勲 章 | 経 歴 | 氏 名 |
瑞 宝 中 綬 章 | 名誉教授(経済学部) | 小 林 好 宏 |
瑞 宝 中 綬 章 | 名誉教授(医学部) | 齋 藤 和 雄 |
瑞 宝 中 綬 章 | 名誉教授(工学研究科) | 土 岐 祥 介 |
瑞 宝 中 綬 章 | 名誉教授(理学部) | 山 本 正 |
瑞 宝 中 綬 章 | 名誉教授(法学部) | 實 方 謙 二 |
瑞 宝 単 光 章 | 元 北海道大学病院看護師長 | 木 島 博 子 |
各氏の受章にあたっての感想,功績等を紹介します。
(総務企画部広報課)

- 小林 好宏 (こばやし よしひろ) 氏
感 想
この度の受賞に際して,大変有り難く感謝しております。北大に入学したのが昭和28年,大学院を経て同37年に,山口大学に赴任し,3年ほどして再び北大に戻り,以後,海外留学中の数年間を除き,停年を迎えるまでの,実に30数年間をこの世界で最も美しいキャンパスで過ごすことができました。北大のキャンパスは本当に美しいと思います。この美しさをいつまでも保っていてほしいと思います。私は中学生くらいの頃から,研究者のような仕事に憧れをもっておりました。文類に入学したのですが,必ずしも社会系ではなく,どちらかと言えば人文系に関心がありました。それにもかかわらず経済学部に進んだのは,今考えると気恥ずかしい限りですが,生意気な理由によります。当時は基礎になる勉強をすれば,ほかは余力でやれると思っていました。そんなことは到底無理なことは,すぐ判ることですが,学生時代はそれくらいの生意気さがあってもいいのではないかと,思います。
大学院に進んでからは,恩師の故早川泰正先生の後を追いかけるような勉強を続けました。市場機構が作用する経済は,適切な競争が行われていれば安定的な均衡が得られると考えられていますが,早川先生はむしろ市場の不安定性に注目された研究を行っていました。私も同じ関心をもって後追いをしていたのです。先生の研究は当時,マクロダイナミクスと呼ばれ,大変注目されておりました。その後,研究留学を経て,私の研究分野は産業組織論,公共経済学,計画行政学,都市経済,地域経済というように,広がりますが,その過程でも,常に先生の影響が表れていたと思います。
私が思うに,学部時代は広くリベラルアーツを学び,専門に特化するのは,大学院に進んでからで良いと考えます。確かに学問研究のレベルは高くなっていますが,学部生時代の重みは変わらないと思います。多くの友人と交わり,読んだ本の感想を述べあいながら,生意気な議論をした,その時代が貴重です。
いろいろと,偉そうなことを書いてしまいましたが,私が愛してやまない母校の北海道大学が,キャンパスだけではなく,学問研究の分野においても,世界の一流になることを切に願っております。
功績等
小林好宏氏は,昭和10年2月9日北海道に生まれ,同32年北海道大学経済学部を卒業,同37年同大学大学院経済学研究科博士課程を単位修得退学し,同年7月に山口大学経済学部講師に採用されました。昭和40年4月に北海道大学経済学部助教授に昇任後,同46年3月には同大学から経済学博士の学位を授与され,同52年4月同大学経済学部教授に昇任,平成6年1月から同7年12月まで同大学経済学部長及び大学院経済学研究科長に就任し,同10年3月に停年により退職し,同10年4月に同大学名誉教授の称号が付与されました。その後,平成10年4月から同17年3月まで札幌大学で経済学部教授として教鞭を取り,同17年4月から同21年3月までは北海道武蔵女子短期大学の学長に就任し,大学の運営と発展のために尽力されました。
また,平成20年4月から財団法人北海道地域総合振興機構(現 公益財団法人はまなす財団)会長を経て,同23年4月から公益財団法人はまなす財団理事長に就任し,現在に至ります。
研究業績は,産業組織論,公共選択論,産業政策・サービス産業論,法や制度の経済分析の4つに大別されます。
まず,産業組織論について,寡占化の傾向を市場の拡大との相対関係として捉え,寡占経済にも競争的側面と協調的側面の2面があること,市場の規模や成長,産業の技術的特質等,様々な要因によってこの2つの側面のいずれかがより強く表れることを理論と実証の両面から明らかにしたことで高い評価を受けました。また,造船業の研究,企業行動,系列あるいは企業集団の研究に取り組み,それらの成果をまとめた著書を意欲的に刊行しました。
次に,同氏は公共選択論を米国での在外研究で学び,日本の官僚制の経済分析に代表される,産業組織論の分析手法と官僚組織や官僚行動を結び付ける研究を行い,海外でも高い評価を受けました。
続いて,同氏は長年携わってきた北海道の開発や札幌の都市計画,道内各地域の振興計画等の経験と産業論研究を結び付け,産業政策・サービス産業論の研究を進め,地域経済や都市問題,土地問題,住宅問題等に関する論文・論述を多数発表されました。
