勲 章 | 経 歴 | 氏 名 |
瑞 宝 中 綬 章 | 名誉教授(工学部) | 石 川 達 雄 |
瑞 宝 中 綬 章 | 名誉教授(工学研究科) | 稲 垣 道 夫 |
瑞 宝 中 綬 章 | 名誉教授(言語文化部) | 田 中 利 光 |
瑞 宝 中 綬 章 | 名誉教授(言語文化部) | 仲 田 和 弘 |
瑞 宝 中 綬 章 | 名誉教授(水産科学研究院) | 山 内 晧 平 |
瑞 宝 中 綬 章 | 名誉教授(薬学研究科) | 鎌 滝 哲 也 |
瑞 宝 単 光 章 | 元 看護師長 | 吉 川 悦 子 |
各氏の受章にあたっての感想,功績等を紹介します。
(総務企画部広報課)

- 石川 達雄 (いしかわ たつお) 氏
感 想
替え唄ではありませんが,「経つ私は跡を残さず」でありました。しかし,最初で最後なのでと思いつつ,平成10年3月号につまらない乱文を残しました。でも,また,感想文をと云われ,恐縮そのものであります。さて,この度,多くの方々のご尽力により瑞宝中綬章の叙勲を戴きました。本来ならば,私が頂戴するよりも最も当然な方々がおられますし,祖父の功績などを思うと,とても資格などないので辞退すべきと考えていました。しかし,頂戴いたしました。大変嬉しく,有難いのであります。さらに,章と賞状は自宅まで持参いただくということで,関連の皆様にも厚く,深く感謝しております。
私の事でありますが,9年前の3月末にバスから地下鉄へ乗り換えの時,脳出血で倒れ,5日後に自分が判るようになりました。全く知らない方々のお陰であります。半身麻痺ですが,いつかのその時まで,なるべくお世話にならないように,またできる範囲で善いことをするように,との毎日です。
ところで,本学での日々を顧みたいと思います。まず一つ目は,北海道大学という美しく広大なキャンパスであります。何も言いませんが,自慢の場所でありました。近くの植物園でも芝生の中央付近で,学生友達とそれなりの議論をしていたことが思い出されます。最近のイチョウ並木ばかりではなく,ポプラ並木ばかりではなく,冬も春も夏もすべて,すばらしいのは,周知のところでありましょう。
二つ目は北大への入学以来,定年退官まで,さらに学内にある放送大学北海道学習センターでの70歳まで,20ヶ月の国外出張を含めて,限りなく楽しく過ごさせていただきました。その中で特に幸運だったのは,全く異なる二人の先生から,立派な遺産をいただくことができたことです。たとえば,言いたい内容のお話をしながら,長時間,参加している数人の対応で,慎重に判断する大先生と,主張はしないで,多くの異論を拝聴しつづけ,無くなった時に,初めて具体的な妙案を出す大先生とでありました。少しでも同じような進め方をやろうと思いながらも,実際は難しく,人々にうまく伝えることはできませんでした。でも,いまだに思っていることがあるのです。できるならば,「エンドレス駅伝で」。もらったタスキは,ともかく止めずに,正しく確実に次の人に伝えるのであります。北海道大学だけではなく,多くの人々についても,私の最後の小さい念願であります。
読んでくださり,ありがとうございました。
功績等
石川達雄氏は,昭和9年12月北海道斜里郡斜里村に生まれ,同37年3月北海道大学大学院工学研究科応用化学専攻博士課程を単位修得退学,直ちに北海道大学工学部助手に採用され,同年9月に工学博士の学位を取得後,同39年8月同助教授,同49年1月同教授に昇任されました。平成5年6月から同7年5月までは同評議員,同8年4月から同10年3月まではエネルギー先端工学研究センター長を務められ,同月停年により退官されたのち,同年4月に北海道大学名誉教授の称号を授与されています。同人は,36年余の長きに亘る北海道大学在職中,工学部においては,金属物理化学,金属表面化学など,大学院工学研究科においては,金属表面化学特論,電解製錬工学特論などを担当,学生の教育・研究指導に尽力され,多くの技術者と研究者の育成に努力されました。
同人の研究業績は専門分野である溶融塩化学及び腐食化学の分野で顕著に現れています。溶融塩化学の分野では,塩化アルミニウム含有溶融塩からのアルミニウム電解採取に関する研究において,大幅な省エネルギーが可能なバイポーラー電解槽を開発されました。この電解槽型式は,電流効率が向上する独創的なものとして,国内外で認められており,この他に,溶融塩の物性研究と電解槽内の電流の流れを解析する研究など,溶融塩電解工学の新しい分野を切り開かれました。
一方,腐食化学の研究分野では,ステンレス鋼の耐食性研究や淡水系における鉄鋼材料の腐食に関して先駆的な役割を果たされてきました。
これらの研究業績に対して,昭和38年4月に電気化学協会進歩賞,同63年2月に同協会溶融塩委員会溶融塩賞及び平成6年2月に表面技術協会論文賞を受賞されています。
学内では,工学部評議員,エネルギー先端工学研究センター長を歴任され,入学者選抜制度調査委員などを務められ,北海道大学の運営に貢献されました。
学外においては,日本金属学会理事及び同北海道支部長や電気化学協会(現 電気化学会)理事及び北海道支部長などを務められたほか,宇宙開発事業団(現 宇宙航空研究開発機構)スペースシャトル利用委員会専門委員,財団法人道央テクノポリス開発機構(現 公益財団法人道央産業振興財団)などの理事を歴任されるなど,多岐にわたるフィールドの学識経験者として産業技術・地域振興の一翼を担われました。
