新渡戸稲造は1881(明治14)年に札幌農学校第2期生として卒業し,1887−1898年には札幌農学校教員を務めました。その後,台湾総督府技師や京都・東京両帝国大学教授を歴任,1918(大正7)年には東京女子大学初代学長に就任します。
受贈した墨蹟の掛け軸は,その1918年の6月9日に新渡戸自身が自作の短歌を揮毫したものです。墨蹟は,以下のように読みます。
見ん人の 為
おの
稲造書
大正七年夏六月九日
才気に溢れていた新渡戸は,その才を様々な方面から求められ,常に注目を浴びる立場で活動を続けていました。自作の短歌は,そのような境遇の自身と引き比べ,奥山で人知れず咲く桜の花への憧憬を歌ったものと解釈できます。
一方,肖像画の掛け軸には,「文岳謹写」と署名があります。「文岳」という雅号を持つ作者が,晩年に近い時期の新渡戸の写真を模写した肖像画であると推測できます。
両掛け軸は,元々は伊藤つね氏(日本女子大学校国文学部2回生,1905年卒業,旧姓山内)の旧蔵物でした。墨蹟は伊藤氏が新渡戸から直接書いてもらい,肖像画は後年購入したものです。その後,寄贈者の五十嵐氏のご尊父である五十嵐
五十嵐彦仁氏(1900−1986年)は札幌に生まれ,1921(大正10)年に北海道帝国大学予科入学,1927(昭和2)年に北海道帝国大学農学部農芸化学科を卒業しました。北海道庁技手となり北海道水産試験場に勤務,北海道水産試験場函館支場長等を歴任しました。1947(昭和22)年には北海道大学で農学博士号を取得し,1952(昭和27)年にスルメイカ大量処理の研究と,常水及び廃水の研究で函館市文化賞を受賞しました。1967(昭和42)年には函館大学教授に就任し,主な著書に『汚水化学総論』上・下巻(内田老鶴圃新社,1971−1972年)があります。
ご尊父である彦仁氏の遺品として掛け軸を所蔵されて来られた晃彦氏は,新渡戸とご尊父に縁のある本学への寄贈をご高慮くださり,この度の資料寄贈式の実施に至りました。
今後,大学文書館では受贈した掛け軸を,歴史的資料として大切に保管し,展示等において多くの方にご紹介して参ります。