北海道大学外においては,日本計画行政学会常務理事,北海道都市学会(現北海道都市地域学会)会長などを歴任し当該学会等に多大な貢献を行い,特に日本計画行政学会からは平成22年9月に功績賞を受けています。また,一般社団法人北海道開発協会副会長及び会長,一般財団法人北海道労働協会理事長などを務め,北海道の発展に寄与されました。
また,北海道内で行われる国の事業の適否を審議する北海道開発局事業審議会委員長を4年にわたり務め,北海道の産業振興,労使関係の安定,環境管理等に尽力されました。
さらに,札幌市においては,都市計画審議会会長,市営企業調査審議会会長,中小企業振興審議会会長などを歴任し,その功績を評価され平成24年11月に札幌市市政功労者表彰を受けました。
上記のとおり,同氏は35年以上にわたり,本学の研究教育・運営に尽くすと同時に,我が国及び北海道の地域社会の発展に貢献され,その功績は誠に顕著であります。
略 歴
生年月日 | 昭和10年2月9日 | |
昭和37年7月 | 山口大学経済学部講師 | |
昭和40年4月 | 北海道大学経済学部助教授 | |
昭和52年4月 | 北海道大学経済学部教授 | |
平成元年8月 | ![]() |
北海道大学評議員 |
平成3年7月 | ||
平成6年1月 | ![]() |
北海道大学経済学部長・大学院経済学研究科長 |
平成7年12月 | ||
平成6年1月 | ![]() |
北海道大学評議員 |
平成7年12月 | ||
平成10年3月 | 北海道大学停年退職 | |
平成10年4月 | 北海道大学名誉教授 | |
平成10年4月 | ![]() |
札幌大学教授 |
平成17年3月 | ||
平成17年4月 | ![]() |
北海道武蔵女子短期大学学長 |
平成21年3月 |
(経済学研究科・経済学部)

- 齋藤 和雄 (さいとう かずお) 氏
感 想
この度,図らずも叙勲の栄を賜り身に余る光栄に存じます。これまで北大に於いて,入学以来ご指導戴いた恩師,研究,教育,所属講座及び学部の運営発展のために共に歩んで力を注いで下さった先学,同輩のご指導とご協力のお陰であり,心より感謝申し上げます。昭和52年4月,北大に新設された大学院環境科学研究科の教授として社会環境学専攻の基幹講座である環境医学講座を担当させて頂いた5年間,同57年4月医学部衛生学講座の教授に配置換えになってから,環境科学研究科が平成5年4月に廃止され,地球環境科学研究科が設置されるまで協力講座を担当した11年間及び北大を定年退官した平成10年3月までの5年を加えた20年間に巣立った後輩のうち20名余が教授として,北海道から九州にいたる全国各地の大学で環境科学並びに医学の分野で教育,研究の中心となって活躍されていることは,私にとってこの上ない慶びです。
秋田の田舎の高校から北大生として北の大地の中心都市札幌の地を踏み,立派な物理学者になろうなどと大それた大志?を抱いた時の感激は今でも忘れられません。入学1年後から県の自治寮である秋田北盟寮に入り,初めての社会生活の一端である寮生活を堪能しましたが,この経験は今でも大いに役立っております。しかし,一般教養部理類時代の成績は今一で学部移行も思うようにいかず悩みぬいた挙句,教養部終了後全国一律医学部受験が可能であったことが幸いして医学部を受験することに決め,短期間の勝負でしたが,必死に北大図書館に通い受験勉強をした結果がこれまでの道筋を就けることが出来たと思い返しております。
私の専門は,衛生学公衆衛生学,即ち,予防医学であり,疾病の第1次予防である健康の維持増進,第2次予防である疾病の早期発見・早期治療,第3次予防に係わる疾病のリハビリテーションに係わる研究であります。第1予防分野では,職場及び都市の騒音問題,空気中微量鉛,その他の有害物質に関する研究であり,第2次予防分野では,疲労及びストレスと疾病発現との関係,精神的疲労と肉体的疲労の関係,体内における微量元素特に銅・亜鉛・マンガン・セレン等の分布と癌や糖尿病などの生活習慣病との関係,鉛職場や都市公害としての大気中微量鉛の長期暴露による人体影響の研究であります。これらの研究の中でいくつかの新知見を明らかに出来たことは非常に幸せでありました。また,台風による風倒木処理に使用したチェンソー及び刈払い機による北海道の林業労働者の10年以上にわたる振動障害の巡回健診並びに振動障害検診項目の妥当性に関する研究に取り組んだこと,医学部長時代に小児科で行われた我が国最初の遺伝子治療の推進に関わることができたこと,第17期日本学術会議会員として地域医療並びに予防医学の問題に取り組み,更に,アジア学術会議の発足に係わったことは些かなりとも学術の発展に貢献できたと考えております。
定年退職後は,名誉教授の称号を賜り,疾病の第2次予防の仕事としてクリニックを開設して職場及び地域住民の一般診療,健康診断,人間ドック等を通じて疾病の早期発見,早期治療に取り組んで今日に至っております。
