| 勲 章 | 経 歴 | 氏 名 |
| 瑞 宝 中 綬 章 | 名誉教授(元 薬学部教授) | 金 岡 祐 一 |
| 瑞 宝 中 綬 章 | 名誉教授(元 工学研究科教授) | 落 藤 澄 |
| 瑞 宝 中 綬 章 | 名誉教授(元 医学部教授 | 大河原 章 |
| 瑞 宝 中 綬 章 | 名誉教授(元 医学部教授 | 児 玉 讓 次 |
| 瑞 宝 中 綬 章 | 元 事務局長 | 若 松 澄 夫 |
| 瑞 宝 単 光 章 | 元 副看護部長 | 福 島 洋 子 |
各氏の受章にあたっての感想,功績等を紹介します。
(総務企画部広報課)
- 金岡 祐一 (かなおか ゆういち) 氏
感 想
一科学徒として北大教授25年間は,専門のChemical Biology(パイオニアの一人)の研究はもとより,国際学会発表,海外研究者との交流等,常時欧米をかけ廻り,存分に働かせていただきました。しかし思えば,当然の専門上の仕事を自分なりに務めただけであり,それがもし叙勲に値するということであれば,ただ光栄としてお受けいたしましょう。私は北アルプス立山連峰をはるかに望む富山市郊外に産まれた田舎者です。生家は「薬屋」で,横庭の一部にはトロッコ,後庭には小さい製粉工場が終日動いていました(今は富山県民会館分館の金岡邸)。祖父は金沢薬専,父は東大薬学科卒業で,富山薬専教授,ドイツ留学を経てテイカ製薬株式会社を創立。このような「とやまの薬屋の息子」であった私は,旧制富山高校を卒業後,自然な流れで東大薬学科へ進学しました。大学院を経て北大医学部薬学科講師,1年後助教授,昭和41年に教授になり25年。薬学部長,触媒化学研究センター長等を務め,この間,昭和34〜36年に留学したNIH(アメリカ国立衛生研究所)で日本特有の狭い専門家根性を叩き直され,以来,タテワリの日本流を捨てヨコワリへ。「ブレークスルーは学際研究から」が,私の一生の信条となりました。「タテワリは常に不毛への道」(金岡の法則)。現役時は私なりに仕事をしたと思います。例えば私が編成した日本チームがNaチャンネル研究で世界制覇。これらの研究成果は,「Science, The Endless Frontier」ファルマシアVol.42 No.7(2006年)に総括しました。
退官後,帰郷しすでに20余年。学校法人富山国際学園,テイカ製薬株式会社,共に個人的事情から関わらせていただいてきました。富山の皆様には「県へ帰ってきた男」として大変お世話になっていることを心から感謝します。
今さら何を,と言われるでしょうが,そもそも叙勲とは何か。賞状はこの締め切りまではまだいただいていませんが,天皇から授与されるものでしょう。従って,ある分野における貢献として叙勲が授けられ,有難くそれを受けるということは,改めて私も国民の一人として,国益に沿う行為をしたことになるのかと思います。当局におかれては,今後も一層検討を続け,適切な叙勲候補者選定に努めていただきたいというのが,私の希望でありこの小文の結論です。
感謝と共に。
功績等
金岡祐一氏は,生体分子が機能する化学反応の本質を有機化学的に追求し,新しい有機合成試薬と新原理による加水分解酵素の阻害剤を設計・開発し,薬物創出の近代領域である創薬化学の端緒を開かれました。加えて,酵素括性の高感度定量試薬の開発,新原理で蛍光性に変化する有機分子の発見と微量タンパク質の検出・解析試薬の開発などの多くの機能性有機化合物を誕生させ,世界的に興隆期にあった有機化学と生化学を融合した先端的領域である生物有機化学をリードされました。また,分子の光吸収で生じる高エネルギー状態を研究する光化学の開拓と応用を推進し,新反応の発見と複雑な化合物の新規合成法を開拓し,さらに光反応でタンパク質を人工的に標識し,その機能構造を解析する新手法を開発されました。本手法は共同研究者に引き継がれ,ライフサイエンスの先端的手法の一つとして日本が世界をリードしています。
さらに,ナトリウムチャンネルとカルシウムチャンネルは,対応するイオンの通過で神経細胞膜のシグナル伝達機構を担うという,40億年の進化で形成された高機能巨大タンパク質であり,その重要な機能構造決定という歴史的ブレークスルーを達成されました。光化学,合成化学,分析化学,生物化学を融合させ,低分子から生体高分子に及ぶそれまでの広範な基礎研究を集大成させた功績は傑出しています。
