ごすことになった。非常事態のため,急遽,漁労長と船長だけが操船する二直体制となった。減速し,次々と船を襲う山のような大波の頂上を波乗りするのだが,その合間はまるで海中にいるようであった。三日三晩,気圧は960〜970mb台が続いた。これで海のもくずと消えるのか,と肝を冷やした体験であった。
 あれから35年余・・・・性懲りも無くつい最近まで船に乗り続けたが,無事定年を迎えようとしている。入学以来45年の長きにわたり,北大にお世話になった。学生・院生たちと本当に楽しく,充実した時間を共有した。最後に,母校北大の発展と教職員の皆様のご健勝を心より祈念して止まない。


仲 谷 一 宏(なかや かずひろ) 氏なか  かず ひろ 氏(水産科学研究院教授)
昭和20年7月27日生
  (略  歴)
昭和43年3月   北海道大学水産学部卒業
昭和46年3月   北海道大学大学院水産学研究科修士課程修了
昭和49年3月   北海道大学大学院水産学研究科博士課程修了・水産学博士(北海道大学)
昭和49年6月   北海道大学水産学部助手
昭和59年7月   北海道大学水産学部助教授
平成12年4月   北海道大学大学院水産科学研究科教授
平成17年4月   北海道大学大学院水産科学研究院教授

 憧れの北海道大学に入学して45年,北海道大学で教員となって35年,北海道大学でずっと学生・院生・教員生活を続けてきましたが,やっと北海道大学を卒業します。
 35年前,私の所属していた水産学部水産動物学講座(当時)は,函館のローカル研究室でありました。しかし,先輩教授のご尽力と講座学生・院生の弛み無い努力により,我が研究室は,現在では世界有数の魚類系統分類学の研究室として,世界の多くの人がその実績と実力を認めるところとなりました。ローカル研究室から世界屈指の研究室へ,35年間日ごとに評価が向上していく様は快感そのものでありました。教授として研究室を任された9年間,私がどの程度研究室の発展に貢献出来たかは分かりません。しかし,今優秀な後輩に研究室をバトンタッチし,後顧の憂いもなく重責から解放されることになり,心から安堵をしているところでもあります。45年間の大学生活を卒業するにあたり,我が人生の多くを託した北海道大学の発展を祈念すると共に,ここにお礼を申し上げる次第であります。


熊 谷 健 一(くまがい けんいち) 氏くま がい けん いち 氏(理学研究院教授)
昭和20年4月6日生
  (略  歴)
昭和43年3月   京都大学理学部卒業
昭和45年3月   東北大学大学院理学研究科物理第二専攻修士課程修了
昭和48年3月   東北大学大学院理学研究科物理第二専攻博士課程修了
昭和48年3月   理学博士(東北大学)
昭和48年4月   大阪大学基礎工学部助手
昭和57年11月   北海道大学理学部助教授
平成5年4月   北海道大学理学部教授
平成7年4月   北海道大学大学院理学研究科教授
平成18年4月   北海道大学大学院理学研究院教授

 若い時は5〜10年で各地に移動を重ねてきましたが,客員研究員として滞在していた米国から昭和57年11月に北大に赴任して早27年が過ぎました。この間,自然環境の良いキャンパスで研究・教育に専心出来たことは大変幸せなことでした。
 液体He温度以下に至る低温物理学分野での研究,特に核磁気共鳴を主たる手段として超伝導と磁性に関する実験研究に関わってきました。昭和62年に社会的話題にまでになった銅酸化物高温超伝導体が発見されて以来,研究スタイルが一変したように思います。当時は週単位,月単位で研究成果が更新されるような激烈な研究競争が始まり,その熱気は10年間は続いたでしょうか。単に新物質を発見したことだけでなく,凝縮系物理学の基本概念を問う研究に発展したことが,今もってこの分野に新鮮な興味を覚えることに繋がっていると思います。このような時期に北大において研究基盤を整備させていただき,さらには種々の海外や国内の研究協力の機会を与えていただきました。多くの方々と知り合うことにより低温物理学の発展に貢献することが出来ましたことに心から感謝いたします。皆様の益々のご活躍とご発展を願っております。


藤 野 清 志(ふじの きよし) 氏ふじ  きよ  氏(理学研究院教授)
昭和20年10月12日生
  (略  歴)
昭和44年3月   東京大学理学部卒業
昭和46年3月   東京大学大学院理学系研究科鉱物学専門課程修士課程修了
昭和49年3月   東京大学大学院理学系研究科鉱物学専門課程博士課程修了
昭和49年3月   理学博士(東京大学)
昭和50年4月   日本学術振興会奨励研究員
昭和53年4月   愛媛大学理学部助手
昭和55年3月   愛媛大学理学部助教授
平成4年6月   愛媛大学理学部教授
平成5年4月   北海道大学理学部教授
平成7年4月 北海道大学大学院理学研究科教授
平成18年4月   北海道大学大学院理学研究院教授

 北大に赴任して以来,16年が経ちました。この間お世話になった皆様に,まずもって感謝いたします。 思えばこの16年間,緑豊かなこのキャンパスで自由に研究と教育に専念できたことは,幸せなことでした。私が北大に来てから特に手がけた高圧鉱物学の研究は,ひとえに研究室の学生,院生,そして同僚の協力のおかげです。
 ただ,最近の大学の内外をめぐる状況には,必ずしも楽観できないものを感じます。大学における「市場原理」の導入,大学間の格差の増大,大学および科学行政におけるトップダウンの増大などは,基礎科学に従事するものとしては,いささか行き過ぎているのではないかの感を禁じえません。こうした動きが,世の中の「短期的効用」とはなじまぬ基礎科学の芽を摘まぬことを,切に願っています。今後とも,北大のよき開拓者精神が衰えることのないよう,願っています。


笠 原   稔(かさはら みのる) 氏かさ はら   みのる 氏(理学研究院教授)
昭和20年8月27日生
  (略  歴)
昭和43年3月   東北大学理学部卒業
昭和45年3月   東北大学大学院理学研究科地球物理学専攻修士課程修了
昭和45年9月   東北大学大学院理学研究科地球物理学専攻博士課程中退
昭和45年10月   北海道大学理学部助手
昭和57年12月   理学博士(北海道大学)
平成2年4月   北海道大学理学部助教授
平成10年4月   北海道大学大学院理学研究科助教授
平成10年6月   北海道大学大学院理学研究科教授
平成18年4月   北海道大学大学院理学研究院教授

 1970年秋に,北海道大学に縁あって職を得て以来,38年と半年間お世話になってしまいました。この年,北海道では初めての地殻変動連続観測のための観測坑道が,襟裳岬の北西15kmの幌泉町(現,えりも町)市街の裏山に掘削されました。5年前から始まった国家的プロジェクトとしての地震予知研究計画の一環であり,先行していた浦河地震観測所(浦河町上杵臼)についで,2つ目の観測施設でした。観測所の立ち上げから軌道に乗せるまで,5年半現地勤務でした。観測所は宿泊機能を備えて教育施設としての役割も担っており,この間多くの教官・学生(他大学も含めて)が来所してくれまして,僻地であるけれども楽しい時を過ごしたものです。1976年夏,日本で最初の地震・地殻変動デジタル方式テレメータを採用し,すべてのデータを札幌で集中記録できるようにしたので,札幌キャンパス勤務になりました。が,それ以後も,観測網の充実のために道内各地を訪ねる日が多く,きっちりした結果を残せぬまま退職を迎えました。ありがとうございました。


服 部 昭 仁(はっとり あきひと) 氏はっ とり あき ひと 氏(農学研究院教授)
昭和20年8月1日生
  (略  歴)
昭和44年3月   北海道大学農学部畜産科学科卒業
昭和47年3月   北海道大学農学研究科畜産学専攻修士課程修了
昭和51年3月   北海道大学農学研究科畜産学専攻博士課程修了
昭和51年3月   農学博士(北海道大学)
昭和51年4月   東京慈恵会医科大学(法医学教室)助手
昭和55年7月   東京慈恵会医科大学(法医学教室)講師
昭和55年8月   北海道大学農学部助手
平成2年4月   北海道大学農学部助教授
平成11年4月   北海道大学大学院農学研究科教授
平成18年4月   北海道大学大学院農学研究院教授
平成19年4月 } 北海道大学大学院農学研究院長 評議員
平成21年3月