末尾となりますが,これまで長年に亘ってお世話になっている皆々様に心からお礼を申し上げると共に,母校である北海道大学が素晴らしい教育・研究環境を維持しつつ,世界に通じる素晴らしい業績を上げられ,益々ご発展されることを願って止みません。
功績等
齋藤和雄氏は,昭和10年3月16日秋田県に生まれ,同34年3月北海道大学医学部医学科卒業,同39年3月同大学院医学研究科を修了,医学博士の学位を授与されました。昭和39年5月北海道大学医学部助手に採用後は,同42年6月助教授,同52年4月同大学大学院環境科学研究科教授を歴任した後,同57年4月同大学医学部教授に就任され衛生学講座を担当されるとともに,学部教育並びに大学院での研究指導に努め,優れた研究者を輩出されました。昭和62年6月には北海道大学評議員,平成5年4月には医学部長に就任され,大学院重点化に向けた研究組織の見直し,充実・発展に尽力された後,同10年3月31日停年退職,同年4月1日北海道大学名誉教授の称号が授与されました。北海道大学における同人の研究領域は環境医学,予防医学,労働医学の多岐にわたっています。
環境医学では,騒音の影響を高次神経活動としての脳波,皮膚電気反射で捉え,音の快・不快の要素を明らかにし,騒音公害の評価に貢献されました。
予防医学としては,血液および胃組織中の銅,亜鉛,マンガン,セレン濃度の変動が胃癌の早期発見,肝臓癌,肺癌,糖尿病等の生活習慣病発生予防にも役立つことを明らかにし,米国関連学会のニュースで取り上げられ注目を浴びました。加えて,加齢による脳内ルビジウム減少,カドミウム・錫の増加を世界で初めて明らかにし,老化研究の糸口を提供されました。
労働医学ではウイーン大学医学部で肉体負荷に伴う精神疲労発現には時間差が生じることを示した後,これまで不可能とされてきた客観的疲労判定を可能にするために新疲労測定装置(VRT)とポケットフリッカー装置を開発,疲労・ストレスの解析に寄与しました。さらに,鉛関連酵素を指標として長期低濃度鉛暴露の人体影響を検討し,気中鉛の影響閾値を明らかにされました。また,20年間に及ぶ振動障害研究から検診項目の妥当性と診断の基準値を確立,予防とリハビリテーションに貢献する成果を残されました。加えて,有機溶剤中毒ではトリクロルエチレンとスチレンの脳の長期増強反応,中潜時聴覚脳反応から中枢神経障害発生の量反応関係を明らかにし,神経中毒の予防に貢献されています。このように労働者の健康を守る上での顕著な業績を残されております。
学外においては日本衛生学会幹事長,日本産業ストレス学会理事長をはじめ各種学術団体の理事,学術審議会専門委員,学位授与機構審査会専門委員,日本学術会議会員,労働省地方労災医員,北海道地方労働基準審議会委員等を歴任され,衛生学を中心とする本邦医学界の重鎮として活躍されました。
退職された後は平成11年1月北海道検診センタークリニック(同15年より医療法人社団)を開設され,理事長・院長として予防医学・産業医学の分野で道民の健康維持,推進の現場で活躍されております。
以上のように同人の,学生教育,学術研究,大学の運営,国内外の医学界,さらには地域医療への貢献は極めて大なるものであり,その功績は誠に顕著であります。
略 歴
生年月日 | 昭和10年3月16日 | |
昭和39年5月 | 北海道大学医学部助手 | |
昭和42年6月 | 北海道大学医学部助教授 | |
昭和52年4月 | 北海道大学大学院環境科学研究科教授 | |
昭和57年4月 | 北海道大学医学部教授 | |
昭和62年6月 | 北海道大学評議員 | |
平成5年4月 | 北海道大学医学部長 | |
平成10年3月 | 北海道大学停年退職 | |
平成10年4月 | 北海道大学名誉教授 | |
平成11年1月 | 北海道検診センタークリニック開設,理事長・院長 | |
平成15年3月 | 医療法人社団北海道検診センタークリニックに名称変更,理事長・院長 |
(医学研究科・医学部)

- 土岐 祥介 (とき しょうすけ) 氏
感 想
このたび,叙勲の栄に浴し,身に余る光栄と存じます。叙勲のために推挙,申請の労をおとり下さった各位ならびに,特に,北海道大学における学部,大学院を通じてご指導頂きました恩師,故真井耕象名誉教授,北郷繁名誉教授に心から御礼申し上げます。昭和35年に修士課程を修了し,運輸省港湾局に採用されました。最初の仕事は,当時大きな災害をもたらした伊勢湾台風,チリ地震津波の被害の調査,ならびにそれら大災害をもたらした海象を想定した,港湾及び海岸施設の防災,安全設計等に関わる作業でありました。その後,港湾技術研究所に所属することになり,風波の防波堤越波高,防波堤や護岸の隅角部における入射波の挙動,島状桟橋の安定等に関する調査・実験に関わりました。しかし,最も力を入れたのは,地震津波のような長周期波に対する防波堤の効果に関する解析的研究で,大変やりがいのある研究と思っておりました。