以上のように,同氏は我が国のライフサイエンスの黎明期において,有機化学と生物科学を結ぶ学際的研究領域開拓に世界で先進的役割を果たされました。
学外においては,稀にみる多くの大学設置審議会専門委員,学術審議会専門委員,薬学視学委員,科学技術庁航空・電子等技術審議会専門委員,日本学術会議化学系・物理系薬学研究連絡委員等を歴任されました。日本薬学会会頭を務められ,さらに平成9年には,日本学術会議会員活動では薬学系として初めて第7部部長の任を果たされました。
同氏は,国立大学36年,私立大学20年にわたり公私の大学運営・教育に尽力されました。国立大学での研究・教育の業績を核として,退官後の全国・学術への貢献と私立大学での尽力と併せ,我が国の学術・高等教育界への貢献は,全国でも比類のない総合的業績であります。
略 歴
| 生年月日 | 昭和3年2月25日 | |
| 昭和30年10月 | 東京大学医学部助手 | |
| 昭和31年4月 | 北海道大学医学部講師 | |
| 昭和32年5月 | 北海道大学医学部助教授 | |
| 昭和40年4月 | 北海道大学薬学部助教授 | |
| 昭和41年4月 | 北海道大学薬学部教授 | |
| 昭和56年7月 | 北海道大学評議員 | |
| 昭和58年5月 | ||
| 昭和62年6月 | 北海道大学評議員 | |
| 平成元年6月 | ||
| 昭和62年7月 | 北海道大学薬学部長・薬学研究科長 | |
| 平成元年6月 | ||
| 平成元年4月 | 北海道大学薬学部附属薬用植物園長 | |
| 平成3年3月 | ||
| 平成2年4月 | 北海道大学触媒化学研究センター長 | |
| 平成3年3月 | ||
| 平成3年3月 | 北海道大学停年退職 | |
| 平成3年4月 | 北海道大学名誉教授 | |
| 平成3年4月 | 学校法人富山国際学園富山女子短期大学教授 | |
| 平成5年11月 | ||
| 平成5年9月 | 学校法人富山国際学園理事長(〜現在) | |
| 平成5年11月 | 学校法人富山国際学園富山短期大学学長 | |
| 平成24年3月 | ||
| 平成13年7月 | 学校法人富山国際学園富山国際大学学長 | |
| 平成19年6月 | ||
| 平成16年6月 | 社会福祉法人富山国際学園福祉会理事長(〜現在) | |
| 平成24年5月 | 富山短期大学名誉学長 |
(薬学研究院・薬学部)
- 落藤 澄 (おちふじ きよし) 氏
感 想
この度は,叙勲の栄を賜り誠に光栄に存じます。ご高配を賜りました皆様に厚くお礼を申し上げます。私は,昭和39年10月北海道大学工学部衛生工学科の助教授に採用され,同53年4月教授に昇任し,平成12年3月定年退職しました。36年間学部と大学院の教育と研究に専念することが出来ました。
研究面では一貫して室内環境と暖冷房のためのエネルギー利用に関する研究を行いました。
初期の研究は,積雪寒冷地の建物の室内環境と熱負荷について広範な実測と理論解析を行い,その特性と寒冷地の問題点を明らかにしました。その成果に対して空気調和・衛生工学会から論文賞を授与されました。その後は地域暖冷房,熱電併給,排熱利用など都市域に対象を拡げたエネルギーの有効利用に関する研究を行いました。
石油危機以後は,暖冷房と空気調和のための長期(季節間)蓄熱に関する研究を行いました。「地中蓄熱」「帯水層蓄熱」及び「地中熱源ヒートポンプ」の一連の研究であります。本研究は大地の膨大な熱容量に着目した我が国では殆ど類例を見ない新しい工学分野であります。地域性,省エネルギー性,地球環境の観点から研究室が長年にわたって取り組んできた研究であります。上記の3つの論文に対して空気調和・衛生工学会から論文賞を授与されました。若い先生達が中心になって進めてきた研究であり,研究室は大いに励まされました。
後半の研究は,ローエネルギー実験住宅を学内に建設し,これまでの研究成果の実用化を目指すとともに,太陽,大地,大気(換気)など自然エネルギーをハイブリットに活用した「エネルギー自立型住宅の構成と評価」に関する研究を行いました。その結果は,エネルギー自立型都市を目指した国家プロジェクト研究の中心的役割を果たすことが出来ました。研究論文は,同じく空気調和・衛生工学会の論文賞を授与されています。
終わりに,これまでの研究は当時の研究室の長野克則先生,濱田靖弘先生,中村真人技官と一緒に行った共同研究であります。心から感謝するとともに叙勲の栄誉を分かち合いたく思います。旧衛生工学科の射場本勘市郎先生にはご指導を賜り厚くお礼を申し上げます。今は亡き3名の恩師,平山 嵩先生,斉藤平蔵先生,柴田拓二先生にお礼を申し上げます。