 学部を卒業して大学院修士課程に進学した昭和44年,「大学紛争」のキャンパスは騒然とし,大学全体が機能マヒの状態でした。「研究放棄」の日を送る中,院生会の農学研究科長交渉の席上,当時の研究科長石塚嘉明先生が「どんな状況であっても研究は続けて下さい。現状を逃げの口実にしてはいけませんよ。」と優しく諭されたことを鮮明に記憶しています。
 大学院修了後,私立医科大学法医学教室に勤務し,100体余りの司法解剖に携わったという稀有な経験の後,再び母校農学部に戻って以来,28年間,毎年3月には多くの学生・院生が社会に旅立っていきました。その度に,旅立つ彼らが私に多くのものを与えてくれたのに対し,私は彼らに何を提供することができたのか,教育者としての自戒を繰り返してきました。そして,北大を去る今,振り返ってみると40年前に志大きく果敢に挑戦したつもりの研究面での足跡はあまりにも儚く,慙愧の念に堪えません。最後の2年間は研究院長を務め,教職員学生が少しでも良い条件下で教育・研究に没頭できる条件を作るべく努めてきたつもりですが,これも諸先生,職員の方々の暖かいご支援のもとにどうにか乗り切れたというのが実感です。
 「永遠の幸,朽ちざる誉れ」が常に北海道大学の上に輝き続けることを期待しています。


島 ア 敬 一(しまざき けいいち) 氏しま ざき けい いち 氏(農学研究院教授)
昭和20年12月16日生
  (略  歴)
昭和43年3月   北海道大学理学部卒業
昭和45年3月   北海道大学大学院理学研究科修士課程修了
昭和48年9月   北海道大学大学院農学研究科博士課程修了
昭和48年9月   農学博士(北海道大学)
昭和48年9月 } 米国・テキサス大学ガンセンター研究員
昭和50年1月
昭和50年3月   帯広畜産大学畜産学部助手
昭和60年4月   帯広畜産大学畜産学部助教授
平成6年4月   北海道大学農学部教授
平成11年4月   北海道大学大学院農学研究科教授
平成18年4月   北海道大学大学院農学研究院教授

 入学してから大学院修了まで小樽から通学し,はじめて親元を離れたのがヒューストンでの研究員生活であった。それから1年半後に帯広に職を得て19年を過ごし,北大に移って15年が経過した。その間,牛乳・乳製品を看板とする研究室においてミルクタンパク質の機能性の研究を行ってきた。特にラクトフェリンについては,農学・食品系で本格的に取り組んだ一人となり,その後のラクトフェリン研究の発展に大きく寄与することが出来たのは幸いである。平成11年には第4回ラクトフェリン国際会議を主催し,また平成16年に第1回のラクトフェリンフォーラムを開催して国内の多方面のラクトフェリン研究者に対して,情報交換の場を提供できた。牛乳成分の基礎研究から始まったものが,その多機能性の健康への寄与が実証され,現在では医学,歯学,獣医学など臨床系の発表が2/3を占める状況となり,その応用分野もエルムの梢のように大きく広がりつつある。


出 村 克 彦(でむら かつひこ) 氏 むら かつ ひこ 氏(農学研究院教授)
昭和20年5月16日生
  (略  歴)
昭和44年3月   北海道大学農学部卒業
昭和46年3月   北海道大学大学院農学研究科修士課程修了
昭和50年4月   北海道大学大学院農学研究科博士課程単位取得退学
昭和53年12月   農学博士(北海道大学)
昭和50年5月   帯広畜産大学畜産学部助手
昭和56年4月   帯広畜産大学畜産学部助教授
昭和60年10月   北海道大学農学部助教授
平成6年4月   北海道大学農学部教授
平成11年4月   北海道大学大学院農学研究科教授
平成18年4月   北海道大学大学院農学研究院教授

 昭和42年に教養部から農学部に進級し,10月の学科移行式が,夕方のS31教室で行われ,うす暗い,重厚な建物に入った時,初めて大学へ来たという気持ちになった記憶があります。大学院時代は,全国で,また北大でも大学紛争が起こり,封鎖が行われ,殺伐とした時代でした。その後,世界的食糧危機や第一次オイルショックがあり,それまで続いた日本の高度経済成長の時代に終焉を告げた時期でした。帯広畜産大学に10年,その後北大で過ごし,改革,再編を繰り返し,退職の年を迎えました。この間の日本農業の変化は,あるいは日本経済社会の変貌は,凄まじいものでした。古い社会科学の教科書,専門書は,歴史研究を除けばほとんど利用できません。現在は環境の時代です。農業経済の分野も環境問題を抜きにして,研究や教育は出来ない時代になりました。その意味で,農学部の教育研究の環境は今こそ,その優位性を発揮することが出来ます。農業環境の経済評価を研究室の主要テーマとして,多くの院生や学生と研究をすることで,充実した大学生活を送ることが出来たと感謝しています。若い研究者が伝統を引き継ぎ,新たな課題に挑戦することを大いに期待し,楽しみにしています。


 いけ たつ ろう 氏(先端生命科学研究院教授)
昭和20年12月12日生
  (略  歴)
昭和43年3月   東京大学理学部卒業
昭和45年3月   東京大学大学院理学研究科生物化学専門課程修士課程修了
昭和48年3月   東京大学大学院理学研究科生物化学専門課程博士課程単位修得退学
昭和48年4月   株式会社三菱化成生命科学研究所研究員
昭和50年3月   理学博士(東京大学)
昭和53年1月   アメリカ合衆国コネチカット大学において研究従事
昭和54年4月   佐賀医科大学医学部教授
平成6年2月   北海道大学理学部教授
平成7年4月   北海道大学大学院理学研究科教授
平成18年4月   北海道大学大学院先端生命科学研究院教授

 「生命を理解するとは,」と教授は眼鏡越しに学生を見ながら言った。「生命を合成することだよ。」「生物学は普遍科学ではない。どんなに生き物の属性を記述したところで生命には迫れない。」宇宙生物学を目指し,化学の立場からみる生命観。地球上の生命が持つ共通の物質的基盤からのアプローチ。「見えない山の頂上を目指して悩むことはない。目の前の草花を愛でれば良い。それが学問の継承だ。」 教授は迷える子羊を導く輝ける星であった。
 実験室で立ったまま豆の煮込み料理を胃に流し込みながら,米国人の教授は「研究はね,ゲームだよ」とつぶやいた。「先進国はお金を使って研究のゲームをしているんだ。」「ゲームだから,うまくいかなければリセットすれば良い。新しいゲームに参加すればよい。」教授はそのワイルドな態度から想像できない,抜群の研究センスを持っていた。
 「プロトコール通りにやったのか?」と問うと,学生は肯いた。「バッチリです。」「この部分,プロトコールと少し違うな。」「あ!それ,ネットでコピーですから。」「手順を読む限り,実験がうまく行かない理由がないな。」「でしょ!だから僕の責任ではありません。」「一度すべての操作を一緒にやってみないか?」「あのう,これからバイトです。」迷える教授は新しい時代を拓く宇宙人の出現になすすべもなかった。


加 茂 直 樹(かも なおき) 氏  なお  氏(先端生命科学研究院教授)
昭和21年2月4日生
(略  歴)
昭和43年3月   大阪大学理学部卒業
昭和45年3月   大阪大学大学院理学研究科高分子学専攻修士課程修了
昭和46年3月   大阪大学大学院理学研究科高分子学専攻博士課程中退
昭和46年4月   北海道大学薬学部助手
昭和50年9月   理学博士(北海道大学)
昭和55年9月   北海道大学薬学部助教授
平成元年6月   北海道大学薬学部教授
平成10年4月   北海道大学大学院薬学研究科教授
平成18年4月   北海道大学大学院先端生命科学研究院教授

 私は昭和47年2月の札幌オリンピックの前年に北海道にやってきました。雪は年に1度降るか降らないかの地域からやってきたので,11月に雪が降って,なるほど北海道と思い,また,雪だるまが出来ないなど,雪を楽しんでいたのを思い出します。それ以来,札幌には38年ほど住んだことになり,今では札幌が世界で一番のいい町であると思っております。これからの北大の発展を祈っています。北大の教育,特に,低学年教育についていえば,助教の助けを借りて,演習の時間を取るべきではないかと思います。基礎科目を学生に完全に習得させたのち専門課程に進学させることが,学生の将来の勉学・研究に役に立つのではないかと思います。そのためには,北大版の教科書と演習書の作成が必要かもしれません。基礎学力を持ち探究心のある卒業生を出すことが,北大の発展につながることになるのではないでしょうか。