この様な中で,昭和38年北海道大学に助教授としてお呼び頂き,工学部土木工学科において,教育と研究に生涯の仕事として従事するようになりました。実験・実習,講義につきましては,多くの諸先輩,同輩に御指導と御世話を頂きました。研究は,それまでの業務とは全く異なる地盤工学となりましたが,学部ならびに修士課程ですでに北郷先生よりご指導いただいており,研究所での分野の異なる研究経験は,新しい業務に極めて有効でありました。研究は,砂および砂地盤の力学を対象とするようにご指導を頂きました。
講義と研究が軌道に乗り始めた頃,在外研究員として,米国カリフォルニア大学バークレイ校ならびに英国インペリアルカレッジ等に,ビジティングスカラーの資格で約1年間滞在する機会を頂きました。その間得た知見ならびに海外にできた友人は,その後の研究活動に大きな力となりました。このような機会を与え1年間の海外での研究生活をお許し下さいました他,私の北大での教育・研究環境を整えるなど,終始ご高配を頂いた北郷繁名誉教授に,改めて深甚なる感謝を申し上げます。
また教育と研究の広い面で,三田地利之名誉教授にも大変お世話になりました。
35年間の北大での生活で印象に残る研究は,砂地盤の液状化強度に関わる一連の研究でした。繰り返し応力のもとでの強度・変形特性を,実際の地盤で考えられる様々な条件について実験したもので,学会の委員会の支援のもとで共同研究も実施しました。成果の一部は,議長として札幌で開催した国際会議の一つのテーマと致しました。北大でのこれらの研究には,同じ研究室におられた三浦清一名誉教授,三浦均也豊橋技術科学大学教授から頂いた御支援が極めて重要でありました。また,私の研究は実験が中心であったため,これを支えてくれた優秀な学生諸君を懐かしい実験室の姿とともに,よく思い出しております。
在職中に,学生部委員会委員,北海道大学評議員,工学研究科長等に任命されました。教職員各位の御支援を頂いて,私としましては力を尽くしたつもりですが,反省する点が多くありました。
北海道大学を退職後お世話になった,北海道工業大学,放送大学北海道学習センター,北見工業大学,また選任頂いた幾つかの審査会などにも多くの思い出が残っております。
これからもこれまで関わってきた社会基盤の整備,防災・減災,環境整備等のために,何らかの形でお役にたつことが出来たらと思っています。末尾になりましたが,長い間お世話頂きました皆様に,この機会を借りて改めて御礼を申し上げます。
功績等
土岐祥介氏は,昭和33年3月北海道大学工学部土木工学科を卒業,昭和35年3月同大学大学院工学研究科修士課程を修了し,同年4月運輸省港湾局調査設計室に採用され,同年10月からは同省運輸技術研究所に勤務されました。その後昭和38年6月に北海道大学工学部助教授に転任され,同51年4月に教授に昇任,平成7年5月からは同大学工学部長・工学研究科長に就任し,平成10年3月同大学を停年により退職,同年4月に北海道大学名誉教授となられました。その後同年4月から平成17年3月まで北海道工業大学教授として教育に当たられ,同年4月には同大学名誉教授の称号を授与されております。また,平成25年5月まで北海道尚志学園の評議員,理事に就任して学園の運営に当たられました。さらに,平成16年4月からは,新たに国立大学法人として出発した北見工業大学の監事(非常勤)に就任され,大学の教育・研究・運営に多大の貢献をされてきました。研究面では,液状化現象の基本的なメカニズムの解明に関わり,砂質土の力学特性,土の性質の試験方法,地震時における地盤及び土構造物の液状化現象,地盤災害の調査研究に取り組まれ,特に地盤及び土構造物の動的挙動に関する分野で先端的かつ独創的な研究を行い,当該分野の発展に多大な貢献をされました。
砂の力学的性質に関する多くの研究もされており,論文「砂の応力〜ひずみ〜強度異方性に関する研究」(共著)に対しては,昭和60年に地盤工学会より論文賞が授与されております。
平成7年5月には北海道大学工学部長・工学研究科長に就任され,大学院重点化を中核とした工学部再編に取り組まれ,高等教育が大学院段階で完成することを前提として,教員のレベルアップ,専攻の再編,大学院におけるスクーリングの充実,基礎教育に重点を置いた学部と大学院の一貫教育を目指し,そのために必要な研究の活性化及び教育の充実,組織・運営の合理化等の改善を実施されました。
学外活動においては,地盤工学会,日本工学教育協会等の理事等を歴任するとともに,地盤工学会北海道支部長を務められ,土質工学会からは,学会運営をはじめとした多くの功績に対して,平成元年に功労賞を授与されました。