北海道大学のより一層の発展を祈念します。
功績等
落藤 澄氏は,昭和11年5月5日に北海道に生まれ,同34年3月北海道大学工学部建築工学科を卒業,同36年3月東京大学大学院数物系研究科建築学専攻修士課程,同39年3月同博士課程を修了し,工学博士の学位を取得されました。昭和39年4月からの東洋大学工学部建築学科助教授を経て,同年10月北海道大学工学部助教授に採用されました。昭和53年4月には北海道大学工学部教授に昇任され,平成9年4月工学部の改組に伴い北海道大学大学院工学研究科教授となられたのち,同12年3月停年により退官されました。昭和39年以降の教官在任中,学部においては,人間環境計画学,空気調整工学,衛生工学実験など,また,大学院においては環境システム工学特論,人間環境計画学特別演習などの講義,演習を担当されるとともに,学生の研究指導にあたられ,多くの技術者と研究者を育成されました。
研究面では,一貫して冷暖房のためのエネルギー有効利用システムの構成法と制御方法に関する研究に従事され,北海道大学工学部着任後は,積雪寒冷地の事務所ビルを中心とした大型建築物の熱負荷特性を実測調査の面から明らかにするとともに,理論面では「間欠暖房と全日暖房の熱負荷及び所要熱量の解析」の研究に取り組まれ,その成果に対して,空気調和・衛生工学会論文賞が贈られました。その後,エネルギーの有効利用の手段として我が国では類例を見ない地中蓄熱方式及び帯水層蓄熱方式の先駆的研究を柱として,都市規模の冷暖房システムのエネルギー有効利用の研究に邁進されました。その一連の研究の中の「長期蓄採熱による埋設管の熱伝導に関する理論解析」と「帯水層の蓄熱効果に関する長期測定とその考察」の論文に対して,空気調和・衛生工学会より表彰を受けました。同時に,工学部の改組に伴う都市環境工学専攻人間環境計画学講座設立のこの頃より「エネルギー自立型住宅(ローエネルギーハウス)の建設と評価」と「長期蓄熱システムの開発と実用化」の研究課題を通して,「自立型都市をめざした都市代謝システムの開発」という次世代を見据えた国家的プロジェクト研究の中心的役割を果たされました。
学外においては,通商産業省工場立地及び工業用水審議会専門委員をはじめ,地方自治体の様々な委員会等に参画され,地域の発展に貢献されるとともに,学術界では,空気調和・衛生工学会理事,日本環境管理学会北海道支部長などを歴任されるなど,学術の発展に大いに寄与されました。
以上のように,学生の教育,学術研究の発展,本学の運営などに対する貢献は極めて大なるものがあります。
略 歴
| 生年月日 | 昭和11年5月5日 | |
| 昭和39年4月 | 東洋大学工学部建築学科助教授 | |
| 昭和39年10月 | 北海道大学工学部助教授 | |
| 昭和53年4月 | 北海道大学工学部教授 | |
| 平成9年4月 | 北海道大学大学院工学研究科教授 | |
| 平成12年3月 | 北海道大学停年退職 | |
| 平成12年4月 | 北海道大学名誉教授 |
(工学院・工学研究院・工学部)
- 大河原 章 (おおかわら あきら) 氏
感 想
この度は,関係各位のご推挙により身に余る叙勲の栄を賜り誠に光栄に存じます。北海道大学医学部を卒業後,恩師故三浦祐晶教授をはじめ多くの先輩諸先生方のご指導を受け,更には多くの敬愛する同僚・後輩,また良き友人達にお世話になりましたことに心から感謝しております。
私は昭和36年北海道大学医学部を卒業後,神奈川県相模大野市の在日米国陸軍病院で1年間のインターンを終え,故三浦教授主宰の皮膚科学講座に,皮膚の生化学的研究に興味を持ち大学院生として入局しました。
昭和39年9月,東京オリンピック開催直前に,長年の夢であったオレゴン大学に留学し,専らヒト表皮の糖質代謝の酵素生化学的研究を通して,難病の乾癬の病態解明に取り組みました。当時日本からの留学生は少なく,優秀な他大学出身の研究者と交流を深められたことは大きな財産となっております。
3年間の留学後一旦帰国しましたが,再度マイアミ大学皮膚科の招きで2年間を大学のスタッフとして過ごすことになりました。マイアミ大学では他国の先生方と親交を深め,globalな価値観の重要性を改めて学びました。こうした経験を基に後日,日本と中国,日本と韓国,日本と豪州各2国間の合同皮膚科学会の開催に,日本皮膚科学会の理事の一人として積極的に関わることが出来ました。時代が異なるとはいえ,最近は留学志向の学生が減少傾向にあるようで残念です。