矢 澤 道 生(やざわ みちお) 氏 ざわ みち  氏(先端生命科学研究院教授)
昭和20年4月9日生
(略  歴)
昭和43年3月   北海道大学理学部卒業
昭和45年3月   北海道大学大学院理学研究科化学第二専攻修士課程修了
昭和48年8月   ダートマス医科大学生化学科研究員
昭和48年9月   北海道大学大学院理学研究科化学第二専攻博士課程修了
昭和48年9月   理学博士(北海道大学)
昭和50年10月   北海道大学理学部助手
昭和61年6月   北海道大学理学部講師
平成元年6月   北海道大学理学部助教授
平成7年4月   北海道大学大学院理学研究科教授
平成18年4月   北海道大学大学院先端生命科学研究院教授

 学生として9年4か月,職員として33年6か月北海道大学にお世話になりました。Research Associateとして2年ほどを過ごしたDartmouth Medical Schoolでの生活を含めて,澄んだ青空のもと緑のあふれるキャンパスで生化学の研究を続けられたことを幸せに思います。この間,温かくおつき合いしていただいた先輩・同僚の皆様,学生諸君には心より感謝いたしております。個人の好奇心が毎日の出発点となり,研究のことのみを考えて過ごすことができた日々を顧みながら,昨今の多忙で競争的な研究者生活の厳しさを少しばかり憂えています。私個人としては,「理学部・基礎科学・文化」と自然に焼き付けられたイメージにこれからもこだわり続けたい気持ちです。短いタイムスパンでの「明日を約束する研究」は人を意識した競争になりがち,同じトラック上で速さ(早さ)を競う陸上競技を思わせます。私は,個人の努力が素直に報われる陸上競技が好きですが,研究のオリジナリティはゴールの見えない出発点にたつところから始まります。個人の好奇心から芽生え,その努力がやがて評価され一つの文化に育つ,そんな理学部の研究に憧れていたのだなとこのごろ思うようになりました。北海道大学だからできるオリジナルな研究・教育が,この青空と緑とともに展がり続けることを願います。


須 田 勝 彦(すだ かつひこ) 氏  かつ ひこ 氏(教育学研究院教授)
昭和20年7月27日生
(略  歴)
昭和44年3月   北海道大学教育学部卒業
昭和46年3月   北海道大学大学院教育学研究科修士課程修了
昭和49年8月   北海道大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学
昭和49年8月   北海道大学教育学部助手
昭和60年5月   北海道大学教育学部助教授
平成6年4月   北海道大学教育学部教授
平成12年4月   北海道大学大学院教育学研究科教授
平成12年4月 北海道大学評議員
平成16年3月
平成19年4月   北海道大学大学院教育学研究院教授

 北大で44年間過ごした。この大学で学んだ期間はもう少し長い。何より,これからも学びたいことがたくさんあり,また入学以前にも貴重な学びの機会があったからだ。
 私にとって貴重な体験のひとつは,高校2年,3年のとき,札幌唯物論研究会の主催する市民向けの講座を聞いたことである。講師は経済学部の荒又重雄先生,文学部の岩崎允胤先生,理学部の田中一先生,教育学部の鈴木朝英先生などだった。とりわけ田中先生の「自然の累層性」のお話は北海道大学で学ぶことへの希望を大きくふくらませてくれた。北海道大学らしい,新しい学問領域生成に向けた挑戦はこれまでも幾多あるだろうが,唯物論研究会の活動の学問的貢献は計り知れないほど大きい。特に教育学に対して。
 今の教育に欠けているものは何より,学ぶ喜びと,人類社会への希望であろう。これは世界共通である。若者,子どもたちと,このような対話ができるようなことばの開拓,授業の開拓を,これからの私の,それほど長くはない人生の課題としたい。


大 平 具 彦(おおひら ともひこ) 氏おお ひら とも ひこ 氏(メディア・コミュニケーション研究院教授)
昭和20年11月21日生
(略  歴)
昭和46年3月   東京外国語大学外国語学部フランス語学科卒業
昭和48年3月   東京都立大学大学院人文科学研究科フランス文学専攻修士課程修了
昭和53年7月   東京都立大学人文学部助手
昭和54年4月   北海道大学文学部助教授
昭和59年4月   北海道大学言語文化部助教授
平成6年1月   北海道大学言語文化部教授
平成12年4月   北海道大学大学院国際広報メディア研究科教授
平成12年4月 }  北海道大学大学院国際広報メディア研究科研究科長,評議員
平成14年3月
平成19年4月   北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院教授

 私が北大に赴任したのは1979年4月1日であるので,ちょうど30年勤めたことになる。長い歳月であったと思う一方,赴任の日がつい昨日のようにも思われる。人間にとっての時間の不思議さとあわせ,ここまで辿ってこられたことに感無量の思いである。
 北大での30年は,教育研究環境においても生活環境においても恵まれ,大変に幸せなものだった。接してくれたすべての方に,心より感謝申し上げたい。
 一方,世界的にはこの30年は激動の連続であった。長く続いた冷戦体制は崩壊し,今や経済危機の大津波の中で,世界はポスト・アメリカの時代へと向かい始めている。実に地殻的大変動である。100年に一度の危機であるのならば,生命も人間も文化も危機を乗り越えて進化してきたからには,それはまた100年に一度のチャンスでもある。こうした中で求められるものこそ,知の羅針盤たる哲学だろう。技術に走ることなく,大学がまさにその担い手になることを願っている。その陰で私も微力を尽くせればと思う。


小早川   護(こばやかわ まもる) 氏小早川こばやかわ   まもる 氏(メディア・コミュニケーション研究院教授)
昭和20年9月19日生
(略  歴)
昭和43年3月   大阪大学工学部電子工学科卒業
昭和45年3月   大阪大学大学院工学研究科電子工学専攻修士課程修了
昭和45年4月 民間(株式会社野村総合研究所)
平成12年3月
平成12年4月   北海道大学大学院国際広報メディア研究科教授
平成19年4月   北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院教授
平成20年5月   北海道大学副理事

 2000年4月より9年間の短い期間でしたが,無事に卒業でホッとしています。民間から専門替をし,それまで数時間の滞在しかない札幌の地に飛び込んだ不安があったからです。9年間,北海道の方々が外来者に対し基本オープンで,学内・外で比較的自由に活動出来たことが助けになりました。先ず学内では,赴任前から多くの方々が周到に準備を重ねて来られていた,大学院国際広報メディア研究科の創設1年目から,いろいろな活動の場を頂きました。そして,2007年の国際広報メディア・観光学院,メディア・コミュニケーション研究院の設立への発展まで体験できたことは大きな喜びです。地域との仕事でも,地元の方々にオープンに迎えて頂き,予期以上の成果をあげることが出来たと思っています。
 今後も北海道や北大がオープンな風土を保ち,内外の資源を活用しつつ,“ambitious”な挑戦が続くことを祈っております。ご支援頂きました皆様,ありがとうございました。


吉 田 徹 也(よしだ てつや) 氏よし  てつ  氏(メディア・コミュニケーション研究院教授)
昭和21年2月16日生
(略  歴)
昭和44年3月   北海道大学文学部文学科卒業
昭和46年3月   北海道大学文学研究科独文学専攻修士課程修了
昭和46年4月   弘前大学教養部講師
昭和53年4月   弘前大学助教授
昭和55年4月   北海道大学文学部助教授
昭和59年4月   北海道大学言語文化部助教授
平成16年3月   北海道大学言語文化部教授
平成19年4月   北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院教授

教養一筋
 最初の赴任地は太宰治ゆかりの城下町。新学期の授業が軌道にのる暇もなく,弘前は桜一色の連休を迎える。城址公園を埋めつくす花の美しさにただただ魅了されたが,私の採用日が4月16日だったため初任給はわずか1万9千円,酒宴に酔いしれるどころか生活苦に追われた。何とか生き延びて夜の街にも繰り出したある日,焼鳥屋で隣の紳士が話しかけてくる。私が教養部所属だと知ると彼の態度は一変して侮蔑的になった。またあるとき,教養部の理系教員が「岩木山の総合研究」で300万円の科研費を得たが,このとき学内には「研究機関でもないのに多額の研究費をとるとは!」という非難がまき起こった。これが内外からの私の職場に対する評価だった。化学の堀内寿郎・物理の宮原将平両氏の講義を満喫した北大教養時代こそが私の教師生活を貫く支えだった。自らはそのような大きな役割を果たせずに北大を去らざるをえないのは痛恨のきわみである。