以上のように,学生の教育,学術研究の発展,北海道大学の運営・発展並びに地域社会,産業界に対する同人の貢献は極めて大なるものであります。
略 歴
生年月日 | 昭和9年12月19日 | |
昭和37年4月 | 北海道大学工学部助手 | |
昭和39年8月 | 北海道大学工学部助教授 | |
昭和49年1月 | 北海道大学工学部教授 | |
平成5年6月 | ![]() |
北海道大学評議員 |
平成7年5月 | ||
平成8年4月 | ![]() |
北海道大学エネルギー先端工学研究センター長 |
平成10年3月 | ||
平成9年4月 | 北海道大学大学院工学研究科教授 | |
平成10年3月 | 北海道大学停年退職 | |
平成10年4月 | 北海道大学名誉教授 |
(工学院・工学研究院・工学部)

- 稲垣 道夫 (いながき みちお) 氏
感 想
このたび瑞宝中綬章を戴くことになりました。昭和33年に名古屋大学を卒業し,大学院に進学して以来,名古屋大学,豊橋技術科学大学,北海道大学そして愛知工業大学に在職しながら,炭素材料を中心として研究を続けてきました。その間,日本学術振興会第117委員会(炭素材料),炭素材料学会,そしてJournal CARBONを中心に,研究成果を発表してきました。さらに退職後も,インターネットを通して北海道大学附属図書館を利用して,炭素材料に関するいくつかの本の出版,さらに炭素材料のいろいろな面に注目した総説を出版することができました。55年以上にわたり炭素材料に関わってきたことになります。名古屋大学大学院及びその後名古屋大学に在職中には,野田稲吉先生のご指導を,またアメリカ留学中はProf. S. Mrozowski,フランス留学中さらにその後の研究ではMme. A. Oberlinから多くのご教示を得ることができましたことは,大きな幸運に恵まれたものだと思っております。また,国内の多くの研究者と共同研究を行うことができ,さらにフランス,ポーランド,中国など国外でも多くの共同研究者に恵まれましたこと,さらに在職した4つの大学で一緒に研究してくれた多くの優秀な学生諸君にも恵まれました。また,4つの大学を変わるという,あまり普通にはない状態を,私の家族,特に妻が裏で支えてくれました。現在の私があるのは,そして瑞宝中綬章を戴くことができたのも,ひとえに尊敬する先生方のお導きと,多くの共同研究者,学生諸君そして家族の支えによるものと深く感謝しております。炭素材料は,炭素繊維,カーボンナノチューブ,フラーレンそしてグラフェンと,それぞれの時代に大きな注目を集めてきました。それらの注目された炭素材料を研究の対象とすることなく,古くからの炭素材料の基礎的な面を研究の中心に置いてきた私が今回受章することができたことは,私が今まで炭素材料科学に抱いてきた視点が認められたものと考えるのは,私の勝手な思い込みでしょうか。これからも,炭素材料を中心として,材料科学の進歩に関わっていければと思っております。
功績等
稲垣道夫氏は,昭和10年10月4日に愛知県に生まれ,同38年4月名古屋大学大学院博士課程を修了し,同年同月名古屋大学工学部助手に採用,同工学部附属人工結晶研究施設講師,同助教授を歴任され,その後,同53年4月豊橋技術科学大学工学部教授に昇任,平成2年4月には北海道大学工学部教授に着任され,同11年3月に停年により退官されました。平成11年4月には北海道大学名誉教授の称号を授与されています。また,平成11年4月愛知工業大学大学院工学研究科教授に採用され,同18年3月に定年を迎えられたのち,特任教授として同20年3月まで勤務されました。
昭和38年以降,名古屋大学,豊橋技術科学大学,北海道大学,愛知工業大学在職中は,無機工業化学,無機材料化学,固体化学に関連する講義,演習を担当されるとともに,学部生及び大学院生の研究指導に当たり,多くの技術者,研究者の育成に努められました。
これら大学に在職中は,一貫して炭素及びセラミックス材料の構造・組織の観点から研究に取り組み,同氏の業績は炭素材料について,1)そのナノ組織を分類し,その重要性を指摘したこと,2)炭素の生成過程(炭素化)及びそれらの高温処理による構造の成長機構(黒鉛化)の解明に寄与したこと,3)炭素材料の構造・組織の制御による新しい機能性の発現を具体的実験結果として提示したこと,4)インターカレーションの新しい手法の開発に寄与する多くの実験を行ったこと,に要約され,炭素材料の正しい理解と新しいプロセスそして材料の開発に貢献されました。これらの研究成果は多くの論文として国際学術誌に発表されており,アメリカ・カーボン学会からSGL賞(平成16年)を授与されたことをはじめ,国内の学会等からも数々の賞を授与されています。
また,学外においては文部省学術審議会科学研究費分科会専門委員などを歴任し,我が国の教育・科学技術行政にも寄与されるとともに,炭素材料学会会長としてアジア地区各国の炭素学会の連合体(アジア炭素材料連合,Asian Association of Carbon Groups)を組織し,初代会長を務められるなど,我が国の学術研究の発展に尽くされました。この功績に対しては,平成23年に国際カーボン連合(The International Carbon Community)から,ピーター・A・スローアー賞(The Peter A. Thrower Award)を授与されています。
