寄稿

20世紀と21世紀をまたいだ総長として(1)

放送大学長,北海道大学名誉教授 丹 保 憲 仁


はじめに
 平成7年(1995年)5月から平成13年(2001年)4月までの6年間,北海道大学総長を勤めさせていただいた。初代総長の佐藤昌介先生から数えて15代目の20世紀最後の総長である。廃校の瀬戸際に在った札幌農学校を辛苦の末に北海道帝国大学にまで発展させ,初代総長を勤められた佐藤昌介先生のご苦労と,それを支えた新渡戸稲造先生,廣井勇先生,宮部金吾先生などのことが在任中ずうっと頭を占めていた。旧帝国大学の一角に胡坐あぐらをかいて,北海道の覇者に甘んじるようなことがあれば,世紀を越えてこの大学を世に価値あるものとし続けるのは難しいと考えた。
 近代化を求めた日本の20世紀に,成長型社会発展の有力な国家組織であった札幌農学校由来の北海道大学を,21世紀に始まる地球環境制約時代に活躍できる新しい教育・研究機関に脱皮させて,日本と世界の将来を担う人々の新文明創成の拠点にしたいと考えた。総長在任中の様々な挨拶・告示・式辞にそのことを示し続けたつもりである。

創基120-125周年までの5年間を世紀を越える重要期間と考えた
 総長に就任した時(1995年5月)から任期一杯をかけて,古く大きな北大を21世紀の新北海道大学に作り替える道を探したいと考えた。就任してすぐ総長メモ(北海道大学の懸案事項についての総長メモ:教育編1995.7,後に総長メモ1998に改定)を評議会に示した。(総長個人の意見で機関決定したものでないからということで,このメモを印刷し全学に配布することは出来なかった)21世紀初頭の10-20年計画ともいうべきものの素案であり,その後その幾つかは具体に実現し,それぞれに計画ができ,最後に2000年11月には多くの先生方の手を煩わして論議が加えられ,「新世紀における北海道大学像」(未来戦略WG検討結果報告)となって評議会で了承されることとなった。次期総長への申し送り事項であり,法人化の議論が始まった時期の北大の論点整理のひとつである。2001年春,総長を去る直前の時期まで,気鋭の先生方にご尽力をいただき,大学院重点化の終わった研究型大学のあり方について,新研究コンプレックス創成機構の樹立ほか幾つかの提言をまとめて頂いた。
 大学法人化の話はまだ影もなかった時代からの論議の積み重ねが,大学の自律と自立を求める法人化の論議に対応する基本にもなりうるものである。北海道大学には公の長期計画はおろか3-5年の明確な中期計画を持った学部さえなかったといって良い。「フロンテア・スピリット」「全人教育」「国際性」などはスローガンであっても具体の目標ではなく,まして教育研究計画ではあり得ない。幸いなことに,クラーク先生の「ボーイズ・ビー・アンビシャス」に始まる北大は,魂の起源を持つ数少ない国立大学であり,北大人はこのことに誇りを持って生きてきた。私自身もクラーク先生から数えて20代目の北大のリーダーであることに,重大な責任と密かな誇りを感じていたことも事実である。大学の教育研究システムを公的な機構として運用していく為には,「明確な目的を持ち」「踏むべき手順が明示され」「とるべき具体の手段が提案でき」「成果の達成度を何によって評価するかが明確である」ことが必要であり,それらを一連のものとして公に示す必要がある。
 新ミレニアムへの展開に際して,20世紀末の北海道大学が考えなければならない事柄の流れは二つあると考えた。第一は明治維新以来,札幌農学校に始まる近代成長型社会の先導走者であり,その中核的高等教育機関としての北海道大学であったことを,どのようにして地球環境制約時代(近代成長型文明が終わり,その次に来る時代)の始まる21世紀の新大学に,いかなる考え方で踏み出すかということである。俗な言葉で言えば,基底(原点)まで戻っての大学改革である。「何のための」「誰のための」「どのような時代展開のために」という点のない論議はだめである。端的にいうと,大先達の教えを玉条(ぎよくじよう)とせずに,導(しるべ)なき道を自らの知恵と力を振り絞って如何に歩き出すかということであり,もっと激しく言えばクラーク先生と新渡戸先生をどのようにして超えるかということである。第二は「都ぞ弥生の・・・」に唱込(うたいこ)まれ,一世紀以上にわたり10万人を越える卒業生と札幌市民に親しまれ愛されてきたエルムの大キャンパスの自然を,いかにして21世紀を通じて守り育て,その価値を時代に即し活用する道を後人のために拓くかという事である。いずれも,任期の内に形になるものではなく,次の人々に引き継がれる確実な土台を造ることが私の仕事であると考えた。