森 下 節 子(もりした せつこ) 氏もり した せつ  氏(保健科学研究院教授)
昭和21年1月16日生
(略  歴)
昭和42年3月   北海道大学医学部附属看護学校卒業
昭和43年3月   北海道大学医学部附属助産婦学校卒業
昭和43年4月   北海道大学医学部附属病院看護師
昭和47年4月   北海道衛生部医務課看護係看護教育担当看護師
昭和48年10月   東京都立広尾看護専門学校専任教員
昭和57年3月   日本大学法学部卒業
昭和59年3月   東京都立松沢看護専門学校教諭
昭和61年4月   東京都立医療技術短期大学助教授
平成7年3月   国士舘大学大学院経済学研究科経済学専攻修士課程修了
平成7年4月   東京都立医療技術短期大学教授
平成7年12月   博士(医学)(東邦大学)
平成9年4月   北海道大学医療技術短期大学部教授
平成15年10月   北海道大学医学部教授
平成20年4月   北海道大学大学院保健科学研究院教授

 北海道大学を離れて25年ぶりに赴任し,母校の北大で12年間教員として勤めさせていただきました。その間,人々の心を受け止められる看護師の教育・研究に専心してきました。
 現在の厳しい社会情勢の中,看護ケアの受け手である人々がどのような環境や社会状況,健康水準にあっても,人間として生きる力や意欲が尊重される医療・看護が求められています。看護系大学の急激な増加は,人々の生活を保障する社会を確立するためにあると考えられ,看護職に期待されていることは大きいと感じています。
 医療分野においては,従来の看護ケアの提供システムが21世紀の社会に役立つのか,科学的な知識と技術を基盤とした看護実践は,人々の健康な生活づくりにどのような成果を挙げているのか,評価をするべき時にきております。そのためにも,他の学問分野の研究者とも連携し,今後の有効なケア提供の方向性を示す内容の追究が求められます。
 研究室に注ぐ陽射しは,いつも暖かく,研究・教育に務める私を癒し,励ましてくれました。在任中,将来性のある若者と共に過ごせたことに感謝しております。北海道大学の一層の発展をお祈りいたします。


佐々木 驕@夫(ささき たかお) 氏佐々木ささき たか  氏(公共政策学連携研究部教授)
昭和20年10月10日生
(略  歴)
昭和44年3月   東北学院大学経済学部卒業
昭和44年4月 東北大学経済学部研究生
昭和45年3月
昭和47年3月   東北大学大学院経済学研究科修士課程修了
昭和50年3月   東北大学大学院経済学研究科博士課程単位修得退学
昭和50年4月   東北大学経済学部助手
昭和52年2月   北海道大学経済学部講師
昭和53年4月   北海道大学経済学部助教授
平成元年7月   北海道大学経済学部教授
平成6年3月   博士(経済学)(東北大学)
平成11年8月 } 北海道大学評議員
平成13年7月
平成12年7月   北海道大学大学院経済学研究科教授
平成15年5月 } 北海道大学総長補佐
平成17年4月
平成16年4月 } 北海道大学役員補佐
平成19年4月
平成17年4月   北海道大学大学院公共政策学連携研究部教授

平成19年4月

} 北海道大学大学院公共政策学連携研究部長,教育部長
平成21年3月
平成20年4月 } 北海道大学サステイナビリティ学教育研究センター長
平成21年3月
平成20年11月 } 北海道大学国際交流室室員
平成21年3月

 1977年の2月1日,最低気温が零下14度,最高気温が零下9.1度の札幌に着任してから32年余,走り去る日々を駆けて追いかけるように過ごすうちに定年を迎えました。
 北大では,仙台や学会で感じられる「学派の束縛」がなく,おかげで本来の専門がどこにあるのか判じ難くなるほど自由に自分の思考をつきつめることが可能でした。
 研究室のすぐ近くのハルニレが大きく繁らせた葉を風に揺らし,樹氷と見まがうばかりに雪を纏い,風雨の朝に無残に倒れるのを見ながら,経済理論の在り方や国際政治経済の諸問題を考え,人間的自由をどうすれば実現できるのかを課題とし,大学が直面する諸問題を自分なりに考えてきました。良き学生を相手に授業や演習をし,経済学と言わず多くの優れた先生方との邂逅を楽しみ,信頼できる職員と一緒に仕事をした年月でした。
 北大に何かを遺したかはあやしいのですが,沢山のものをいただきました。有難うございます。


栗 城 眞 也(くりき しんや) 氏くり  しん  氏(電子科学研究所教授)
昭和21年1月12日生
(略  歴 )
昭和43年3月   北海道大学工学部電子工学科卒業
昭和45年3月   北海道大学大学院工学研究科電子工学専攻修士課程修了
昭和45年8月   北海道大学大学院工学研究科電子工学専攻博士課程退学
昭和51年6月   工学博士(北海道大学)
昭和45年8月   北海道大学応用電気研究所助手
昭和55年8月   北海道大学応用電気研究所助教授

平成3年8月

  北海道大学応用電気研究所教授
平成4年4月   北海道大学電子科学研究所教授
平成18年4月   北海道大学脳科学研究教育センター長

 昭和45年から40年近くにわたって電子科学研究所(旧応用電気研究所)に勤務してきました。ずっと研究所暮らしでしたが,工学研究科,のちには情報科学研究科の教育を担当して修士や博士課程の大学院生と共に研究をしてきました。年々,自分は年齢を重ねるのですが,大学院生は入れ替わるため常に若い気持ちでいられたのが幸いでした。30代では1年半の留学(長期出張)を経験させてもらい,家族総出(4人)の海外生活は他国の文化を知る最高の経験でした。また,その時に学んだ超伝導の研究がその後の脳機能計測につながりました。40代になってからは生理学研究所を6年間併任し,最新の脳機能計測装置の立ち上げをしつつ,先端的研究に携わりました。先輩の諸先生方にサポートしていただき,大変幸せな研究生活を送れたと思っております。長い間,ありがとうございました。中期計画の二期目に入らんとする北大ですが,今後も独自の路線を歩みつつ,若人を引きつける魅力ある大学であって欲しいと思います。


徳 本 洋 志(とくもと ひろし) 氏とく もと ひろ  氏(電子科学研究所教授)
昭和20年7月12日生
(略  歴)
昭和43年3月   大阪大学理学部物理学科卒業
昭和45年3月   大阪大学大学院理研究科修士課程修了
昭和52年3月   理学博士(大阪大学)
昭和45年4月 } 通商産業省工業技術院電気試験所技官
昭和53年12月
昭和54年1月 }  通商産業省工業技術院電子技術総合研究所主任研究官
平成2年3月
平成2年4月 }  通商産業省工業技術院電子技術総合研究所電子基礎部凝縮物性研究室長
平成9年3月
平成9年4月 通商産業省工業技術院産業技術融合領域研究所首席研究官
平成13年1月
平成13年1月 経済産業省産業技術総合研究所産業技術融合領域研究所 
平成13年3月
平成13年4月 独立行政法人産業技術総合研究所主任研究員 
平成14年11月
平成14年11月   北海道大学電子科学研究所附属ナノテクノロジー研究センター教授 
平成16年5月 北海道大学電子科学研究所副所長
平成18年3月

 30数年の長きに亘って務めた(独)産業技術総合研究所を離れ,大学という異なった環境に移り6年半という短い期間ではありましたが,教育・研究をはじめ学内の幾つかの委員会などでいろいろ有益な経験させていただきました。北海道大学の皆さん,特に,電子科学研究所および情報科学研究科の教員ならびにスタッフの方々には,「産業技術総合研究所ボケ」をしている小生の発言や行動などで大変なご迷惑をお掛けしたのではないだろうかと反省しておりますが,これらの皆さんの寛容さに感謝しております。
 さて,地球温暖化・省エネ・省資源というグローバルな難題,少子化・子供の理科離れなどの問題など山積しております。ナノテクノロジーをはじめとした先端新技術により,さらにこれらの技術を社会受容の下に進めてゆくことが必須です。北大でも既に取組みが始まっておりますが,オール日本・オール世界へと展開されることを願っております。


小野江 和 則(おのえ かずのり) 氏小野江おのえ かず のり 氏(遺伝子病制御研究所教授)
昭和20年8月28日生
(略  歴)
昭和45年3月   北海道大学医学部卒業
昭和45年4月   北海道大学結核研究所助手
昭和49年6月   北海道大学免疫科学研究所助手
昭和51年9月   北海道大学医学博士
昭和52年10月   米国メモリアル・スロン・ケタリング癌研究所客員研究員
昭和54年9月
昭和56年3月   北海道大学免疫科学研究所助教授
昭和60年9月   北海道大学免疫科学研究所教授
平成3年2月 } 北海道大学免疫科学研究所附属免疫動物実験施設長
平成8年3月
平成8年4月 }  北海道大学免疫科学研究所長/評議員
平成12年3月
平成12年4月 } 北海道大学遺伝子病制御研究所長・評議員 
平成14年3月