以上のように同氏は,大学における教育・研究への貢献のみならず,炭素材料分野における学術研究の発展と同分野の研究者の育成に尽くされており,その功績は誠に顕著であります。
略 歴
生年月日 | 昭和10年10月4日 | |
昭和38年4月 | 名古屋大学工学部助手 | |
昭和39年4月 | 名古屋大学工学部附属人工結晶研究施設講師 | |
昭和43年6月 | 名古屋大学工学部附属人工結晶研究施設助教授 | |
昭和53年4月 | 豊橋技術科学大学工学部教授 | |
平成2年4月 | 北海道大学工学部教授 | |
平成9年4月 | 北海道大学大学院工学研究科教授 | |
平成11年3月 | 北海道大学停年退職 | |
平成11年4月 | 北海道大学名誉教授 | |
平成11年4月 | 愛知工業大学教授 | |
平成18年4月 | ![]() |
愛知工業大学特任教授 |
平成20年3月 |
(工学院・工学研究院・工学部)

- 田中 利光 (たなか としみつ) 氏
感 想
この度は叙勲に与かり,嬉しく,また恐縮に存じております。ご配慮くださった方々に深くお礼申し上げます。ありがとうございました。私が,北海道大学文学部に赴任したのは,1965年4月のことでした。東京大学文学部言語学科の高津春繁先生,服部四郎先生のご推挙をいただき,北海道大学文学部言語学科の池上二良先生のお招きによるものでした。
担当は,全学教養部学生対象のラテン語,ギリシャ語,文学部学生対象のラテン語でした。前任者は池田英三先生でした(1957年4月1日〜1964年11月3日。1958年まではラテン語が開設されていたが,同年,古典語としてラテン語・ギリシャ語が併設されることになったと伝えられています)。このように,教養部課程の科目としての古典語に専任のポストがあるということは,北大のユニークなところなのではないかと思います。
ギリシャ語とラテン語という名前はよく知られているだけでなく,私たちの暮らしの中でなにげなく触れているというほどの身近な言葉だと言えるでしょう。それに比べて,34年間,初歩ですが,ギリシャ語とラテン語を教育してきたというのは日本では大変珍しいということになるでしょう。
私にはなかなかの「悪戦苦闘」でした。その経験を勘案して,それぞれの入門書『ラテン語初歩』(1990,改訂版2002),『新ギリシャ語入門』(1994)を出版しました。また,古典語のほかに,一般教育演習「プラトンを読む」として,『ゴルギアス』『テアイテトス』『国家』などを取り上げて読み方の訓練をしました。
一方,文学部言語学科の「言語比較方法」を担当しました。これは,ソシュールの「一般言語学講義」などに到る言語学形成の歴史を辿ることによって,言語学の基礎を教えるものだったと言えるでしょう。そこで例えば,ウィリアム・ジョーンズがインド・ヨーロッパ語族という存在をはっきりさせたことが,普通「言語学の本当の始まり」とされていますが,その認識の内実はどのようなものであったかを検討しました。ジョーンズは1783年4月にベンガル州判事としてインドに向け出発,翌年「アジア学会」を創設,1794年まで毎年創設記念講演を(計11回)行いました。第三年次の講演の中に問題の発言はあるのですが,その講演だけでなく,11回の講演全体にわたってジョーンズの興味ある知見を明らかにしました(「ウィリアム・ジョーンズと印欧語族の認識」『言語研究』93号1988年3月)。
札幌での暮らしをことのほか喜び,私の健康のため尽くしてくれた妻に対して,改めて感謝の想いを深くしております。
功績等
田中利光氏は,昭和10年6月8日,東京都に生まれ,同33年3月東京大学文学部を卒業し,国際基督教大学助手,北海道大学講師,助教授を経て同56年10月に北海道大学教授に就任され,平成11年3月に停年にて退職されるまで,古典語の教育・研究に努められ,同年4月に北海道大学名誉教授になられました。同氏の古典語教育は,19世紀に発達した歴史言語学,20世紀前半に発達した構造言語学についての学識に基づく手堅いものでありました。30年余の教育経験を生かして,ラテン語とギリシャ語のそれぞれについて入門書を執筆されていますが,平明で無駄のない記述に示されているといえます。
昭和54年からは,一般教育演習「プラトンを読む」をはじめ,プラトンの代表的な作品を素材に,できるだけ正確に読み,理解したところを平易に表現するという訓練を行い,良い効果を上げました。
同氏の研究分野はギリシャ語学,一般言語学,言語学史の3つに大別されます。ギリシャ語学については,音韻史,形態論,文論など広い範囲に関わる個別専門的な問題を取り扱い,我が国では珍しい方面の研究に貢献されました。例えば古代ギリシャ語のラコニア方言では他の方言が文字テータで記している所をシグマの文字で記しています。この事実からラコニア方言の音韻の歴史を推定され,ボイオテイア方言のeiで終わる奇妙な人名の形の由来,難解として有名なマルコ伝4章10−13の意味を,その個所にあるhinaを,使徒行伝27章42節のhinaの用法と同じであるという観察から理解する,など注目すべき見解を提示しました。