その他,北海道においては,北海道科学技術審議会,北海道環境影響評価審議会等の委員として,北海道における産業の育成と科学技術の進歩及び環境保全と災害防御のために,学識経験者として貴重な提言を行ってこられ,また,釧路空港高盛土工技術調査,千歳川放水路環境影響調査,苫小牧港防波堤建設ほか多くの社会基盤施設の建設計画等に委員会委員あるいは委員長として関わり,それらの安全性と環境への影響について重要な提言をされました。
以上のように,同氏は,研究者として地盤工学分野で優れた研究成果をあげるに留まらず,教育者及び指導者として工学教育の充実・活性化を図り次世代の研究者・技術者の養成に尽力されたことに加え,大学や学協会の知的財産を有効活用した土木行政の円滑な執行や大学と民間企業との研究交流の推進を図り,産官学の連携強化に尽くす等,その功績は誠に顕著であります。
略 歴
生年月日 | 昭和10年1月24日 | |
昭和35年4月 | 運輸省港湾局調査設計室運輸技官 | |
昭和35年10月 | 運輸省運輸技術研究所港湾水工部運輸技官 | |
昭和37年4月 | 運輸省港湾技術研究所水上部運輸技官 | |
昭和38年6月 | 北海道大学工学部助教授 | |
昭和51年4月 | 北海道大学工学部教授 | |
平成7年5月 | 北海道大学工学部長・大学院工学研究科長 | |
平成10年3月 | 北海道大学停年退職 | |
平成10年4月 | 北海道大学名誉教授 | |
平成10年4月 | ![]() |
北海道工業大学教授 |
平成17年3月 | ||
平成14年4月 | ![]() |
北海道尚志学園評議員 |
平成25年5月 | ||
平成16年4月 | ![]() |
北見工業大学監事(非常勤) |
平成22年3月 | ||
平成17年5月 | ![]() |
北海道尚志学園理事 |
平成25年5月 |
(工学院・工学研究院・工学部)

- 山本 正 (やまもと ただし) 氏
感 想
このたび秋の叙勲に際し受章の栄に浴しましたことは誠に光栄に存じます。これも多くの先生方のご指導,同僚,後輩のご支援,ご協力の賜とお礼申し上げます。特に動物学の面白さを教えて下さった成城高等学校の内田昇三先生と,発生学の諸問題を指摘,ご指導下さった北大の狩野康比古先生に深く感謝申し上げます。東京育ちの私は小学校の頃に愛読した大島正満さんの「動物奇談」で北海道の熊など自然を知り北海道に憧れて昭和25年に北大に入学しました。当時の札幌は自然に恵まれ,北大でも伊藤邸から校庭を流れる小川は色々の動物の宝庫でした。現在のクラーク会館の場所には生協の食堂があり,その近くの小川には米粒を流したのかと思うほどに沢山の白いプラナリアが生息していました。また,中央図書館の近くではこの川の水があふれで湿地となっていて,そこはプラナリアの産卵場所となっていました。さらに現在の体育館の場所は田んぼで,5月頃にはそこでトミヨが盛んに産卵していました。この小川は新川に注いでいましたが,そこには川底が真っ赤に見えるほど沢山のイトミミズが生息していました。学外をみると円山公園の小川ではスナヤツメやカワヤツメがみられ,夜間によく採集したものです。学生実習のためのエゾサンショウウオ卵は円山のお墓の花差しで採集できましたが,成体の雌は熊が出ると噂されていた盤渓まで出かけなければなりませんでした。このように大学や近郊で自然に恵まれ,研究材料の入手できることは当時でも珍しかったらしく,他大学の方々からうらやましがられたものです。このような素晴らしい環境で仕事のできましたことを心から感謝しております。
発生学に目を転じると,1924年頃の,シュペーマン一派によるオルガナイザーの発見,換言すれば未分化細胞の分化誘導から近年の京都大学の山中教授らによるiPS細胞の生成,換言すれば分化した細胞を未分化の状態へ戻すことへの成功までは発生学を志す人たちの夢であった発生の可逆化を実現したものと考えることが出来ます。今後ますます発生学の諸問題が解明されることを願っております。大学は厳しい環境に置かれるようになり,現職の方々には色々なご苦労があるかと思いますが,北大の一層の発展を陰ながら応援したいと考えております。
功績等
山本 正氏は,昭和28年3月北海道大学理学部動物学科を卒業後,平成6年3月31日停年により退職されるまで動物発生学の教育・研究に努め,平成6年4月に北海道大学名誉教授になられ今日に至っています。この間,同人は40年の永きにわたり動物発生学の分野で学術的に優れた,数多くの業績を挙げるとともに,学生や若い研究者の教育・指導に力を尽くされ,北海道大学理学部生物学教室の充実発展だけでなく,広く学界の進歩に大きく寄与され,その功績は誠に大きいものがあります。同人は昭和28年にメダカの卵形成の細胞化学的研究に着手して以来,今日まで一貫して魚類における生殖細胞の形成及び受精の研究に従事してこられました。なかでも最も力を注がれたのは「卵膜の受精に果たす役割の解明」と「卵が発生を開始する仕組みの解明」です。