 遺伝子病制御研究所(遺制研)の改修が済み,やっと全スタッフが同じビルに入る体制になった時期に北大を卒業する。このような素晴らしい環境で研究生活を送れる後輩には,今後是非頑張ってもらいたい。
 昭和45年に北大医学部を卒業直後,前身,結核研病理,恩師森川教室の助手になった。当初電顕を用いた研究をしていたが,NY留学を機に細胞免疫学,特にT-ologyの研究をライフワークとした。留学先の恩師はノーベル賞に2度ノミネートされたGood博士で,27年間の交流で公私にわたり大きな影響を受けた。
 研究所は2度の改組を経て現在の遺制研になった。所長時代に旧免疫科学研究所と医学部附属癌研究施設を統合し遺制研を創設した。平成16年から4年間企画・経営室員を務めたことも含め,学生時代から45年間お世話になった北大に少しは恩返しできたのではないか。大学研究所は,自分が2度改革を経験したように時代の要請に応え,しかも大学独自の研究をできる重要研究機関である。今後も北大の魅力と存在感を研究所が発信できるよう側面から応援したい。


関   興 一(せき こういち) 氏せき   こう いち 氏(アイソトープ総合センター教授)
昭和20年5月15日生
(略  歴)
昭和44年3月   北海道大学薬学部卒業
昭和50年3月   北海道大学大学院薬学研究科博士課程修了
昭和50年3月   薬学博士(北海道大学)
昭和50年4月   北海道医療大学薬学部助手
昭和53年6月   北海道医療大学薬学部講師
昭和56年4月   北海道医療大学薬学部助教授
平成8年4月   北海道医療大学薬学部教授
平成14年12月   北海道大学大学院医学研究科寄附講座教授
平成15年5月   北海道大学アイソトープ総合センター教授

 私の経歴は,退職を迎える他の多くの皆さんとは少し変わっているかもしれない。北大で,10年の学生時代を送った後,新設された東日本学園大学(現北海道医療大学)薬学部に勤めることとなったのである。伴教授の下,有機合成化学実験に明け暮れていた気ままな学生生活から,授業料を納める学生のための生活が始まった。初めは戸惑いながらも28年もの長きにわたり勤めていたが,平成15年に古巣の北大に移る機会をいただいた。キャンパス内の多くの建物は建て替わり,生協食堂には女子学生が目立ち,浦島太郎になったようであった。定年までに6年しか残されていなかったが,赴任した翌年には大学も独法化され,変革を余儀なくされた。センターとしてもやるべきことはたくさんあった。1)管理・運営体制の立て直し,2)研究支援体制の充実,3)アイソトープ研究の活性化,全学のアイソトープにかかわる安全管理の中心的役割の確立,そして4)アイソトープについての教育の充実である。1)〜3)の改革はある程度達成できたと自負している。特に研究面で,分子イメージング薬剤開発に新たな道筋をつけることができたのは成果であると思っている。こうした改革に私学の経験が役に立ったことはいうまでもない。心残りは“アイソトープ教育の充実”という課題が十分に果たせないでしまったことである。大学では教育がもっとも重要な使命だと思われるからである。最後に,充実した教育と学ぶ姿勢の涵養により,北大がますます発展することを祈っている。


石 森 秀 三(いしもり しゅうぞう) 氏いし もり しゅう ぞう 氏(観光学高等研究センター教授)
昭和20年10月14日生
(略  歴)
昭和43年3月   甲南大学経済学部卒業
昭和46年5月   京都大学人文科学研究所研究員
昭和60年4月   国立民族学博物館助教授
平成8年4月   国立民族学博物館教授
平成11年4月   総合研究大学院大学比較文化学専攻長
平成11年4月   総合研究大学院大学評議員
平成14年4月   国立民族学博物館民族社会研究部長
平成16年4月   国立民族学博物館文化資源研究センター長
平成18年4月    北海道大学観光学高等研究センター教授
北海道大学観光学高等研究センター長
平成19年4月   北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院観光創造専攻長

 北大に着任した時,私はすでに還暦を迎えていた。まさに「熟年よ,大志を抱け!」の心境で関西から北の新天地に赴いた。
 北大は全国の国立大学に先駆けて,平成18年に観光学高等研究センターを創設した。日本の学界は長らく観光学を軽んじてきたので,北大の研究センターは国立大学としてはオンリーワンの存在として創設された。次いで平成19年には大学院国際広報メディア・観光学院が新設され,観光創造専攻が設置された。これもまた国立大学としては全国初の観光学大学院であった。
 北海道は「観光魅力の宝島」であり,地域の「知の拠点」としての北大で観光学の高等研究・教育拠点の確立に向けて,重要な仕事に従事できたことは真に幸いであった。
 しかもJR東日本とJR北海道から寄附講座をいただいており,その御蔭で定年退職後も特任教授として北大に勤務することになっている。
 北海道で骨を埋める覚悟で仕事に励みたい。


田 川 義 繼(たがわ よしつぐ) 氏 がわ よし つぐ 氏(医学研究科准教授)
昭和21年1月24日生
(略  歴)
昭和46年3月   北海道大学医学部卒業
昭和46年7月   北海道大学医学部附属病院医員
昭和51年6月   北海道大学医学部助手
昭和53年10月   米国ジョンズ・ホプキンス大学ウイルマー眼研究所フェロー
昭和55年9月
昭和53年12月   医学博士(北海道大学)
昭和57年4月   北海道大学医学部附属病院講師
平成元年10月   北海道大学医学部助教授
平成19年4月   北海道大学大学院医学研究科准教授

 外国留学の2年間を含め,学生および教員として44年間北海道大学にお世話になりました。入学当時の大学構内もすっかり変貌し,当時の建造物も少なくなってしまい時代の流れを強く感じます。私の専門分野である眼科学分野においても,その進歩と変貌はめざましいものがありました。このような時代に北大医学研究科および北海道大学病院で,長年研究・診療・教育に従事出来,充実した大学生活を送れたことに,深く感謝しております。
 現在,医学・医療を取り巻く環境は大きく変化し,大学における医学研究科や北大病院に求められている社会の要請に対しどのように進歩・発展していくのか,我々自身が問われているものと考えます。新しい時代の医学・医療に向かって,北大が着実にその役割を果たされることを心より期待致しております。


高 波 鐵 夫(たかなみ てつお) 氏
たか なみ てつ  氏(理学研究院准教授)
 1968年4月,北海道大学理学部地球物理学教室応用地球物理学講座の研究生として田冶米教授の門下生として仲間入りした,その年の5月16日に三陸沖の「1968年十勝沖地震」に遭遇し,宇津助教授(後の東大地震研究所所長)のマイカーに同乗して行った震度調査が私の地震学とのお付き合いの始まりです。しかしその少し前の1964年「新潟地震」と長野県北部の「1965年松代群発地震」は信州で体験し,その揺れの怖さは今もはっきりと覚えています。その松代地震を契機に北大の大学院に進学することになりましたが,信州から蝦夷地に移り住むや直ちにその歓迎を受けたことになります。その後も何度となく大きな地震に巡り合いました。そのたびに現地に赴き,定年の2009年3月までの36年間はほとんど現場での地震観測に徹してきました。その間,地震学の進歩にはいつも目を見張るばかりでした。その光栄な時期に北大にいて陸上のみならず,深海底からも地震に触れることができたことを大変幸せに思っています。

五十嵐 哲 郎(いがらし てつろう) 氏五十嵐いがらし てつ ろう 氏(附属図書館事務部長)
昭和23年11月6日生
(略  歴)
昭和47年3月   横浜市立大学文理学部卒業
昭和50年4月   北海道大学附属図書館整理課
昭和50年9月   北海道大学附属図書館教養分館
昭和52年4月   北海道大学附属図書館整理課
昭和54年10月   筑波大学図書館部管理課
昭和55年4月   筑波大学図書館部運用課逐次刊行物係長
昭和58年4月   筑波大学図書館部学術情報課情報処理係長
昭和61年12月   文部省学術国際局学術情報課専門職員
昭和61年12月   日本学術会議事務局学術部情報国際課情報・資料係長
平成3年4月   国立民族学博物館情報管理施設情報サービス課長
平成6年4月   山形大学附属図書館情報管理課長
平成8年4月   岡山大学附属図書館情報管理課長
平成10年4月   北海道大学附属図書館情報管理課長
平成13年4月   弘前大学附属図書館事務部長
平成15年4月   千葉大学附属図書館事務部長
平成17年4月   北海道大学附属図書館事務部長