また同氏は,言語比較方法,言語学演習などの教育上の必要から,言語学の基礎的・一般的な諸問題,すなわち形態素分析,ソシュールと変形文法の関係,言語学的意味論,音韻変化などに関して取り扱われました。音韻変化について言えば,自発変化と結合変化,無条件変化と条件変化の分類法がすでに唱えられ,区別があるにも関わらず,広く標準的な文献でも混同して用いられていること,また後者の分類法は適切でないことを指摘されました。なお自発変化はその名の通り,原因は不明であるとされていましたが,これを通時音韻理論からその原因を説明する試みがなされるようになり,イオニア・アッティカ方言の重要な母音変化についてもいくつかその試みがありますが,同氏はそれら先行研究を厳しく論評して,独自の見解を打ち出されています。
更に同氏は言語学の色々な考え方を教育する上で,どのようにしてそのような考え方が生まれるようになったのかその歴史を説明する必要を感じるようになったところから,言語学史の研究も行うようになりました。手始めにジョーンズ,シュレーゲルに関して通説化している内容を,第一次資料に基づいて,再検討して新しい知見を提起されました。また更に近現代の言語学史を超えて,西欧言語学史の先頭に位置するプラトンの作品で,今もってその意図がわからないとされる『クラテュロス』の解釈に3編の論文で挑戦されました。第1編は日本西洋古典学会で報告され,ユニークな解釈として,一定の評価を得ました。他の2編も,この作品解釈の上で無視しがたい論点を含んでいると考えられます。
同氏には翻訳の業績もあり,あまりにも有名なホメロスの『イリアス』の第1巻と最終巻(第24巻)です。テキストをなるべく忠実に,素朴にたどろうとしている感じのナイーブな調子の散文訳ですが,平明で格調があると評する専門家もいると聞きます。
以上のように,同氏は,古典語教育及びそれに関連しての言語学研究に尽くされたものであり,その功績は誠に顕著であります。
略 歴
生年月日 | 昭和10年6月8日 | |
昭和39年4月 | 国際基督教大学語学科助手 | |
昭和40年4月 | 北海道大学文学部講師 | |
昭和45年11月 | 北海道大学文学部助教授 | |
昭和56年10月 | 北海道大学言語文化部教授 | |
平成11年3月 | 北海道大学停年退職 | |
平成11年4月 | 北海道大学名誉教授 |
(国際広報メディア・観光学院,メディア・コミュニケーション研究院)

- 仲田 和弘 (なかた かずひろ) 氏
感 想
この度は身に余る叙勲の栄誉に預かり,感激に身が震える心地です。私は生来,性愚鈍,その上浅学非才であり,到底その資格はないものと思っておりました。それにも関わらず,推薦の労をとってくだされた北大,煩雑な手続きを行ってくださった事務方,並びに種々バックアップを惜しまなかった古巣のかつての同僚諸氏に心から感謝いたします。昭和37年東北大学大学院文学研究科の修士課程を修了し,日本大学に3年,愛媛大学に6年半勤務した後,昭和46年10月に北海道大学に着任しました。そして平成11年3月に停年退職するまで27年余,一貫して教養課程の学生にドイツ語を教えてきました。なかなか取っ付き難いドイツ語の初歩の峠を,学生達にスムーズに通過してもらうために,自分なりの創意工夫をこらし,できうる限りの努力を尽くしてきたつもりです。しかし,外面的な諸般の事情と自分の非力のため,期待していた程の成果を最後まで上げることが出来ず,本当に残念であります。
17世紀のドイツ文学にあって,唯一現在も生命を保っているグリンメルスハウゼンという作家の研究をずっと続けてきました。この作家の前半生は丁度三十年戦争の真っただ中にあたります。ドイツ全土が戦場となり,全人口の3分の1が失われ,国土は荒廃を極めました。このような状況下のため,彼の生涯の大部分は不明です。日記も書簡も肖像画1枚すらも残っていません。彼に関する資料も少なく,彼と私たちをつなぐ唯一のものは,残された彼の膨大な作品群しかありません。グリンメルスハウゼンの全体像を解明するためには,彼の作品の中から彼の痕跡を丁寧に探し出し,それらを統合して新たに彼の全体像を,少しずつ構築して行く以外に方法はありません。1つ1つ作品を正確に読み解き,作品論を書き上げます。全ての作品の作品論を完成させることで,自ずからグリンメルスハウゼンの全体像が明らかになり,ひいては彼の作家論が出来上がるはずです。このような遠大な計画を立て実行に取り掛かり,この作業を大学院時代からずっと続けてきました。彼が使用しているドイツ語は,初期新高ドイツ語といわれるもので,ドイツ語学会で一番研究が遅れている分野でした。ドイツ本国にも初期新高ドイツ語の完全な辞書はありませんでした(近年やっと完璧な大辞典が完成したようです)。私が研究を行っていた頃は,実際に役に立つ実践的な辞書は皆無でした。仕方なく自分で1つ1つ語彙を蒐集して,帰納的にその用例を確定し,自分専用の単語集を作らなければなりませんでした。作品の解読には必然的に膨大な時間が必要でした。絶対的な時間不足と自分自身の非力のために,彼の全作品を解読し,作品論を残らず完成させることは出来ませんでした。そのため残念ながら,グリンメルスハウゼンの全体像を完全に解明するまでには至っていません。研究はいまだ途上にあり,未完成のままです。本当に悔い多い人生で,忸怩たるものがあります。
功績等