昭和51年から9年6か月間は,新設旭川医科大学皮膚科学講座を主宰させていただく機会を与えられ,まさに無からの教室創りでしたが,頼りになる教室員や旭川市の同門諸氏の温かいご支援を受け,研究・学生の講義に夢中で取り組みました。幸い有望な1期生5名を講座に迎えて基礎が固まり,その後教室員も順調に増え,現在道内のみならず日本各地で地域医療の中核的存在として活躍してくれていることを嬉しく思っております。
昭和60年10月から約14年間北海道大学医学部皮膚科学講座を主宰致しましたが,有能な教室員に恵まれ,日本皮膚科学会総会はじめ多くの学会を札幌市で主催し,更に隣国の中国,韓国,並びに豪州とそれぞれ2国間の合同皮膚科学会を主催出来たことも貴重な思い出です。これら諸国の同志とは現在も交流を続けています。
今回の受章に際し,永年に亘り良き環境を与えてくださった旭川医科大学,北海道大学,そして改めて恩師,先輩諸氏,優れた教室員,良き友人達,更に海外諸国の多くの同志の方々に深謝申し上げます。終わりに,長い間慣れない北海道で一緒に歩んでくれた家内に感謝します。
医療が効率性,経済性を通して語られることが多く感じられる昨今,医療の本質を思索しながら,これからも微力を尽くしたいと願っております。
功績等
同氏は昭和10年6月17日山梨県中巨摩郡甲西町に生まれ,同36年3月北海道大学医学部を卒業し,同年4月より在日米国陸軍病院において1年間の実地修練を終了後,医師免許を取得されました。昭和39年10月より同42年9月までの3年間,米国オレゴン州立大学皮膚科に留学し,同年11月に北海道大学医学部皮膚科学講座助手,同44年1月に同医学部附属病院皮膚科講師となりました。昭和51年4月に新設となる旭川医科大学皮膚科学講座の初代教授として赴任され,同60年9月まで旭川医科大学で教育,研究,診療に従事されました。昭和60年10月北海道大学医学部皮膚科学講座教授に任命され,平成11年3月退官まで,医学教育,研究,診療に努め,附属病院並びに北海道大学の運営にも尽力され,同年4月に北海道大学名誉教授になりました。退官後は平成11年4月より同15年10月まで学校法人浅井学園の教授として医学教育に努められました。同氏は,難治性皮膚疾患で罹患率が世界人口の2%といわれる「乾癬」に重点をおき,約600編の論文を発表し,乾癬の病態解明のための基礎的研究をはじめ,厚生省の特定疾患希少難治性皮膚疾患である汎発性膿疱性乾癬の調査研究班の班員(幹事)として,本邦における疫学調査を施行し,また本症の診断基準,治療指針,重症度分類を確立するなど,乾癬の病因・病態の解明に優れた業績を挙げ,さらに世界基準となる診断・治療指針を示されました。
医学教育については,27年以上の間,3つの大学で教授として医学部学生,大学院医学研究科学生,北海道大学医療技術短期大学部学生等の教育指導に広く携わり,また,在任中は,講座所属の多くの研究生や海外留学生の研究指導,皮膚科学の研鑽,皮膚科医としての育成に尽力されました。
学外にあっては,日本皮膚科学会副理事長,日本乾癬学会理事長等を歴任され,文部省学術審議会専門委員,北海道特定疾患対策協議会会長の要職を務められました。これらの功績により,平成7年に北海道医師会賞・北海道知事賞を受賞されました。
以上のように,同氏は数多くの学会・研究会で指導的地位にあり,多くの優れた研究業績を挙げ,学術の進歩,発展に貢献されると共に,学生,後進の教育・育成及び地域医療の発展に多大な努力を重ねられ,その功績は顕著であります。
略 歴
| 生年月日 | 昭和10年6月17日 | |
| 昭和42年11月 | 北海道大学医学部助手 | |
| 昭和44年1月 | 北海道大学医学部附属病院講師 | |
| 昭和51年4月 | 旭川医科大学医学部教授 | |
| 昭和60年10月 | 北海道大学医学部教授 | |
| 平成8年4月 | 北海道大学評議員 | |
| 平成11年3月 | ||
| 平成11年3月 | 北海道大学停年退職 | |
| 平成11年4月 | 学校法人浅井学園北海道女子大学短期大学部 | |
| (現:北翔大学短期大学部)教授 | ||
| 平成12年4月 | 学校法人浅井学園北海道浅井学園大学 | |