120周年前後に始まったこと
 私は,先任の広重 力総長とその前の伴 義雄学長の時代に工学部長と学生部長を務めた。本学でも大学院重点化による研究型大学院への展開と,教養部廃止と学部一貫化が展開しはじめていた。自律的な6年程の稠密(ちゆうみつ)な議論を踏まえ,重大な覚悟の上に,工学部長として1994年に工学部の大学院重点化を,大講座を核とする主専攻・副専攻方式によって進めることが出来た。教養部の廃止と関連して理学研究科を基盤に置いた地球環境科学研究科の創立と理学部の重点化が学内事情もあって先行していた。この重点化の動きは続き,私が総長を退く2001年までに総ての学部が大学院重点化を終えた。終期に重点化した幾つかの学部は本格的な自己改革のないまま,旧帝国大学の学部総てが大学院重点化するという流れの中で転換した。初期の重点化学部に比べて,旧い構造が残っていることがあり,これからも大きな議論と努力を求められるであろう。工学研究科も大講座を骨抜きにするような一律の分野(旧小講座)別運用に戻ったりするなど,大講座主任会議への大幅の議事委任による教授会運営との不妙などがこれからも本質的努力を必要としそうである。
 教養部の廃止は高等教育機能開発総合センターの設立で具体のものとなり,最後の中村耕二教養部長が初代の全学教育担当副学長となって発足した。2人副学長制度が発足し,3人になり大学法人になって5人となることの第一歩が始まった。四年一貫学部教育の実質化で教員の意識改革が大きく求められる。

キャンパス・マスタープラン等
環状通エルムトンネル
環状通エルムトンネル
 北海道大学が北十八条で南北に二分されていることが,21世紀の展開に際して桎梏(しつこく)となるであろうと考えていた。昭和初期から北十八条の都市計画道路が図上にあったが,大学内を大量の交通が通過することで教育研究環境が損なわれるとして反対が強く,伴学長自身が時の市長に断りに赴かれるということがあったと聴いている。北区の真ん中に東西交通をブロックして2kmにも近い交通障壁を札幌の市民に我慢してもらうのは良くないと考えていた。北海道開発庁次官,札幌市長,建設局長や水道局長などの卒業生が,トンネルで抜けて大学に迷惑を掛けぬ方向で検討したいと言ってくれたので,廣重総長の了解のもと金川獣医学部長を長とする近隣学部・専門家の検討会が作られ慎重な審議を進め,ゴーの評議会決定となった。私が総長時代の6年間にわたり設計・工事が進み創基125年に間に合うように完成し,エルムトンネルとして私の退任直後に落成した。詳細な打ち合わせをすべく卒業生(現札幌市収入役)を担当課長に指名するなど桂市長も十分の配慮をしてくださった。
 新北十八条道路の位置が21世紀の北大の東西基軸であり,その上に植えられた桂並木の新緑の先に手稲山がそびえる北大の新しい風景が創られつつある。水谷元農学部長の決断で第二農場を全学の計画にゆだねる旨の農学部教授会決定をもらったことからの長い検討を経て,平成9年2月の評議会で21世紀キャンパス・マスタープランを決めていただくことが出来た。エルムトンネルはその第一実現ともいうべきものである。個人の感傷を言えば,旧馬場(遠友学舎の位置)前のポプラ並木は昭和20年代半ばの学生時代に,腹を空か
創基120周年記念式典
創基120周年記念式典
しながら深い雪をこいで仰ぎ見,吹雪の中を通学した折りの明瞭な幻影として心に残る。今はない木々の揺らぎが遠友学舎の前にたたずむ時に瞼に浮かぶ懐かしい情景である。北キャンパスに獣医学部・低温科学研究所の整備が進み,道経連戸田前会長・堀前北海道知事他の皆様のご尽力と資金援助で3年も掛けて法律を改正して漸(ようや)く創られたコラボ北海道(第三セクターによる日本最初の国立大学内産学連携施設)以下の研究施設群や,本学の創成機構とそれら関連の協同研究施設群が続々と出来ることになった。最初にこの位置を提唱したときの反対は小さなものでは無かった。
 マスタープランの中核を成す南北軸線である北24条へ抜ける第二中央道路と北大周辺を緑のベルト(平成の杜計画)と歩道で繋ぐ計画は農場との調整で難航しているが,第二農場を全学の計画にゆだねることが決まって久しい今日,北キャンパスへの新教育研究機構の展開が21世紀の北大の命運を決めるであろうことの重みと緊急性を全学がもう一度反芻(はんすう)する必要があるように思われる。東大は柏キャンパスまで行って新機構を立ち上げ,今世紀を戦い抜こうとしている。北大には同じ大きさの北キャンパスがある。
 創基120周年記念事業が1996年(平成8年)10月7日を中心にして行われた。市民や学内に向けての各学部研究室等の一斉公開が,私が学部移行をした昭和27年以来ほぼ45年ぶりに行われた。市民・同窓生を招いての全学のシンポジュームや音楽会も行われた。これから大学が法人化していく際に市民の皆さんからの支持支援は改めて言うまでもなく大切であり,常日頃大学の中を見ていただく努力が必要に思う。エルムのキャンパスが整斉(せいせい)として市民に開かれていることが日常最大の貢献になる。広報室(建物)の予算化が出来ずにいたが,旧昆虫教室が空いて北大交流プラザ「エルムの森」(広報センター)が発足して喜んでいる。