卵膜の研究においては,サケ卵並びにカワヤツメ(円口類)卵から酵素処理により卵膜を除去する手法を開発し,それにより卵膜を除去した卵の受精を観察する道を拓きました。サケもカワヤツメも正常では単精受精を行いますが,卵膜を除去した裸の卵を用いた実験の結果,多精受精拒否の機構が両種の卵で大きく異なることを示しました。また,サケ卵では卵門と呼ばれ卵膜に1つだけ存在する精子の通路のサイズ(内径)によって単精受精が保障されることを明らかにされました。
サケ卵での単精受精を保障する更なる機構として,精子進入時に卵門部に生ずる構造変化が重要であることを指摘し,卵門が受精後に完全に閉鎖することを電子顕微鏡レベルで初めて示しました。一方,カワヤツメ卵では,受精にともない膜電位変化が起こっていることを示すとともに,この受精電位が多精受精を阻止する重要な機構であることを証明されました。
魚類の卵が発生を開始する仕阻みについては,サケ卵の活性化が卵内及び卵表のカルシウムイオン濃度の変化によってもたらされることを示す一方,精子による卵活性化機構の場合との共通性も明らかにされました。
以上の研究は,下等脊椎動物の受精機構の進化と環境への適応を考察する上で重要な知見を提供しています。
同人は教養部学生の教育に尽力し,真剣に学生の事を考える温情あふれる指導は学生から畏敬と強い信頼を受けていました。また学部学生,大学院生にも教育・研究指導を惜しまず,同人の指導を受けた多くの研究者が各研究機関で活躍中です。学外にあっては,日本動物学会の評議員を務め,学界の発展に寄与されてきました。また,学内にあっては,教養課程教育協議会委員,教養部教務委員会委員長等を務め,大学行政においても多方面にわたり貢献されてきました。
略 歴
生年月日 | 昭和5年12月8日 | |
昭和28年4月 | 北海道大学理学部助手 | |
昭和37年4月 | 北海道大学理学部講師 | |
昭和40年3月 | 北海道大学理学部助教授 | |
昭和51年3月 | 北海道大学理学部教授 | |
平成6年3月 | 北海道大学停年退職 | |
平成6年4月 | 北海道大学名誉教授 |
(理学院・理学研究院・理学部)

- 實方 謙二 (さねかた けんじ) 氏
感 想
この度は,瑞宝中綬賞の褒賞を賜り,大変光栄と考えております。これは,22年間の本学法学での教育・研究活動を顕彰してくださるもので,この活動を支えてくださった多くの皆様に感謝しております。また,今回の叙勲は,本学の推薦に基づくものであり,推薦を進めてくださった多くの方に感謝しております。私の北大での教育・研究活動は,法律学の中でも経済法といわれる分野を対象としたもので,中でも,独占禁止法に関連する課題の研究が中心でした。教育の面では,ゼミでの授業が楽しい記憶に残っております。これは,独占禁止法と消費者保護法を中心とした演習ですが,多くの優秀な学生さん達が参加してくれ,充実した授業ができました。また,参加学生達は,皆,私に懐いてくれ,ゼミのコンパや旅行など,懐かしい思い出となっています。
また,研究の面でも,北大での活動は充実したものでした。私の独占禁止法の研究は,基礎的・理論的な研究が,まず中心ですが,これと同時に,独占禁止法の実際の運用に関する課題に関する問題点の指摘や,反対派との論争など,実践的な研究活動も,基礎的・理論的な研究と両輪のように進めてきました。この実践的な面では,独占禁止法の運用に当たる公正取引委員会と密接に連携して動を進めてきました。具体的には,当面の課題に関して公正取引委員会が諮問機関として設けた各種の公的な研究会の会員や座長に指名され,そこでの当該課題に関する検討や,その検討結果,具体的には,当該研究会報告書についての,私の主張や反対派に対する論争を論文として公表したものです。まず,本学に来る前に,独占禁止法の大改正を取り上げた公取委の独占禁止法研究会(第1次)の会員となりました。この改正は,私が本学に来て以後,1977年に成立しましたが,ここでの検討に運関する多くの論文を公表しており,本学に来てからも,そのうち多くを書いております。この当時までの実践的な論文は,「独占禁止法と現代経済」という論文文集として出版しております。また1970年代後半から80年代にかけて,流通系列化の規制の強化や,そのための独占禁止法で定める「不公正な取引方法の一般指定」大改正の問題も,私の研究課題として重要なものです。ここでは,まず流通系列化を取り上げた公取委の独占禁止法研究会(第2次)や「不公正な取引方法」の一般指定の改正を取り上げた独占禁止法研究会(第3次)の会員となり,そこでの検討でも,中心的な役割を果たしています。この検討の結果に関しては,著書(共著)「新・不公正な取引方法」を出版しており,そのほか,当時,問題となった規制緩和に関する論文とまとめて「経済規制と競争政策」という論文集を出版しております。また,これらの実践的な論文の基礎となった理論的な研究論文については,「寡占体制と独禁法」を出版しております。