| 平成15年9月 | (現:北翔大学)教授 |
(医学研究科・医学部)
- 児玉 讓次 (こだま じょうじ) 氏
感 想
この度の私の叙勲にあたりまして,私を支えてくださいました恩師,共同研究者,同僚,後輩,学生,事務官,技官などすべての方々に心より厚く御礼申し上げます。私の専攻分野はヒトの頭蓋(トウガイ)の形態発生(肉眼発生)であります。
ヒトの頭蓋は15種23個の頭蓋骨によって形成され,これはさらに5種7個の脳頭蓋と10種16個の顔面頭蓋に分類されます。脳頭蓋は後頭骨1個,蝶形骨1個,側頭骨1対2個,頭頂骨1対2個,前頭骨1個より成り,顔面頭蓋は篩骨1個,下鼻甲介1対2個,涙骨1対2個,鼻骨1対2個,鋤骨1個,上顎骨1対2個,口蓋骨1対2個,頬骨1対2個,下顎骨1個,舌骨1個より成ります。
肉眼解剖学は研究し尽くされて,もう研究テーマが存在しないとさえ言われておりましたが,例えば頭蓋骨をとりましても未研究の骨があります。
私が調査致しました頭蓋骨は後頭骨,蝶形骨,頭頂骨の三骨の一部分にすぎず,他の頭蓋骨につきましてはほとんど未研究のままであります。
私は後頭骨の上部は一次性の骨核と二次性の骨核があり,ほとんど発育しない一次性のものと急速に発育する二次性のものとの融合不全により所謂インカ骨が発生することを発見しました。蝶形骨はその体部が2種4個の骨核から形成されることがこれまでの文献により発表されておりましたが,5種9個の多発生の骨核から発生することを発見しました。また,体部の上部を形成する蝶形骨平面は従来の文献では体部により発生するとありますが,小翼の原基であるorbitosphenoidにより発生することを発見しました。また,頭頂骨は上下2骨核より形成され,それら2骨核の融合不全により2分頭頂骨が発生することを確認しました。
以上の私の研究調査は北海道医学雑誌に英文で発表され,これが縁で昭和50年にNIH(アメリカ国立衛生研究所)で開催された,頭蓋底発生に関するシンポジウムに日本を代表して私が招待され,蝶形骨発生に関する発表を行いました。
このように私の行った頭蓋発生に関する調査は,15種の頭蓋骨のうち僅か3種にしか行われておらず,未調査の12種の頭蓋骨につきましては,研究調査が行われますことを祈って止みません。
功績等
同氏は,昭和10年2月25日,札幌市に生まれ,同35年3月北海道大学医学部医学科を卒業,北海道大学医学部附属病院において1年間の実地修練を終了した後,同36年4月北海道大学大学院医学研究科へ進学し解剖学を専攻,同40年3月同課程を修了し,「ヒト蝶形骨のpresphenoidの発生学的研究」(英文)の論文により医学博士の学位を授与されました。また,昭和36年6月に第30回医師国家試験に合格されました。昭和40年4月北海道大学医学部助手,同41年7月同講師,同43年11月同助教授を経て,同46年9月北海道大学教授に任ぜられ,医学部解剖学第二講座を担当されました。以来,平成10年3月の停年退官まで一貫して,解剖学の教育,研究並びに学生実習のための解剖体献体運動を行う北海道大学白菊会の代表としてご遺体収集業務に従事されました。平成10年4月に北海道大学名誉教授となり,今日に至っています。
同氏の研究分野は肉眼解剖学です。同氏は,主たるテーマである「ヒト胎児頭蓋の形態発生学的研究」に関連し,未開拓分野であるヒト胎児(胎生3ヵ月から胎生10ヵ月まで)を約1,000例収集され,頭蓋の分解晒骨標本並びに非分解標本晒骨標本を作製し,発生に伴う骨成長,骨核数,骨融合などについて,肉眼による骨形態発生の立場から詳細な研究調査を行い,その研究成果から複数の論文を発表されました。著書は1編で分担執筆による「解剖学事典」(朝倉出版)があり,原著論文は17編あります。
学会活動としては,日本解剖学会評議員を務め,また第98回日本解剖学会総会会頭(平成5年)を務められました。国際シンポジウムとしては,昭和50年にNIH(アメリカ国立衛生研究所)主催の「頭蓋底に関するシンポジウム」において,ヒト蝶形骨の発生について発表を行いました。
学内にあっては,隔年に北海道大学で開催されるサマーセッションで「北方民族の人類学と民族学」と題して講演を行い,本学の運営並びに国際交流に参与されました。学外にあっては,文部省大学設置・学校法人審議会専門委員を務め,我が国の学術向上にも貢献されました。平成8年には,北海道医師会賞・北海道知事賞を受賞されています。