 北大に採用されたのは昭和50年でした。
 演歌の「津軽海峡冬景色」ではありませんが,3月30日上野発特急はつかりに乗車,連絡船で津軽海峡を渡り,函館から再び鉄路札幌を目指しました。
 東京は満開の桜でしたが,苫小牧を過ぎる辺りから窓の外は真っ白な雪原が広がり,東京と北海道の気候の違いに驚くとともに,少し心細さを感じました。
 4月1日辞令交付,北26条の大学村にあった第一職員寮に入ることが決まり,大学職員としての人生,札幌での生活が始まりました。
 その後34年が経ちました。他大学などでの勤務の方が長くなりましたが,幸い,北大に戻り定年を迎えることができました。
 定年を迎える今日まで働くことができたのは,図書館,寮での先輩との出会いに恵まれた幸運の結果だと思います。34年間お世話になりました皆様に心より感謝申し上げ,北海道大学の益々の発展を祈ります。ありがとうございました。


下 山 廣 志(しもやま ひろし) 氏しも やま ひろ  氏(医学系事務部長)
昭和23年7月18日生
(略  歴)
昭和42年6月   北海道大学学生課
昭和62年7月   釧路工業高等専門学校庶務課人事係長
平成元年4月   室蘭工業大学庶務課人事係長
平成2年11月   北海道大学応用電気研究所庶務掛長
平成4年4月   北海道大学電子科学研究所庶務掛長
平成5年4月   北海道大学庶務部人事課職員掛長
平成7年4月   北海道大学総務部人事課第二任用掛長
平成8年4月   北海道大学総務部人事課第一給与掛長
平成9年4月   北海道大学総務部人事課専門員
平成12年4月   北海道大学総務部総務課専門員
平成13年4月   北海道大学総務部企画室室長補佐
平成16年4月   北海道大学歯学研究科・歯学部事務長
平成18年11月   北海道大学総務部職員課長
平成20年4月   北海道大学医学系事務部長

▲ “人生に三師あり”
 だが,我が師は3人どころではないのである。
 教えられ方は様々だった。我慢強く諭してくれたヒト。「こうするんだ」と自らの行動で示してくれたヒト。「今やらなきゃ,どうするんだ」と尻をたたいてくれたヒト。あの時にもこの時にも教えを乞うたヒトがいた。こう数えると,とても10指に収まらない。
▲ 自儘とは思ってないが,勝手気儘にやってきた。
 深慮遠謀とはほど遠い,場当たり的なやり方である。そんなのがどうにか定年まで勤められた。先輩の引っ張り,同僚の支え,後輩の後押しがあった。決して真っ直ぐ歩いてきた訳ではない。道を踏み外すことも度々あった(と思う)。かろうじて踏みとどまれたのは,どう考えても周りのお陰である。
▲ 「シンタロウ」を想い出す。
 採用後に配属されたのは『学生部』だった。彼は1年先輩の豪放磊落なデブ。しかし細かな気遣いを持っていた。酒を飲んだら,よく“男の生き様”を語っていた。彼とのつきあいは僅か15年。突然逝ってしまった。彼が中心だった「4人会」,あとの3人は今日定年を迎える。
 一緒に卒業しようナ,シンチャン。
▲ 広大なキャンパスに,春夏秋冬の移り変わりを鮮やかに映し出す北大が大好きである。その中でも,北13条門から続くイチョウ並木の晩秋に見せる姿は素晴らしい。
 今改めて,人生の大半をおおらかな北大で過ごせた幸せを感じる。
 北大人として勤められた誇りとともに,我が“故郷”が大きく飛躍してゆくときを心待ちにしている。


南   俊 夫(みなみ としお) 氏みなみ   とし  氏(企画部次長)
昭和24年1月5日生
(略  歴)
昭和42年3月   北海道小樽商業高等学校卒
昭和43年4月   苫小牧工業高等専門学校会計課
昭和51年4月   北海道大学農学部附属農場
昭和54年4月   北海道大学経理部主計課
昭和56年4月   北海道教育大学庶務部庶務課
昭和58年4月   北海道大学経理部経理課
昭和63年4月   北海道大学経理部主計課
平成2年4月   室蘭工業大学会計課総務係長
平成5年4月   北海道大学経理部主計課専門職員
平成7年10月   北海道大学経理部主計課監査掛長
平成9年4月   北海道大学経理部主計課総務掛長
平成10年4月   北海道大学経理部主計課専門員
平成11年4月   北海道大学経理部第二契約課専門員
平成12年7月   北海道大学経理部主計課課長補佐
平成13年4月   北海道大学総務部総務課課長補佐
平成16年4月   北海道大学総務部総務課広報室長
平成17年4月   北海道大学総務部広報課長
平成18年4月   北海道大学企画部企画調整課長
平成20年4月   北海道大学企画部次長

 皆様,大変お世話になりました。
 これまで,苫小牧高専,北海道大学,北海道教育大学,室蘭工業大学と道内の大学で,それぞれ充実した仕事をさせていただきましたが,今年度末をもって待望の退職を迎えます。
 勤務させて頂いた4大学等のうちで一番長くなったのが北海道大学での28年間です。
 この間,事務としては稀な牛や豚の売り払いから始まり,消費税導入に伴う経理事務の制度設計,ストレスが極限に達した契約課の設置,創基125周年記念募金推進室長として1年半で5億円を超える寄附金集め,法人化後は,東京オフィスや交流プラザ「エルムの森」の設置,国立大学では稀な認可保育園設置の検討,平成16年に倒壊したポプラ並木の再生関連事務やこれまでに9億円を売り上げた北大オリジナルクッキーの開発,部局同窓会と地区同窓会等で構成する連合同窓会の結成や学生支援のための北大カードの導入の他,教育研究施設の設置改廃まで,大学職員としてあまり経験の出来ない業務を数多く行ってきました。
 なかでも特に印象に残っているのが,日米包括経済協議に端を発した医療技術製品の総合評価基準の作成業務です。この時は,文部科学省会計課のチームと共に国立大学の調達事務に少しでも負担のかからないようにとの必死の思いで札幌,東京間のとんぼ返りを繰り返しながら,大きな成果を得ることができました。
 この業務処理に当たって,大学病院の教官と事務官(当時)には大変なお力添えを頂き,心から感謝しております。
 ワシントンで行われた日米首脳会談開催の日は,この業務に関わった3人が待機を命じられ,緊張の夜を過ごしたことも,今となっては思い出となって残っています。
 また,不祥事発生に伴う,数年に渡る関係機関との折衝も苦しいものでしたが,大事に至らず安堵しております。
 何れも自分なりには誠心誠意取り組んできましたが,何よりも大きかったのが北大という大きな名前です。組織の力をまざまざと感じながら仕事をしてきました。北大のための仕事ですから上手くいって当たり前。当然,個人的な評価などありません。
 そんな中,前総長からの胸の熱くなるような感謝のお手紙を頂いたことと,ある教員から「評価の底の犠牲のような業務をしてきたのですね。」という言葉をいただいたことで,一気に救われたような気がしました。
 ここまで,私を励まし,支えてくださった多くの皆様のご厚情に心から感謝いたします。
 素晴らしいスタッフに恵まれた28年間の北大勤務の内,最初の3年間は,農学部附属農場で働かせていただきましたが,残りの25年間は事務局での仕事でした。
 私は部局での仕事がしたくて,心の内を身近な者に話したとき「次長、退職ですよ。」と言われ,自分が60歳になったことを痛感しました。いつの間にか爺だ爺(笑)


小 森 元 章(こもり もとあき) 氏 もり もと あき 氏(財務部経理課長)
昭和24年2月10日生
(略  歴)
昭和42年3月   北海道帯広三条高等学校卒業
昭和42年7月   北海道大学歯学部
平成2年10月   北海道大学水産学部船舶掛長
平成5年4月   北海道大学経理部管財課第二管財掛長
平成7年4月   北海道大学経理部管財課第一管財掛長
平成8年4月   北海道大学総務部総務課専門職員
平成10年4月   北海道大学総務部総務課企画掛長
平成12年8月   北海道大学総務部総務課課長補佐
平成12年8月   釧路工業高等専門学校会計課長
平成15年4月   旭川医科大学総務部会計課長
平成19年4月   北海道大学財務部経理課長