ポプラ並木とサクシュコトニ川
新渡戸稲造先生の胸像
新渡戸稲造先生の胸像
 新渡戸稲造先生の胸像が120周年事業協賛会(堂垣内元北海道知事)から贈呈され,ポプラ並木東側の「花木園」で除幕され記念シンポジュームが行われた。先に述べたように,先生の徳と功績をたたえると共に,その時代をいかに超えるかが後輩の我々の責務であることを確認したかった行事でもある。像の位置は将来の北大の中心になるであろう場所を考えた。新渡戸先生の像は北大関係にそれまでは全くなく,これが始めてである。様々な像の案があったが,師のクラーク先生を超えるものの建立は弟子としてのご意志では無かろうと勝手に推察して,その形と大きさを定めさせていただいた。「I wish to be a bridge across the Pacific」という碑文を書かせていただいた。クラーク先生にはご自身の字があり中央ローンの像に刻まれているが,新渡戸先生のこの言葉の遺筆は無く私が代筆させていただいたことになる。北大に公式に残した小生のただ一つの字でもある。
 ポプラ並木のあまりの荒れように色々の方からご意見を頂いた。同期の農化昭30年卒の木村君も心配をしてくれた一人で,副社長をしていたKビール会社から応援を頂くことができ,新渡戸先生像の除幕に合わせて花木園の整備が出来た。ポプラ並木は北大のシンボルとして国中に知られているものであるが,農場からは厚遇を受けていたとは言い難い点もある。昭和28年秋の洞爺丸台風で何本もの木が折れたが修復が進まず(計画されず)市民からのアッピールがあって,時の杉野目学長の指示で補植が進んだと記憶している。私が工学部の3年生頃のことである。ポプラは100年位が寿命であるという。第一農場の古木は殆どその年令に近づいている。本格的な手入れをしなければ寿命はやがて尽きる。21世紀にも北大のポプラ並木をより立派に残したいと考えて,石山通りに開く西門から陸上競技グランドの南端までの平成ポプラ並木を計画し,総長を終える前の2000年の秋に125周年行事の先駆けとして,学内外の大勢の皆様と共に霙(みぞれ)の降る中に植樹をした。エルムトンネルの桂並木と共に新しい景観が近々20年ほどで出現するはずである。このポプラの苗木は,同期の名誉教授の五十嵐君(林学昭30年卒)が現役時代から農場のポプラの枝を演習林の苗圃(びようほ)に挿し木して育ててくれたものを植えさせていただいた。いわば我々が慣れ親しんだポプラ並木のクローンである。旧い並木にも新しい計画が必要であると思う,考えてほしい。
平成ポプラ並木植樹
平成ポプラ並木植樹
 サクシュコトニ川は北大のエルムの杜を支える母なる川である。豊平川扇状地が終わるところに数多くのの泉が,北海道神宮のほとりから植物園,苗穂JR駅周辺までの線上に湧いていた。泉の湧く所は扇の下流端円周であり,メムラインと言われる。国鉄函館本線はメム線に沿った平坦で地盤の良いところ走っている。メムはアイヌ語で泉のことで,北大キャンパスはメム線の下流(北)側にあり,基本的に湿地である。サクシュコトニ川は植物園・伊藤邸周辺のメムより発して,北大の土を湿らせ,エルムの杜を育てた。生協会館のすぐ南側にある清華邸は明治天皇行幸のお休み所であったと聴いているが,このメムは本邦さけます孵化所の嚆矢(こうし)であるとも言う。昭和の初めには鮭が上がってきたこともあった大先輩の館脇名誉教授(農)から伺うことがあった。昭和30-40年代のビル建築ラッシュと地下鉄工事などで扇状地の淺層部地下水脈が断ち切られ,植物園のメム,伊藤邸のメムなどサクシュコトニ川の水源が壊滅してしまった。