以上のように,同氏は教育及び研究で多大の貢献をされ,その功績は誠に顕著であると認められます。
略 歴
| 生年月日 | 昭和10年2月25日 | |
| 昭和40年4月 | 北海道大学医学部助手 | |
| 昭和41年7月 | 北海道大学医学部講師 | |
| 昭和43年11月 | 北海道大学医学部助教授 | |
| 昭和46年9月 | 北海道大学医学部教授 | |
| 平成10年3月 | 北海道大学停年退職 |
(医学研究科・医学部)
- 若松 澄夫 (わかまつ すみお) 氏
感 想
この度,叙勲の栄を賜り身に余る光栄と存じております。昭和46年に文部省に入省し,平成14年に北海道大学の事務局長を最後に退官しましたが,この間,多くの上司,先輩,同僚,部下に恵まれ,そのご指導,ご支援の賜物と感謝いたしております。平成11年7月に北大の事務局長に就任しましたが,就任当時の総長は,丹保憲仁先生でした。文部省当時,高等教育,学術行政を担当し,大学の教育研究についてそれなりの知識は持っているつもりでしたが大学の現場を担当するのは初めてでした。当時の北大は,いわゆる大学院重点化がほぼ完成し,21世紀を目前にして次の時代の北大の在り方を模索していた時期でした。おりしも外圧としての国立大学の法人化の議論や大学改革の動きもかまびすしく,これらも視野に入れて北大の在り方が問われていました。こうした認識を一番有していたのは丹保総長でした。丹保総長は,このため,平成12年3月,評議会の下に未来戦略検討ワーキンググループを発足させました。同ワーキンググループには,3つの部会がおかれましたが,その一つである「大学運営部会」は,総長室の設置,副学長の増員等を内容とする中間報告をまとめ,6月の評議会で了承されました。この報告は,大学を取り巻く環境の変化に機動的に対応し,併せて大学の教育研究体制の改革を適切かつ効率的に検討実施するためには,総長のリーダーシップが効率的に発揮できる体制を整備すべきである,との問題意識によるものです。当時の北大は,部局の自治,権限が強く(そのこと自体は尊重すべきものですが),総長がリーダーシップを発揮することは大変困難でした。文部省で大学改革の旗を振ってきた一人として,現場の困難さをつくづく感じました。
平成13年5月,丹保総長の任期満了に伴い,法学部出身の中村睦男先生が総長に就任しました。いつも忙しく動き回っている丹保総長からじっくり考える中村総長への交代でした。こうして北大は法人化に向けてさらなる検討を新たに設置された総長室を中心に行っていくことになりました。私も副学長や総長補佐の先生方といろいろと議論をしてきました。北大の発展のためにどれだけ役に立ったかは疑問ですが。
平成14年3月,2年9か月の事務局長生活を最後に退官することになりました。退官に当たって総長補佐の先生方が開いてくれた送別会は今も記憶に残っています。
功績等
若松澄夫氏は,文部省学術国際局研究助成課研究協力室長在職時,「地域共同研究センター」の設置を図るとともに,「民間等との共同研究制度」の促進に貢献されました。文部省学術国際局学術課学術企画室長在職時には,「学術研究振興のための新たな方策について−学術の新しい展開のためのプログラム−」をはじめ,多数の建議をとりまとめ,学術研究の振興に貢献されました。
また,文部省高等教育局私学部学校法人調査課長在職時は,学校法人の健全な経営確保を目的とした「学校法人運営調査委員制度」を活用し,私立学校の振興に尽力されました。
文化庁文化財保護部記念物課長在職時は,記念物,埋蔵文化財の保存・活用に尽力し,世界文化遺産推薦に係る関係省庁等との連絡調整を行い,我が国初の世界文化遺産登録(「法隆寺地域の仏教建造物」「姫路城」)に至る実務を主導されました。
文部省高等教育局私学部私学行政課長在職時は,私学に対する税制上の優遇措置の拡充に尽力し,私立学校の発展に寄与されました。また,高等教育局企画課長在職時には,大学審議会の事務担当課長として,多岐にわたる高等教育改革の課題について積極的に調査審議を進められました。
文化庁文化財保護部長に在職時は,文化財行政を総括し,アイヌ文化振興法に基づくアイヌ文化の復興・振興に関する各種施策の企画立案を主導されました。
さらに,文部省大臣官房審議官(学術国際局担当)在職時は,高エネルギー加速器研究機構の「Bファクトリー加速器」の整備をされたほか,単一鏡として世界最大級の望遠鏡となる大型光学赤外線望遠鏡「すばる」の整備に尽力されました。