仲田和弘氏は,昭和10年12月15日に東京都品川区に生まれ,同34年3月愛媛大学文理学部を卒業し,同37年3月東北大学大学院文学研究科修士課程を修了されました。昭和37年4月に日本大学第二工学部講師に就任したのち,同40年4月に愛媛大学文理学部講師に転任,その後助教授に昇進されました。さらに昭和46年10月に北海道大学文学部助教授に転任し,同言語文化部助教授を経て,同56年10月に北海道大学教授に昇進されました。平成11年3月をもって停年退職されるまで一貫してドイツ文学の研究とドイツ語の教育に努め,同12年4月に北海道大学名誉教授になられました。同氏の主たる研究対象は17世紀のドイツを代表する作家ハンス・ヤーコプ・クリストッフェル・フォン・グリンメルスハウゼン(1622年頃−1676年)です。この詩人は当時のドイツを荒廃させた三十年戦争の渦中にあって,自ら兵士かつ連隊付きの書記としてこの戦争に従軍していますが,肖像画も自筆書類もなく,かなり後の時代まで実名も不明でした。仲田氏は日本における数少ないグリンメルスハウゼン研究家として,この謎に満ちた作家と作品の研究に取り組み,人物像や諸作品の構造に独自の光を当てて次々と新たな知見をもたらされました。同氏はいわばグリンメルスハウゼン研究のパイオニアであり,その研究成果は後に続く研究者にも多大な影響を及ぼしています。
グリンメルスハウゼンについては,日本でも仲田氏の研究以前に翻訳(望月市恵訳『阿呆物語』岩波書店1953/54年等)が存在していました。しかし,それにも関わらず研究が進まなかった理由は,17世紀のドイツ語で書かれているため本格的な解読が容易ではなかったこと,及び作品内に織り込まれた当時の実社会,とりわけ三十年戦争後のドイツの荒廃した状況の歴史的把握が極めて難しかったことにあります。仲田氏は1962年に書かれた最初の論文からこの困難な作家と作品に取り組み,本文の詳細かつ精緻な解読を進める一方,そこに描かれた様々な事象を綿密に考証する作業を一貫して進められました。
仲田氏が研究を始めた当時は,いわゆる作者論や作品の美的価値を論ずるのが文学研究の一般的傾向でした。17世紀のドイツを代表する作品と言われながら,日本での研究が遅れた背景には,グリンメルスハウゼンの作品に先行する文芸作品や潮流に依拠した表現が頻出することから,いわゆるエピゴーネン(亜流)とみなす者が少なくなかったという事情もあります。しかし仲田氏はそうした状況にも関わらず,独自の判断と信念でこの難物と思われた作家を生涯の研究対象とされました。ここに仲田氏の先見の明があるといっても過言ではありません。
特筆すべきは仲田氏の研究姿勢です。同氏は,今日なら当然とされる実証的研究(客観的データを積み上げて証明する方法)に真摯に取り組まれ,数々の成果を上げられました。文学研究がしばしば文芸評論と同列とみなされていた時代にあっては,作品の優劣を主観的に論じる風潮さえありました。時代背景も文化的背景も大きく異なる作品を日本で研究する場合,仲田氏が用いた研究法こそが研究者のとるべき道であることは,今日なら誰でも納得するでしょう。同氏の功績では,数々の個別的実証例と並んで,研究のあり方を後の世代に伝えたことがまず大きいと言えます。
さらに個別的貢献にも数々の重要な知見があります。グリンメルスハウゼンは,上述のように様々な作品から影響を受けていますが,決してそれらをそのまま取り入れたのではありません。幼時に拘束されて戦争に従軍することを余儀なくされた者であるがゆえの独自性が,作品の表現と構造やそれらの背後にある考え方に見られることを丹念に証明したことは,極めて大きな貢献と認められ,また今日なお評価されています。
一方ドイツ語教育においては,昭和37年4月以降,約37年の長きにわたって日本大学・愛媛大学・北海道大学に奉職され,人材の育成とドイツ語及びドイツ語圏の文化に関する知識の普及に尽力されました。特に北海道大学では約28年勤務する間,その誠実な人柄と強い責任感でドイツ語教育の普及と改善に大きな貢献をされました。一例として,学習者が習得すべき基礎語彙など文法項目の策定に尽力されました。研究や教育の他も学内外で数々の公職を誠実に行われました。
以上のように,仲田氏はドイツ文学研究とドイツ語教育に極めて大きな貢献をしたものであり,その功績は誠に顕著であります。
略 歴
生年月日 | 昭和10年12月15日 | |
昭和37年4月 | 日本大学講師 | |
昭和40年4月 | 愛媛大学文理学部講師 | |
昭和43年4月 | 愛媛大学教養部助教授 | |
昭和46年10月 | 北海道大学文学部助教授 | |
昭和56年4月 | 北海道大学言語文化部助教授 | |
昭和56年10月 | 北海道大学言語文化部教授 | |
平成11年3月 | 北海道大学停年退職 | |
平成12年4月 | 北海道大学名誉教授 |
(国際広報メディア・観光学院,メディア・コミュニケーション研究院)

- 山内 晧平 (やまうち こうへい) 氏
感 想
このたび,叙勲の栄に浴しましたことは誠に光栄に存じます。叙勲に際し,ご高配を賜りました皆様方に厚く御礼を申し上げます。また,学部・大学院時代を通じてご指導をいただきました恩師,故山本喜一郎先生をはじめ,高橋裕哉先生,高野和則先生には心から感謝申し上げます。私が専攻した水産学の中の水産増殖学という分野は,私達の生活に有用な水産生物の資源を持続的に維持・利用する研究分野の総称です。その中で私は有用魚類の生殖生理学に関する研究を行ってきました。一般に生物は成長後,成熟の過程を経て産卵・受精をして子孫を残します。このような自然界で起きる生殖現象を人工飼育下で誘起して孵化稚魚を得,放流して増殖したり,稚魚をマーケットサイズまで養殖したりするのですが,有用魚種の中には人工飼育下では成熟しない魚種も出てきます。その典型がニホンウナギですが,有用魚種の成熟のメカニズムの解明は学問的に興味があるだけでなく,養殖産業上も喫緊の課題でした。その頃はその解決に必要な生殖生理学のデータが少なく,基礎研究が不可欠でした。