現在の総合博物館(旧理学部)のまえに昭和の始めまで恵迪寮があった。寮生がスケートリンクをサクシュコトニ川のほとりに作った。今の大野池の始まりである。地下水温が冬でも高くて,凍結せず川との行き来を水門で切って凍らせたという。子供の頃,木の小水門を見た記憶がある。大学紛争時(昭和40年代始め)の工学部長大野先生(大戦中の零戦の機体設計者)の大型実験施設がこの池のほとりにあり,何時の頃か大野先生実験室横の池がつまって「大野池」と工学部の学生に通称されるようになった。ジンギスカンの盛り場である。子供の頃日暮れまで工学部裏の農場の川でトンギョを手ぬぐいですくったことを思い出す。手稲の後ろに日が落ちて家へ急いで帰ったものである。総長になって,仕事の一つとして百年掛けてもサクシュコトニ川を生き返らせ,エルムの杜を戻す仕事を始めたいと思った。大野池をサクシュコトニ川復活のシンボル的第一ステップとて,工事を進めてもらった。幸い今日,学内外の皆様に親しまれるスポットとなったことはうれしい。地名に大野と個人名をつけても良いかの議論が起こったが,先達や功績のある人の名を地名・建物名称に付けないのは日本人の狭量さの故であろうかとも思っていたので,工学部からの照会に結構ではないですかとお答えしたことを思い出す。
 本当にサクシュコトニ川が生き返るためには新水源がいる。また,寸断されてしまった学内の河道を繋ぐことがいる。水源については,開発局,札幌市が色々と検討して「水と緑のマスタープラン」に乗せて,豊平川から0.3立法メートル/秒という昔の創成川の1/3量という大変な水利権を確保してくれた。最終的には市内(例えば大通り)に水路・水景を作り,北大にまで引き込んでくれる計画である。桂前市長,加藤元開発庁次官のご尽力を多としたい。市は早速に測量などをして,荒あらの検討に着手してくれた。市の全体計画はそう簡単には進まないので,学内の旧サクシュコトニ川の復活にまず手を染めた。大野池を核にして上下流に復元を始めることになる。現在進行中の工事である。水利権は確保できたが,豊平川の水が市民を潤し,北大の南縁まで来るのは何時のことか判らない。当面の水源として,市の藻岩浄水場のきれいな処理排水を捨てずに引き込んでもらうことが出来るようになった。学生時代から退官するまで,日々実験してきた素性の知れた水である。そのことによって,中央ローンの循環型水路は連続した川になる。魚が住めるようにもなる。本格的に水が来るのは何時になるか判らないが,植物園を潤し,旧恵迪寮の杜の近くで雪解けに溢水して,水芭蕉や谷地蕗(やちふき)が咲いてくれるようになると思う。下流の河道を自然型に改修すれば,蘆あしも生え,よしきりが帰ってきて郭公の卵を抱いて(托卵して)くれるのではないかと夢を見る。21世紀の北大キャンパスの姿を市民と共に創り上げていってほしい。リスの走る北大を夢見たが,阿部名誉教授(農業生物学科)や医療技術短期大学の学生さん他のご尽力で幾匹もの蝦夷リスが放たれたが,カラスや野良猫にやられて未だことはなっていない。残念であるが,獣医の大秦司教授他の皆様が蝦夷リス育成・定着のNGOを立ち上げてくださった。有り難いことである。北大は蝦夷地の中核大学であり,世界大学である。キャンパスもそれにふさわしいものであってほしい。
続編についても寄稿として掲載させていただく予定です。(総務部総務課)

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