 昭和42年7月に,北海道大学に奉職し,最初は歯学部事務部会計掛で物品管理業務を担当しました。その後,事務局経理部経理課給与掛へ配置換となりました。昭和49・50年の経理課・主計課時代は,全国で初めて先導的試行として,道内国立学校の共同処理・電算化のための汎用コンピュータの導入で,折しも給与振込と重なり,コボルの勉強とシステム構築を行い,毎日徹夜状態でした。それだけに,最初の基準給与簿の出力を見た時は,感動と達成感で涙が溢れてきました。主計課予算時代は,農場・演習林経費を担当の後,予算編成,概算要求に関わり,大変有意義でした。昭和61年からの大型計算機センター時代は日米スパコン摩擦の外交問題もあり,また,学内情報ネットワークの予算獲得と構築準備は新時代の幕開けでした。平成2年からの思い出の水産学部附属練習船「おしょろ丸」,「北星丸」との出会い,研究調査船「うしお丸」の香川県での代船建造は,初めての経験で困難を極めましたが,無事,竣工したことは,感激でした。平成7年の総務課での全学一貫教育,点検評価,企画関係の仕事は,会計畑の私にとっては,新鮮なものでした。平成19年4月に北海道大学に戻り,財務部経理課での新北海道大学版「学納金管理システム」の導入,管理統計資料の作成とビジュアル化を行い,ルーチン化と高度化に成果が得られ,また,消費税の解説書作成,新たな税務処理システムの構築,消費税課税区分の変更に伴う消費税納税額の大幅な軽減,経費節減と財源確保は,大学経営にとっても非常に有意義なものとなりました。
 また,大学の教育・研究・診療に係る行政事務の原点に立ち返って,存在意義を確かにすることは重要なことと思います。北海道大学を支えて頂く若手財務会計関係職員のために,これまでの財務会計等全般にわたる各種関係資料等を体系的に整理し,解説資料を新たに作成しましたので,是非,事務の高度化・効率化・迅速化・簡素化を目指して活用して頂き,北海道大学のために適正な財務会計業務の遂行に役立てて頂き,ご活躍頂ければ幸いです。
 これまで先輩諸兄,皆様方から多くのご指導,ご支援を頂き深く感謝しております。本当にお世話になり有り難うございました。最後に北海道大学の益々のご発展を祈念しております。


今 野 孝 明(こんの たかあき) 氏こん  たか あき 氏(学務部キャリアセンター課長)
昭和23年10月6日生
(略  歴)
昭和42年3月   北海道美唄東高等学校卒業
昭和42年6月   北海道大学歯学部
昭和46年5月   北海道大学医学部附属病院管理課
昭和49年5月   北海道大学庶務部庶務課
昭和53年5月   北海道大学庶務部人事課
昭和55年4月   北海道大学庶務部人事課研修掛企画主任
昭和58年10月   北海道大学庶務部人事課職員掛企画調査主任
昭和61年4月   旭川医科大学総務部庶務課職員係長
昭和63年4月   北海道大学法学部庶務掛長
平成2年4月   北海道大学庶務部人事課研修掛長
平成5年4月   北海道大学庶務部入試課第一入試掛長
平成7年4月   北海道大学学務部入試課第一入試掛長
平成7年6月   北海道大学学務部入試課課長補佐
平成7年7月   八戸工業高等専門学校庶務課長
平成10年4月   国立大雪青年の家庶務課長
平成13年4月   小樽商科大学庶務課長
平成14年4月   室蘭工業大学学生課長
平成16年4月   北海道教育大学事務局学務部学生課長
平成18年4月   北海道教育大学事務局学務部学生課長兼キャリアセンター室長
平成19年4月   北海道大学学務部キャリアセンター課長

 昭和42年6月1日に北海道大学に採用になり,同日創設の歯学部に配属以来,本学には通算28年1月,道内の4大学(旭川医科大学,小樽商科大学,室蘭工業大学,北海道教育大学)と八戸工業高等専門学校,国立大雪青年の家で13年9月,計41年10月勤務させていただきました。
 振り返りますと各職場それぞれに想い出がありますが,本学での一番の想い出としては,昭和51年の北海道大学創基百周年事業であります。記念式典を始め種々の関連行事を全学あげて,絶対に成功させるのだという熱気があふれていました。当時,私は庶務課員として,記念式典,姉妹大学提携協定調印式等の写真記録係として陪席し,学長,部局長,評議員の諸先生に接し,貴重な経験をさせていただきました。また,もう一つは,人事課研修掛6年6月の勤務で,大滝セミナーハウスを主に計20回の合宿研修を担当し,多くの講師,研修受講者の方々とお知り合いになれたことです。道内どこの大学等へ行っても必ず声をかけていただく方がおられました。
 平成7年以降は,高専,大学等を転勤し,単身赴任も約8年間経験しました。
 いずれの職場でも,種々の問題等があり,山あり,谷ありで困難なこともありましたが,無事に定年を迎えられますことは,良き諸先生,先輩,同僚,後輩のご指導,ご協力,ご支援のおかげと心から感謝しております。
 国立大学はこれからもさらに厳しい環境が予想されますが,北海道大学の益々の発展と皆様方のご健勝とご活躍をお祈り申し上げます。


菅 原 英 一(すがわら えいいち) 氏
すが わら えい いち 氏(附属図書館情報管理課長)
 昭和49年8月16日付けで北大に採用され,通算して24年ほどお世話になった。勤務場所は,事務局,図書館,文学部,法学部と正門近くの限られたエリアである。ということは,広い北大キャンパスのことをほとんど知らないで退職することになる。少し心残りである。
 退職後は時間のゆとりも出来るだろうし,北大への気持ちも在職中とはかなり違ったものになると思われる。そのような状態で気ままに北大キャンパスを散策できればと思っている。
 また,図書館へも学外利用者として登録し,教育研究の邪魔にならない程度に利用したいものだと思う。札幌市に在住する一市民として約370万冊の蔵書の恩恵に与らない手はない。市立図書館には所蔵していない専門的な図書は魅力である。
 これまでとは違った新たな発見や関わりが有りそうで楽しみである。


江 坂   眞(えさか まこと) 氏 さか   まこと 氏(医学系事務部会計課長)
昭和24年2月5日生
(略  歴)
昭和42年4月   北海道大学理学部
昭和47年5月   北海道大学附属図書館整理課
昭和50年5月   北海道大学経理部主計課
昭和54年4月   北海道大学大学院環境科学研究科
昭和57年5月   北海道大学経理部経理課
昭和61年4月   北海道大学獣医学部会計掛
平成元年4月   北海道大学施設部企画課
平成2年4月   埼玉大学施設課企画係長
平成5年4月   北海道大学経理部経理課支出掛長
平成7年4月   北海道大学経理部経理課給与掛長
平成10年4月   北海道大学経理部経理課第一用度掛長
平成12年7月   北海道大学経理部第二契約課専門員
平成15年4月   北海道大学医学研究科・医学部事務長補佐
平成18年4月   学術国際部研究協力課課長補佐
平成19年4月   医学系事務部会計課長

 昭和42年4月,理学部に採用となり,埼玉大学にお世話になった3年間を除き,39年間,北海道大学にお世話になりました。事務局には20年間,部局には19年間,ほとんどを会計マンとして,経理畑を歩んできました。
 その間,大学紛争に始まり,定員の削減問題,業務の電算化・省力化,大学院の重点化,最後の5年間は法人化移行等,様々な大学改革の波を経験させていただきました。
 時代の変革を身近な事柄から回想しますと勤めた時には計算には算盤を使い,すぐに,手動の手回し計算器が使われ,その後,電卓,そして現在では,パソコンが全員に行き渡って使用されています。このように時代の変化は急であり,忙しいものとなっていることがわかります。
 さて,今年は,いよいよ人生の区切り(定年)の年を迎えることとなりました。無事にこの年を迎えることができましたのは,良き上司,先輩,同僚,後輩の方々から,また,先生方からの温かいご指導とご支援に支えられたお陰であると厚く感謝申し上げる次第であります。
 最後に,北海道大学が第1期中期計画の最終年度に向け良い評価を得て,日本だけでなく,世界の北海道大学としてますます発展されますことを祈念いたしております。