北海道大学事務局長在職時は,全学の事務職員を指揮され,多様な業務を適正に執行し,大学の中枢として丹保憲仁,中村睦男,両総長を側面から補佐し,大学の発展に尽力されました。
特に大学院重点化においては,学部を持つ全ての大学院研究科の重点化を実施したほか,国際広報メディア研究科及び遺伝子病制御研究所の設置,3つの研究センターの設置に尽力されるなど,研究重視型大学として北海道大学の発展に貢献されました。
また,副学長を3人体制にするとともに,総長補佐体制を整備し,大学運営の一層の円滑化及び運営体制の強化に寄与されたほか,国立大学の独立行政法人化においては,運営体制,目標評価,人事制度,財務などの制度設計の検討に尽力し,北海道大学の法人化への礎を築かれました。
以上のように,同氏は,多年にわたり文部行政,学術行政に大いに貢献され,功績は誠に顕著であります。
略 歴
| 生年月日 | 昭和21年1月26日 | |
| 昭和44年3月 | 新日本工機株式会社 | |
| 昭和44年10月 | 株式会社第一学習社 | |
| 昭和45年3月 | ||
| 昭和46年1月 | 文部省大学学術局技術教育課 | |
| 昭和48年5月 | 文部省管理局教育施設部助成課 | |
| 昭和50年4月 | 文部省管理局教育施設部助成課法規係長 | |
| 昭和50年9月 | 文部省学術国際局学術課学術振興係長 | |
| 昭和53年8月 | 文部省初等中等教育局小学校教育課学校管理係長 | |
| 昭和54年3月 | 文部省初等中等教育局小学校教育課課長補佐 | |
| 昭和54年4月 | 青森県教育委員会文化課長 | |
| 昭和56年4月 | 文部大臣官房人事課専門員 | |
| 昭和56年4月 | 総理府人事局労働第1担当参事官補佐 | |
| 昭和58年8月 | 文化庁文化部国語課課長補佐 | |
| 昭和59年8月 | 文部省体育局学校給食課課長補佐 | |
| 昭和60年12月 | 文部省体育局体育課課長補佐 | |
| 昭和62年5月 | 文部省体育局体育課体育企画官 | |
| 昭和63年7月 | 文部省学術国際局研究助成課研究協力室長 | |
| 平成元年4月 | 文部省学術国際局学術課学術企画室長 | |
| 平成2年7月 | 文部省高等教育局私学部学校法人調査課長 | |
| 平成4年7月 | 文化庁文化財保護部記念物課長 | |
| 平成6年7月 | 文部省高等教育局私学部私学行政課長 | |
| 平成7年7月 | 文部省高等教育局企画課長 | |
| 平成9年7月 | 文化庁文化財保護部長 | |
| 平成10年7月 | 文部省大臣官房審議官 | |
| 平成11年7月 | 北海道大学事務局長 | |
| 平成14年3月 |
(総務企画部総務課)
- 福島 洋子 (ふくしま ようこ) 氏
感 想
この度,はからずも叙勲の栄誉を賜り身に余る光栄と感激いたしております。これもひとえに関係の皆様のご尽力の賜物と深く感謝し,お礼申し上げます。私は昭和50年3月に北海道大学医学部附属看護学校卒業,同51年3月に同助産婦学校卒業後,同年三笠市立総合病院,同52年東京大学医学部附属病院分院を経て,同年7月北海道大学医学部附属病院に就職し,定年退職した平成26年3月までの37年余り,北海道大学病院に勤務させていただきました。
振り返ってみますと,北海道大学医学部附属病院で最初に配属された第二外科病棟は,心疾患のため保育器に収容されている新生児から高齢者までの患者さんで人工呼吸器を装着された方が,常時2〜4人いらっしゃる病棟でした。一番苦手だったのは,経鼻的気管内吸引で,半年間は患者さんにご迷惑をかけました。また,がんの手術後で人工呼吸器を装着しているターミナル期の患者さんを医師の許可を得て入浴させたり,車椅子に座ったり等の行動拡大をする中で,患者さんの笑顔と生きる力から,看護の力と信頼関係の重要さを実感する日々でした。
昭和55年11月に産科病棟に異動となり,本来目標としていた「助産婦としての技の探求」を目指したいと思いましたが,当時は産科医療の劇的変化の時代でした。看護婦長の命で,新しい産科学の学習と妊産婦・新生児管理の変更とそれに伴う業務改革,大学病院の助産婦として学識の向上に向けた学会発表に追われました。その体験は,以降の助産婦(師)としての,また看護管理者としての礎となりました。産科の看護婦長となってからは,看護要員不足を改善するためにNICU(新生児特定集中治療室)加算取得のための要件整備や,妊産褥婦・新生児の一貫した管理ができる周産期管理医療情報システムの構築に医師・同僚・後輩と共に取り組みました。