この他,実践的な研究活動としては,独占禁止法に違反するカルテルに対する消費者による損害賠償訴訟への参加も重要な活動でした。この訴訟に関する問題点については,本学法学部の法学論集の詳細な論文を公表しており,この論文を基礎として,訴訟において,鑑定証人として,裁判所(仙台高裁秋田支部)で証言をしました。その結果,消費者の主張を不当な理由づけで退けた第一審判決が覆され,消費者訴訟で唯一の勝訴判決を勝ち取ることができました。この活動も,私の実践的な研究活動の一つとして重要なものです。その後,これまでの研究活動を基礎として,独占禁止法の本格的な概説書,「独占禁止法(第1版から第4版)を出版しており,これも,広く好評なものとなりました。
このように,本学での私の研究活動は,非常に充実したものとなることができ,これは,私の研究活動を支えてくださった本学の皆様のおかげだと感謝しております。
功績等
實方謙二氏は,昭和7年11月20日仙台に生まれ,同30年3月に東京大学法学部第一類を卒業されました。昭和38年4月に小樽商科大学商学部講師,同41年4月に法政大学法学部助教授,同44年4月に同大学法学部教授に就任されました。昭和50年4月に北海道大学法学部教授に就任され,平成8年3月に同大学法学部を停年により退職後,平成8年4月に,神戸学院大学法学部教授に就任されました。平成16年4月に神戸学院大学実務法学研究科(法科大学院)研究科長に就任され,平成18年3月に神戸学院大学を停年により退職されました。この間,同氏は,米国の反トラスト法(独占禁止法)の研究に長く従事されました。同法の多数の判決を分析し,最新の経済理論・産業組織論の研究成果も取り入れ,独占・寡占市場対策を中心とする独占禁止法の理論の確立に務めました。同氏の独占・寡占市場問題に対する知見の広さと深さ,理論構築の緻密さが,同氏をして1970-90年代における日本の最先端の研究者に押し上げ,寡占市場構造の規制問題,カルテル・談合問題,流通系列化問題という日本の競争政策上の課題に応えることを可能にしました。
その影響は,第1に,公正取引委員会の実務,裁判所の判決そして独占禁止法の改正に及びました。石油価格カルテル刑事事件最高裁判決,鶴岡灯油訴訟仙台高裁判決,寡占対策を主眼とする昭和52年の独占禁止法改正,不公正な取引方法に関する公取委の「流通・取引慣行ガイドライン」(平成3年)などにその影響が及んでいます。
第2に,経済法学会など当時の若手や中堅の経済法学者に大きな影響を与えたことは,人材の育成に結びつきました。同氏の研究成果に影響を受けた若い研究者については枚挙の暇もありません。同氏の直接の指導を受けた大学院生は,青山学院大学,北海道大学,小樽商科大学,山形大学,北海学園大学,専修大学の教員として,また,国土交通省の幹部職員として活躍しています。
同氏の独占禁止法の研究の総体は,日本の独占禁止法を,米国やEUと並ぶ,競争法のグローバルスタンダードの位置を占める法体系とすることに貢献したといえます。また,東アジアにおいても,日本の独占禁止法を,韓国や台湾,中国の独占禁止法の制定に遥かに先立ち,その立法と解釈・運用において,東アジアで先進的な競争法として参考にされるものに高めることにも貢献されました。
略 歴
生年月日 | 昭和7年11月20日 | |
昭和38年4月 | 小樽商科大学商学部講師 | |
昭和41年4月 | 法政大学法学部助教授 | |
昭和44年4月 | 法政大学法学部教授 | |
昭和50年4月 | 北海道大学法学部教授 | |
平成8年3月 | 北海道大学停年退職 | |
平成8年4月 | 北海道大学名誉教授 | |
平成8年4月 | 神戸学院大学法学部教授 | |
平成15年4月 | 神戸学院大学大学院実務法学研究科特任教授 | |
平成16年4月 | ![]() |
神戸学院大学大学院実務法学研究科長 |
平成18年3月 |
(法学研究科・法学部)

- 木島 博子 (きじま ひろこ) 氏
感 想
この度,はからずも平成25年秋の叙勲で瑞宝単光章を受章できましたことは,身に余る光栄であり感謝の気持ちで一杯です。私は,昭和46年に伊達赤十字高等看護学校を卒業後,少しでも人の役に立つ仕事をしたいとの思いで38年間看護一筋に歩んでまいりました。伊達赤十字病院,市立札幌病院,聖母会天使病院などを経て,北大病院には昭和56年から平成22年の春まで,29年間お世話になりました。伊達日赤(伊達赤十字病院)では,若い未熟な私達に日常の規律やしつけをすることから始まり,人間の社会性,グローバルな物の考え方,人導支援などを看護教育とともに教わりました。また,天使病院では宗教に根差した人間の精神性や思いやり,博愛の精神などを教わりました。そして北大病院では科学的で客観的な根拠のある看護実践という事を教わりました。