私が研究室に入った時期は,山本先生がそれまで行われていた研究に基礎研究を導入して先駆的に性分化や生殖腺成熟の機構を内分泌学的に解析し始めた頃でした。各院生は生殖現象に関与する内分泌器官を各々受け持って精力的に研究をしていました。研究室は活気に満ちていて,皆,一日の殆どを研究室で過ごしていました。私は,修士課程でサケやメダカの未成熟卵を生体外で成熟させる研究を行いましたが,博士課程に入ると山本先生からニホンウナギの人為催熟に関する研究を勧められました。幸いなことに,博士課程の2年生の冬に世界で初めてウナギの成熟卵を得て,卵や孵化稚魚の発生を観察できました。この成果はそれまでに研究室に蓄積された基礎研究のバックグラウンドがあったから得られたのだと思います。北海道大学に奉職後もウナギの成熟機構の解明が研究の柱でした。
このようなニホンウナギの成熟機構に関する研究の他に,サケの銀化,母川記銘,降海行動などについても研究を行いました。それはサケのそれらの現象についても成熟機構に関与するホルモンが役割を果たしているからです。もう30年以上も前になりますが,アラスカ湾からCopper Riverに回帰し,遡上するベニザケを産卵場まで追いかけて資料を採取した光景が今でも思い出されます。
北海道大学退官後は,愛媛大学が地域貢献型のセンターとして海面養殖日本一の愛南町に設立した南予水産研究センターに勤務して,地域水産業振興のために活動しています。
大学は新しい概念を導き出したり,新しい分野を切り拓いていく役割を担っています。世界で最初に水産学を開講した札幌農学校の遺伝子を受け継いだ北海道大学に学び,新しい水産学を模索しながら教育研究に携わってこれたことを誇りに思います。愛する北海道大学がこれまでにも増してグローバルに社会貢献し続けていかれることを祈念して止みません。
功績等
山内晧平氏は永年にわたって,水産学の教育,研究に努められ,特に水産増養殖のための基礎研究を行い,それらの知見をもとに魚類の人工採苗法の確立に大いに貢献されました。またこれらの研究を通して,これまで多くの学士,修士及び博士等若手育成に努められ,水産学分野の進展に寄与されました。これまで同氏は水産資源上重要な魚種で,人工飼育環境下で成熟を制御することが困難な魚種の資源維持や資源増大を目指して,その基礎となる魚類の配偶子形成(卵形成及び精子形成)の解析に努められ,得られた成果を人工採苗法の確立に応用されました。特にウナギの研究においては,世界で初めて人為催熟したウナギより孵化稚魚を得て以来,それらの配偶子形成機構の解析を行い,多くの新知見を見出して人工採苗法の開発に貢献されました。
また,ウナギの配偶子形成機構に関する研究成果を他魚種にも応用し,水産重要種であるマツカワガレイ等の性分化機構を明らかにすることにより,その種苗生産技術の確立,また,キャビアとして重宝される卵を有するチョウザメの人工採苗法の確立に寄与されました。さらに,サケマス類の回遊機構の解明による孵化・放流事業への応用等,水産増養殖分野の発展に貢献されました。
地域社会活動としては,北海道大学在職中には,農林水産技術会議専門委員,大学評価・学位授与機構学位審査会専門委員,水産庁水産政策審議会委員,北海道水産業漁村振興審議会委員,海洋科学創世研究会顧問,日本学術振興会21世紀COEプログラム委員会分野別審査・評価部会専門委員及び独立行政法人水産総合研究センター機関評価会議外部委員等を,愛媛大学転任後は公益社団法人全日本地域研究交流協会評議員,岩手大学三陸復興推進機構客員教授を歴任され,水産学分野の振興と発展に大いに寄与されました。
これらの業績に対して,これまで日本水産学会進歩賞,日本動物学会論文賞,日本農学賞及び読売農学賞をそれぞれ受賞されています。これらの功績に対して,平成15年11月紫綬褒章を賜る栄誉に浴しています。その後も秋山財団賞,日本水産学会功績賞,日本水産増殖学会賞をそれぞれ受賞されています。
以上のように同氏は現在までの長きにわたり,北海道大学及び愛媛大学の教育研究はもとより,学界における学術の進展並びに地域産業の発展,振興に多大なる貢献を行っており,その功績は誠に顕著です。
略 歴
生年月日 | 昭和17年9月4日 | |
昭和51年8月 | 北海道大学水産学部助手 | |
平成元年4月 | 北海道大学水産学部助教授 | |
平成6年4月 | 北海道大学水産学部教授 | |
平成7年4月 | ![]() |
北海道大学水産学部長・評議員 |
平成11年3月 | ||
平成11年4月 | ![]() |
北海道大学評議員 |
平成14年3月 | ||
平成14年4月 | ![]() |
北海道大学大学院水産科学研究科長 |
平成18年3月 | ||
平成17年5月 | ![]() |
北海道大学副理事 |
平成18年3月 | ||
平成18年3月 | 北海道大学停年退職 | |
平成20年4月 | 愛媛大学南予水産研究センター長 | |
平成21年4月 | 愛媛大学社会連携推進機構教授 |
(水産科学院・水産科学研究院・水産学部)

- 鎌滝 哲也 (かまたき てつや) 氏
感 想