平成13年4月第二外科に異動,同14年4月に初代の医療安全推進室(管理部)専任リスクマネジャーとなりました。手探り状態の中,病院長・医療安全管理部長・看護部長の強力なご支援と病院職員の皆様のご協力で,少しずつではありましたが,安全管理体制が整っていきました。「職員を守れずして患者は守れない」という合言葉のもと頑張りましたが,継続の力と正規・非正規を問わず職員一人ひとりの重要さを痛感する日々でした。
平成21年に看護部に異動となりました。副看護部長として,入退院センター設置,共通病床の運用とシステム改革,病院機能評価更新等,病院としての事業に携わりました。組織と職員一人ひとりを大事する組織方針に守られ,これらの職務を果たせたように思います。
私の37年余りの助産師・看護師としての年月は,良き先輩・同僚・後輩に恵まれ,他職種の様々な皆様にご支援していただいたおかげと感謝してもし尽くせません。今後はこの栄誉に恥じることのないよう過ごしてまいりたいと思います。
最後になりましたが,北海道大学・北海道大学病院・看護部の発展をご祈念申し上げ,お礼の言葉と致します。
功績等
福島洋子氏は,昭和29年3月25日に北海道札幌市に生まれ,同50年3月北海道大学医学部附属看護学校卒業,同51年3月同医学部附属助産婦学校卒業後,他病院での勤務を経て,同52年7月に北海道大学医学部附属病院に就職,同59年副看護婦長,平成5年看護婦長,同18年副看護部長を歴任され,同26年3月に北海道大学病院を定年にて退職するまで勤務されました。同氏は当初,第二外科病棟,産科病棟で勤務され,特に安全・安心な分娩を迎えられるよう妊産婦への援助に力を発揮されました。副看護婦長昇任後は,看護実践力の高いチーム作りにも努められました。
看護婦長時代は,産科病棟,第二外科病棟で勤務され,この間,日本看護協会認定看護管理者制度セカンドレベル研修を受講する等,助産師の実践能力向上のための教育体制の基盤を作られました。また,当時としては画期的であった周産期管理医療情報システムの構築や,NICU整備にも大きく貢献されました。この間多数の看護研究を指導する一方で,自らも母性看護について数多くの学会発表や論文投稿を行い,「胸膜部結合双生児と母への看護」で「日本母性衛生学会学術奨励賞」を受賞されています。その後,初代の医療安全推進室専任リスクマネージャーに就任され,医療安全管理マニュアルを作成する等,本院における医療安全管理体制の基礎作りに尽力されました。
副看護部長昇任後は,医療安全管理部で3年,業務担当を5年間務められました。業務担当としては,入退院センター新設に向けた組織・運用体制の準備に取り組み,その稼働に多大な貢献をされました。また,全職員対象の接遇研修企画にも尽力されました。病院機能評価受審に際しては,評価対象領域毎に病院全体を横断しての体制整備を進め,病院機能の維持・向上に貢献されました。また,北海道大学大学院保健科学研究院と共同で「看護職キャリアシステムプラン開発・評価組織体制」を構築し,部署内の教育プログラムを企画運営する指導看護師院内認定制度を確立されました。この間も学会発表や論文投稿に積極的に取り組み,特に全国の大学病院の入退院センターの設置や運営に多大な影響を与えました。
同氏は社会的活動も精力的に行い,北海道看護協会においては,業務委員長や訪問看護推進委員長等を歴任されました。また,国立大学医学部附属病院医療安全管理協議会幹事等を担当し,全国の医療安全管理体制の構築に尽力されました。
以上のように同氏は,37年の永きにわたり看護管理・教育の充実に尽くされ,その功績は誠に顕著であります。
略 歴
| 生年月日 | 昭和29年3月25日 | |
| 昭和51年4月 | 市立三笠総合病院 | |
| 昭和52年4月 | 東京大学医学部附属病院分院 | |
| 昭和52年7月 | 北海道大学医学部附属病院看護部 | |
| 昭和59年4月 | 北海道大学医学部附属病院看護部副看護婦長 | |
| 平成5年4月 | 北海道大学医学部附属病院看護部看護婦長 | |
| 平成18年4月 | 北海道大学病院看護部副看護部長 | |
| 平成26年3月 | 北海道大学定年退職 |
(北海道大学病院)