本 吉   博(もとよし ひろし) 氏もと よし   ひろし 氏(学術国際部国際企画課留学生交流室長)
昭和23年5月24日生
(略  歴)
昭和42年3月   北海道函館西高等学校卒業
昭和42年5月   北海道大学水産学部
昭和50年5月   北海道大学歯学部附属病院
昭和52年4月   北海道大学大学院環境科学研究科
昭和54年4月   北海道大学理学部附属海藻研究施設
昭和59年4月   北海道大学理学部庶務掛海藻研究施設事務主任
昭和61年4月   北海道大学免疫科学研究所庶務掛人事主任
昭和63年4月   北海道大学医学部附属病院総務課職員掛企画調査主任
平成2年 4月   北見工業大学庶務課人事係長
平成5年 4月   北海道大学理学部人事掛長
平成8年 4月   北海道大学理学部庶務掛長
平成11年4月   北海道大学総務部国際交流課国際企画掛長
平成14年4月   小樽商科大学学生課課長補佐(国際企画室)
平成15年4月   小樽商科大学国際企画課課長補佐
平成16年4月   北海道大学工学研究科・工学部総務課課長補佐
平成17年4月   北海道大学工学研究科・情報科学研究科・工学部総務課課長補佐
平成18年4月   北海道大学学術国際部国際企画課留学生交流室長

 昭和42年5月に北海道大学水産学部に採用されて以来,41年11ヶ月に亘る大学職員としての生活を終え,3月31日をもって定年退職を迎えることになりました。
 この間,函館を皮切りに道内5市で大学勤務を経験させていただきました。このうち,函館,室蘭,北見及び小樽での勤務が20年間と半分近くが札幌キャンパス以外での勤務でした。なかでも,理学部附属海藻研究施設(現在の北方生物圏フィールド科学センター室蘭臨海実験所)での7年間は,教員や大学院生等と直接接する毎日で自分の大学職員にとって貴重な経験となりました。特に昭和58年に行われた海藻研究施設創設50周年記念事業は懐かしい思い出です。最後に約42年の長きに亘り暖かいご指導とご支援をいただいた良き上司,先輩,同僚,後輩に心から感謝申し上げます。
 また,この1年は病気のため関係者の方々に多大なご迷惑をおかけしましたが,定年退職を迎えさせていただいたことに重ねて感謝いたします。ありがとうございました。


松 川 政 廣(まつかわ まさひろ) 氏まつ かわ まさ ひろ 氏(病院医事課医療支援室長)
昭和24年3月20日生
(略  歴)
昭和42年4月   北海道大学医学部附属病院業務課
昭和47年5月   北海道大学教養部
昭和50年5月   北海道大学理学部
昭和53年5月   北海道大学工学部経理課
昭和56年5月   北海道大学医学部
昭和59年5月   北海道大学歯学部業務課
昭和62年5月   旭川医科大学業務部医事課主任
平成2年4月   北海道大学医学部附属病院医事課主任
平成6年4月   旭川医科大学業務部医事課入院係長
平成9年4月   北海道大学歯学部業務課医事掛長
平成12年4月   北海道大学医学部附属病院医事課専門職員
平成13年4月   北海道大学医学部附属病院医事課医事掛長
平成14年4月   北海道大学医学部附属病院医事課主任専門職員
平成17年10月   北海道大学病院医事課専門員
平成19年4月   北海道大学病院医事課課長補佐
平成20年4月   北海道大学病院医事課医療支援室長

 42年前に,オホーツク海の田舎町から札幌行きの急行列車に7時間近くも揺られ,北大病院に赴任したのが病院との関わりの始まりでした。その後,幾つかの学部を経験しましたが,最後の職場も病院で終えることになり,旭川医大を含め約3分の2を病院で勤務させていただきました。
 当時の病院の建物は古く,また,今では秋の名物となっている病院横の銀杏並木は,何の変哲も無い普通の並木でした。
 病院では,受付や診療費の計算・請求事務等を行ってきましたが,当初は紙の伝票を基にソロバンで計算を行いました。現在では,医療情報システムの導入により,計算は自動化され,自動精算機による支払いもできます。健康保険への請求はオンライン化され,請求書の山を段ボール箱に入れて運ぶ必要も無くなり,職員も半分に減り,受付窓口は殆ど外部委託で行うようになりました。
 建物や周りの木々が変わり,仕事の仕方も随分と変化しました。大学も法人化され,病院を取り巻く環境は厳しくなりましたが,病院での仕事は,常に患者さん目線であるべきことは,昔も今も変わっていません。これからも,北大病院が患者さんから信頼される病院であることを願っております。


遠 藤 正 明(えんどう まさあき) 氏えん どう まさ あき 氏(薬学事務部事務長)
昭和23年8月14日生
(略  歴)
昭和42年3月   北海道函館東高等学校卒業
昭和42年4月   北海道大学水産学部
昭和52年7月   北海道大学経理部経理課
昭和57年5月   北海道大学経理部主計課
昭和60年4月   北海道大学歯学部総務課用度掛物品管理主任
昭和62年4月   北海道大学歯学部総務課経理掛予算運用主任
昭和63年4月   北海道大学経理部経理課管理掛物品管理主任
平成4年4月   国立日高少年自然の家庶務課会計係長
平成6年4月   北海道大学大学院地球環境科学研究科会計掛長
平成7年10月   北海道大学経理部主計課専門職員(契約担当)
平成10年4月   北海道大学経理部主計課総務掛長
平成11年4月   北海道大学経理部主計課専門員(会計法規担当)
平成14年4月   北海道大学経理部主計課課長補佐
平成15年4月   北見工業大学附属図書館事務長
平成16年4月   北見工業大学情報図書課長
平成17年4月   北海道大学施設部施設企画課施設管理室長
平成19年4月   北海道大学薬学事務部事務長

 昭和42年4月,水産学部の船舶掛勤務に始まり40有余年を大学と青少年施設の事務に携わり,この度退職することになりました。顧みますと昭和42年から約10年間を函館で勤務し,昭和52年7月に函館から緑多き札幌キャンパスへと転勤しました。驚いたことに当時,事務局北側(現在の地球環境科学研究院の辺り)に近所のお年寄りが畑を作っていたのを懐かしく思い起こしています。札幌での勤務は事務局の他,歯学部,地球環境科学研究科,薬学部でしたが,その間,日高少年自然の家,北見工大勤務を経験させていただきました。
 仕事の面では,幾度となく綱渡りを経験しましたが「やらねばならない。なるようになる」と達観して,その時々に勤務先の部局長や先生方,上司とよき先輩,同僚とよき後輩に恵まれ,助けられ支えられ何とか退職まで来ることができたことを紙面を借りて皆様に心から感謝申し上げます。  
 最後になりますが,北海道大学の益々の発展を祈念して,ご挨拶とさせていただきます。


関 口 公 男(せきぐち きみお) 氏せき ぐち きみ  氏(獣医研究科・獣医学部事務長)
(略  歴)
昭和42年4月   北海道大学医学部附属病院管理課
昭和46年11月   北海道大学経済学部
昭和47年4月   北海道大学附属図書館閲覧課(併任47年8月まで)
昭和50年4月   北海道大学触媒研究所
昭和53年4月   北海道大学経理部経理課
昭和60年4月   北海道大学農学部附属演習林会計掛会計主任
昭和62年4月   北海道大学医学部附属病院管理課医療器材掛医療器材管理主任
平成2年4月   北海道大学経理部主計課第二予算掛予算管理主任
平成3年4月   旭川医科大学総務部会計課司計係長
平成6年4月   北海道大学経理部主計課第二予算係長
平成8年4月   北海道大学経理部主計課第一予算掛長
平成10年4月   北海道大学経理部主計課専門職員
平成11年4月   旭川医科大学総務部会計課課長補佐
平成14年4月   北海道大学歯学研究科・歯学部総務課課長補佐
平成15年10月   北海道大学医学部・歯学部附属病院管理課課長補佐
平成17月4月   北海道大学薬学研究科・薬学部事務長
平成19年4月   北海道大学獣医学研究科・獣医学部事務長

 昭和42年4月,医学部附属病院管理課に採用され,このたび定年退職することになりました。
 この間,2度の旭川医科大学の6年を含め42年間の勤務を終え,無事に定年を迎えることができましたことは,自分自身が健康であったこと,そして何より,良き先輩,同僚,後輩に恵まれ楽しく仕事ができたお陰であると思っております。心から感謝申し上げます。
 最後になりますが,大学を取り巻く環境は今後も厳しい状況と思いますが,北海道大学の特色を生かして益々の発展することと,皆様方のご健勝とご活躍をお祈り申し上げます。
 長い間お世話になり,本当にありがとうございました。


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