この度,秋の瑞宝中綬章を受章いたしました。これは私にとっては望外な喜びでした。我々の研究が瑞宝中綬章の受章の対象になるなどとは考えたこともありませんでした。この受章は北大での研究成果が評価されたことであり,日夜研究を共にした助教授以下の職員,大学院生,研究生,秘書さんたち,それに様々な場面で縁の下の力持ちになってくれた事務職員の皆様のお陰だと思っております。皆様と受章の喜びを共有したいと思います。私は昭和60年秋まで慶応義塾大学医学部薬理学教室の助教授でした。医学部におりましたから,北大薬学部で薬品分析化学教室の教授を公募していることなどつゆ知りませんでした。北大では,選考の過程で薬品分析化学の研究室をどのような分野の研究を担う研究室にするか,薬学部の将来展望を含めて議論されたようです。その結果,薬物代謝が適当であろうということになり,北大の内部推薦で私の名前が挙がっていたようで,最終的に私が選考に残ったと聞いております。北大に着任してからは,前任の木村道也先生の築かれた研究室の良いところを残し,さらに発展するための方策を考えました。幸いにも,当時残っていた助教授以下の職員が快く新しい研究室の建設に協力してくれました。これを第一歩として,次々と登場してくれた職員が更に飛躍への道を切り拓いてくれました。また,新しく研究室のメンバーとして加わってくれた学生や研究生の人々は日夜を問わず研究に没頭してくれました。当時の研究室は夜遅くまで電灯がともり,まさに不夜城であったと思います。
このような研究室の雰囲気は助教授以下の職員が牽引し,学生や研究生達が作り上げたもので,私が作ったものではありません。彼らの努力の結果として,研究成果は徐々に積み重なり,気がついてみるとヒトの医療に役立つ大きな研究成果となっておりました。私の役割は皆さんの「舵取り」と「研究費稼ぎ」だけだったように思います。
私たちの研究室では,発がんのメカニズムや発がんの個体差,さらに薬の効き目の個体差の研究を中心に展開いたしましたが,中には一所懸命にやってもうまく成果が挙がらなかった研究,成果は挙がったものの世の中ではあまり目立たずに終わってしまったものなどがあります。目立った研究を行った学生は嬉しいでしょうが,目立たないまま論文だけは発表したというような研究を手がけた学生は可哀想に思います。しかし,研究室の研究のレベルアップに貢献したことは確かですから,やはり研究室では貢献者と言えるでしょう。
私を中心としたグループで一人前の研究が出来たのは,私自身が恩師に恵まれ,恩師から受けた教育を次の世代に申し送りしたのも一因かもしれません。
私たちが受けた勲章は他の研究室の皆様,特に若手に希望を与えるのではないかと期待しております。今後,北大の,特に若手の研究者が目標を高く持ち,北大が更なる飛躍を遂げられることを祈ってやみません。
功績等
鎌滝哲也氏は,永年にわたって,毒性学,薬物代謝学の教育・研究に努められました。ラットの肝ミクロゾームのチトクロームP450を世界に先駆けて精製純化することに成功し,これを用いて農薬パラチオンの代謝とそれに伴うS(イオウ)原子のチトクロームP450への共有結合を証明する等,特に,肝薬物代謝研究において一酸素添加酵素であるチトクロームP450の薬学的・毒性学的研究を進め,数多くの優れた業績を上げられました。全世界約8,500種の学術雑誌に掲載された論文の引用文献を検索している米国の調査会社ISIによって,同氏は被引用文献数の高い研究者(highly cited scientists,全体の0.5%以下)の一人とされており,同氏の研究の質,アクティビティーが際立っていることを物語っています。
以上の研究業績に対して,日本薬学会奨励賞,宮田専治学術賞,日本環境変異原学会奨励賞,望月喜多司記念業績賞,日本毒科学会田邊賞,日本薬物動態学会学会賞,日本薬学会賞,ISSX Scientific Achievement Award 2003 Asian Pacific Region,日本環境変異原学会学会賞,高松宮妃癌研究基金学術賞,紫綬褒章が授与されました。
また,学界においては,10誌以上の国内外の学術誌のeditorial boardを務められ,薬物代謝の研究分野で最も権威のある“Intern. Symp. on Microsomes and Drug Oxidations”,日米合同の薬物動態学会を組織委員長(日本側代表)として開催するなど,多大な貢献をされました。さらに,国外においては,国際薬物動態学会理事,国内においては,日本薬物動態学会会長,副会長及び理事,日本トキシコロジー学会理事,日本環境変異原学会理事,日本分析化学会北海道支部長など多数の学会の役員を歴任されました。学外においては,厚生省中央薬事審議会臨時委員,文部省・文部科学省大学設置・学校法人審議会専門委員,厚生省薬剤師試験委員,日本学術会議・生物系薬学研究連絡委員会委員及びトキシコロジー研究連絡委員会委員などを務められ,研究分野における代表として行政に貢献されました。
近年は,6年制教育と改組された薬学部学生のための毒性学,薬物代謝学の平易な教科書や新たな薬学部の実態について,進学を希望する高校生や保護者向けに優しく解説する書籍の発行などを通し,教育面においても専門家の立場から尽力されました。
以上のように,同氏は我が国における毒性学,薬物代謝学の領域の指導者として数多くの業績を上げ,多数の人材を育成し,我が国の学術の進歩と産業の発展に貢献された功績は極めて顕著であります。
略 歴
生年月日 | 昭和17年10月6日 | |
昭和42年4月 | 千葉大学薬学部副手 | |
昭和42年6月 | 千葉大学薬学部教務員 | |