人のためどころか,まず自分を育てていただくことの方が多かった私ですが,北大病院で生物学的に人体を理解し,理論的,学問的に看護を推し進めていくというプロセスの中で,日赤で教わった社会的側面,天使病院で教わった精神的側面を重ね合わせて深い洞察の中で人間理解をすることから看護は始まるという事を理解しました。これはまさに昭和46年の"新カリキュラム"でとなえられた"患者を全人的にとらえる"ということでありました。この時の"新カリキュラム"と言われた新しい看護教育は,それまでの疾患別看護や疾病中心の医師による看護教育を終了し,看護師教育は看護師の手で,人間理解に根差した患者中心の看護を,と置き換えられ,看護の独自性,専門性の追求が始まったのでした。長いこと「看護とは…」の議論が続いたように思いますが,終わってみれば,あっという間の30数余年,今では理論的にも,技術的にも体系づけられた学問としての看護が確立され,多くの専門看護師や,認定看護師が排出され,看護職の社会的地位も立派に位置づけられました。子育てと厳しい仕事との両立に何度も挫折しそうになりながらやっと乗り越えてきた私としては,このように恵まれた環境で看護ができる日が来たと言う事がうれしく,まるで自分の夢がかなったような気分です。このように目覚ましい発展を遂げた看護職の一時代に身を置き,自分の職責を何とか果たせたことを誇りに思っております。北大病院在職中に出会った諸先生方,諸先輩,同僚,後輩の方々,そして患者さんも含めて,優れた多くの方々に見守られ,助けられて成長できましたこと心から感謝し,今後はこの度の受章に恥じないように精進する所存です。最後になりましたが北大病院のますますのご発展をお祈りいたします。
功績等
木島博子氏は,昭和25年2月14日に北海道虻田郡狩太町(現ニセコ町)に生まれ,昭和46年3月に北海道伊達赤十字高等看護学校を卒業後,伊達赤十字病院・聖母会天使病院に勤務,同56年4月北海道大学医学部附属病院に文部技官として採用され,同60年同大学医学部附属病院副看護婦長,平成4年同大学医学部附属病院看護婦長を歴任し,同22年3月に同大学病院を定年退職するまで勤務されました。同人は,当初勤務した手術部における看護実践では,手術部の清浄度の維持,手洗い教育,手術機械の安全管理,清潔管理・体温管理・安全安楽な体位管理等手術看護の専門性確立に取り組まれました。日本初の清潔ホール型手術部創設の準備委員として管理運営に尽力し,さらに,高い実践能力を持ち看護学生の実習指導やスタッフ育成,業務改善等にリーダーシップを発揮されました。
看護婦長在職中は,文部省主催の「看護管理者講習会」及び日本看護協会認定看護管理者制度ファースト・セカンドレベル教育課程を受講し,看護管理者としての資質の向上に努めるとともに,チーム医療の推進と看護としての質向上に努められました。
同人は,本院における慢性疾患・糖尿病看護を発展させ,その成果を看護スタッフと共に日本糖尿病教育看護学会学術集会において「糖尿病患者退院後のフォローアップ体制について」等多数の発表を行い,患者のセルフケア能力の向上に貢献するとともに,北海道における質の高い糖尿病看護の発展に尽力されました。
臨床における質の高い看護ができる専門職業人の育成のための集合教育を担う看護部教育委員を3年間継続されました。その結果を,平成11年に「院内集合教育のグループ討議を効果的に運営するための助言者の役割」として発表し,看護師長の管理姿勢が集合教育と部署内教育の統合に大きく関与し,教育効果をあげていることを明らかにされました。
同人は,社会的活動も精力的に行い,北海道看護協会においては,平成16年から同22年まで教育委員及び委員長を歴任し,北海道看護協会の看護職の質向上を目指した継続教育に尽力されました。さらに,平成13年から同21年まで北海道糖尿病看護研究会世話人,平成16年からは北海道糖尿病療養支援研究会代表世話人等を歴任しており北海道の糖尿病看護をリードし,発展させました。
このように,看護婦長昇任以来,本院並びに北海道における看護の質保証,患者サービスの質向上,看護体制の整備及び後輩指導・育成に尽力した功績は誠に顕著であると認められます。
略 歴
生年月日 | 昭和25年2月14日 | |
昭和46年4月 | ![]() |
北海道伊達赤十字病院看護婦 |
昭和48年3月 | ||
昭和48年4月 | ![]() |
市立札幌病院看護婦 |
昭和49年12月 | ||
昭和51年4月 | ![]() |
聖母会天使病院主任看護婦 |
昭和54年8月 | ||
昭和55年6月 | ![]() |
札幌市かいせい内科医院看護婦 |
昭和56年3月 | ||
昭和56年4月 | 北海道大学医学部附属病院看護部看護婦 | |
昭和60年4月 | 北海道大学医学部附属病院看護部副看護婦長 | |
平成4年4月 | 北海道大学医学部附属病院看護部看護婦長 | |
平成15年10月 | 北海道大学医学部・歯学部附属病院看護部看護師長 | |
平成22年3月 | 北海道大学定年退職 |
(北海道大学病院)