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春の叙勲に本学から8氏

 このたび,本学関係者の次の8氏が平成18年度春の叙勲を受けました。
勲  章 経  歴 氏  名
瑞宝中綬章 名誉教授(元教育学部長) 狩 野   陽
瑞宝中綬章 名誉教授(元工学部) 加 地 郁 夫
瑞宝中綬章 名誉教授(元理学部) 八 木 康 一
瑞宝中綬章 名誉教授(元農学部) 高 尾 彰 一
瑞宝中綬章 名誉教授(元工学部) 八 鍬   功
瑞宝双光章 元附属図書館事務部長 酒 井   豊
瑞宝双光章 元工学部事務部長 鈴 木 信 雄
瑞宝単光章 元北海道大学病院看護部副看護部長 柿 沼 正 代
 各氏の長年にわたる教育・研究等への功績と我が国の学術振興の発展に寄与された功績,あるいは医療業務等に尽力された功績に対し,授与されたものです。
 各氏の受章に当たっての感想,功績等を紹介します。
(総務部広報課)

○狩 野   陽(かのうみなみ) 氏
○狩 野   陽(かのうみなみ) 氏
 このたびの受賞を恐縮に思い,推挙いただいた皆様のお骨折りを深く感謝いたします。
 未だ旧制であった大学に入学し,教職を退くまで56年,思わぬ長い大学の時を過ごしました。
 昔,少年であった私に,父が,突然,大学で教授になってはどうかと申したことがありました。それは何をするのかとの私の問いに,父は「用の無いことをする」と答え「己に反して誰にも頭を下げずに済む」とつけ加えました。
 大学なるものが私に入ってきた始まりでしたが,いくばくかして父は急逝し,私には,むしろ大学の職につくのを躊躇(ためら)う気持ちが生じ,長く続きました。
 戦中,戦後の人心の変動と変わらぬものに接しながら,私は世の人々の健常な心性と多彩な精神症状を発呈する病者の振る舞いと思想の高次の思考体系に生起しているものを同一の射程で考えようとしていました。その中で,多くの精神病者に出会い,治療に関(かか)わりました。
 その頃,少なからぬ学友が結核を病み,あるいは自ら制し難い精神的失調の渦中に陥りました。命を絶った学友を含めての彼らの希いと奥田三郎教授そして留岡,城戸両教授の粘り強い慫慂(しょうよう)で私は大学の道を歩み始めました。
 教育学部は,城戸学部長の構想の下で,道民自らの力で開発に向かう教育計画の作成と人材の育成の活動を始めていました。社会の事実の教育科学を志向し,その歴史と制度,学校と社会,産業の訓練,生活福祉,貧困,児童発達から障害児の臨床等にわたる実態を調査し,方策を検討して教育計画を立案し,実施と過程を精査する活動でした。
 私たちの課題は,先(ま)ず,発達障害児の臨床と教育にありました。養護と教育の施設は増加しつつありましたが,障害児が何であり,いかに成長を助けるかは不明であり,その科学も治療学も教育学も未熟でした。
 私たちは障害児をふくめて人が環境刺激を受取り,適応する,認知と学習の基礎活動の解明から始める必要がありました。
 課題とする知覚刺激以外の環境刺激条件を,できる限り安定させた状況で,種々の意識水準に応じて認知が成立し,その認知過程が後続の反応に及ぼす仕組みを,被験者の反応を感覚―脳―動作の生理学的計測の資料と照らし合わせて解析にとりかかりました。認知―学習の微視発生的接近でした。
 今の情報基盤センターの位置にあった旧医学専門部校舎の教室の床を打ち抜きコンクリートブロック,吸音内壁の大きな実験室を造り,被験者の視野を覆うサンドブラストしたアクリル樹脂ドームに課題刺激を投影し音響を操作し,脳波,誘発電位,眼球運動,血流,筋電位,皮膚微細振動等を計測し,刻々の認知―学習の反応を分析しました。
 1960年代,わが国のエレクトロニクス産業は発展中で,生体の計測機器は科学研究費より桁違(けたちが)いに高く,未だ欧米学者の認知度は低く,国際誌のレフェリーや研究者から測定機器の信頼性を問われるのが常で,挙証が必要でした。
 教育の科学に一つの歩みを進めつつも,かかる接近は多領域にわたる研修と統合,新たな展開を要し,教室の人達や大学院生に過大な負担を強いるのではないかが私の危惧(きぐ)でした。
 教室の今は亡き着実な担い手の当時の記述に後年,接し,やや心安まる思いがしました。
 「熱気が研究室に充満していた。こういう表現は昔を語る常套句(じょうとうく)の一つではあるが,実際あの頃は熱気が研究室に充満していた。―中略―あの頃の熱気は未分化の混沌(こんとん)の中の,火山の噴火口の熱気のごときものであった。」