昭和44年4月 | 千葉大学薬学部助手 | |
昭和48年4月 | ![]() |
米国バンダービルト大学医学部客員研究員 |
昭和50年12月 | ||
昭和52年8月 | 慶應義塾大学医学部専任講師 | |
昭和57年4月 | 慶應義塾大学医学部助教授 | |
昭和60年10月 | 北海道大学薬学部教授 | |
平成18年3月 | 北海道大学停年退職 | |
平成18年4月 | 北海道大学名誉教授 | |
平成18年4月 | 高崎健康福祉大学薬学部教授 | |
平成19年3月 | 高崎健康福祉大学退職 |
(薬学研究院・薬学部)

- 吉川 悦子 (よしかわ えつこ) 氏
感 想
この度,平成27年秋の叙勲において瑞宝単光章を賜りましたことは,身に余る光栄でございます。これはひとえに多くの皆様のご指導,ご尽力の賜物と心から感謝し,お礼申し上げます。私は,昭和49年北海道大学医学部附属病院に就職し,平成25年3月の定年退職まで39年間勤務させていただきました。振り返ってみますと,当時は基準看護導入の混乱期で騒然としておりました。配属された第一外科は看護師半数が交替し,新スタッフの殆どが新人で,緊張と不安はありましたが活気と連帯感がある環境でした。中心静脈栄養の開始時期で,病棟内で濾紙を組み込んだ輸液ルートの作製や,また固定が難しい金属針の留置や糖濃度均一のためのボトル連結によって行動制限が生じた患者さんへのケア等,方法・用具・治療環境に検討を要することが多くありました。輸液ルート交換のたびに細菌検査を行い,長さ・材質・安全性等,試行錯誤を繰り返しました。患者さんの意見をもらいながら,フィルター付き輸液ルート・一包化の高カロリー輸液用バック・補液スタンドの改良等医療用具は進歩し,患者さんは少しずつではありますがその人らしい生活を過ごせるようになりました。患者さんの生活の質を大切に,安全安楽な治療環境を整える取り組みは貴重な体験で,その後の私の看護実践やチーム育成の重要な視点となりました。
あっという間の年月でしたが,病院移転,組織の変化,医療制度変遷に伴う課題への取り組み,看護業務の電子化,災害支援等,その時々のうねりにのみこまれそうになりながらも何とか大過なく職務を全うすることが出来ました。在職中に出会った多くの患者さんとの関わり,優れた先輩・同僚・後輩の皆様,医療チームとして協働し支援していただいた多職種の皆様へ心から感謝申し上げます。今後はこの度の受章に恥じないよう過ごしてまいりたいと思います。
最後になりましたが,北海道大学,北海道大学病院,看護部の発展をご祈念申し上げ,お礼の言葉といたします。
功績等
吉川悦子氏は,昭和27年6月29日に北海道虻田郡真狩村に生まれ,同49年3月に国立北海道第二療養所附属高等看護学院を卒業後,同年4月北海道大学医学部附属病院に就職,同60年副看護婦長,平成10年看護婦長を歴任し,同25年3月に北海道大学病院を定年にて退職するまで勤務されました。同人は当初勤務した第一外科・第一内科病棟では,手術を受ける患者の安全・安楽はもとより,常に患者の生活に視点を置いた看護実践を行い,周手術期看護の質向上に努められました。また,看護学生の実習指導係として指導に当たり,学生や後輩スタッフにとってあこがれの看護師像として慕われていました。
副看護婦長時代は,第一外科病棟においてストーマ造設患者の補助装具の工夫や患者の苦痛の緩和,生活上の工夫をスタッフと共に取り組まれました。その先駆的な取り組みを北海道ストーマリハビリテーション学会で4年間にわたり毎年報告し,北海道内におけるストーマケアの普及に貢献されました。婦人科病棟においては,周手術期の看護や化学療法患者の看護,終末期ケアに取り組まれました。
婦人科病棟の看護婦長に昇任した後は,日本看護協会認定看護管理者制度セカンドレベル教育課程を受講し看護管理者としての資質の向上に努められ,その後整形外科・スポーツ医学診療科病棟,放射線診断科・放射線治療科・核医学・歯科病棟の看護師長を歴任されました。
臨床における質の高い看護ができる専門職業人を育成するため,看護記録の質の維持・向上にも取り組まれ,看護部記録検討委員会を4年間,継続教育を担う看護部教育委員を4年間継続されました。
また,患者・家族の意思を看護計画に反映させる「患者参加型看護」という新しい視点に立ち,日本看護学会(看護管理)における2度の学会発表やスタッフ指導を通してその普及に貢献されました。出版に尽力された「北海道大学病院看護部 患者参加型看護」は,「患者参加型看護」を基本方針に掲げる本院において必携の書となっています。
同人は,社会的活動も精力的に行い,北海道看護協会においては現任教育の講師や第4支部推薦委員を務め,北海道看護協会における継続教育に尽力されました。
以上のように同人は,39年の永きに亘り看護の質の保証,患者サービスの質向上,看護管理・教育の充実に尽くされ,その功績は誠に顕著であると認められます。
略 歴
生年月日 | 昭和27年6月29日 | |
昭和49年4月 | 北海道大学医学部附属病院 | |
昭和60年4月 | 北海道大学医学部附属病院看護部副看護婦長 | |
平成10年4月 | 北海道大学医学部附属病院看護部看護婦長 | |
平成15年10月 | 北海道大学医学部・歯学部附属病院看護部看護師長 | |
平成16年4月 | 北海道大学病院看護部看護師長 | |
平成25年3月 | 北海道大学定年退職 |
(北海道大学病院)