略 歴 等
生年月日 昭和2年5月19日
昭和26年3月 北海道大学文学部卒業
昭和27年3月 北海道大学文学部大学院中退
昭和30年3月 東京大学文学部大学院中退
昭和31年11月 北海道大学教育学部講師
昭和41年11月 北海道大学教育学部助教授
昭和46年2月 北海道大学教育学部教授
昭和47年1月 北海道大学評議員
昭和49年8月
昭和52年9月 北海道大学教育学部長,教育学研究科長,評議員
昭和56年8月
昭和58年6月 北海道大学評議員
昭和62年5月
平成3年3月 北海道大学停年退職
平成3年4月 北海道大学名誉教授
平成3年4月 札幌学院大学教授
平成7年4月 札幌学院大学社会情報学部長
平成10年3月
平成10年4月 札幌学院大学長
平成16年3月
平成16年3月 札幌学院大学退職
平成16年4月 札幌学院大学名誉教授

功 績 等
 同人は,昭和2年5月19日北海道に生まれ,昭和26年3月北海道大学文学部哲学科を卒業し,北海道大学文学部大学院,東京大学文学部大学院を経て,昭和31年11月に北海道大学教育学部講師に採用されました。昭和41年11月には北海道大学教育学部助教授,昭和46年2月には同教授に昇任し,教育学科特殊教育講座を担当しました。この間10年余にわたり北海道大学評議員,昭和52年9月から昭和56年8月まで北海道大学教育学部長,北海道大学大学院教育学研究科長を務めました。大学運営の枢機に参画するとともに,同氏が教育学部長として在任していた昭和53年4月には,教育学部に附属乳幼児発達臨床センターを全国で初めて設置するなど,学部および大学院の運営・整備充実に尽力しました。平成3年3月停年により北海道大学を退職し,同年4月より札幌学院大学教授に就任しました。平成7年4月より平成10年3月まで同大学社会情報学部長を務め,さらに平成10年4月より平成16年3月までは同大学学長を務めて管理運営に尽力しました。両大学に対する長年の貢献により,平成3年に北海道大学名誉教授,平成16年には札幌学院大学名誉教授の称号を授与されました。
 同人は永年にわたって,臨床心理学領域における教育と研究に努めました。北海道大学教育学部に初代教授奥田三郎氏の要請に応(こた)えて赴任すると,臨床心理学を客観の学として擁立することに意を注ぎました。ひとの心理的適応のありさま,特に対象とこころの関(かか)わりの強さを,視知覚系の働きを通して分析する方法論を立て,その指標として脳波を導入し,基礎実験を実施して貴重な知見の数々を明らかにしました。また脳波分析から発展した誘発電位技法を国内でいち早く導入し,生理心理学的研究を進展させました。特に慣れの進展を,学習の進行を示す心理・生物学的過程であると位置づけ,脳波・誘発電位を指標としてこの過程と心理臨床の治癒における機序の有機的関係の解明に努めました。このように同人は,臨床心理学の基礎となる局面を確かなかたちで築きあげることに貢献しました。
 また同人は,臨床に携わる人々を育てることに意を用い,40年余にわたり臨床心理学の奥義を講じ有為の人材を育てました。臨床現場をめざす若き学徒らに対し,ひとの心に対する止(や)みがたき思いを学問によって止揚しつつ関わることについて論じました。治療者自らの治療態度を吟味し,従来の技法にとらわれない臨床的人間関係を保全することを求めました。教授はひとりひとりの良さを丁寧に認め,学生らはその中で古典に学び論じあうことの意義を感得しました。現在,その多くが北海道内外の大学教授,児童相談所等の行政諸機関の要職にあり,人材育成ならびに臨床実践や行政的管理に活躍しています。
 また同人は,札幌学院大学において社会情報学部長,さらに学長を2期にわたって務め,社会連携センター,大学院地域社会マネジメント研究科ならびに臨床心理研究科等の創設に尽力し,大学の社会貢献に大いに寄与しました。
 以上のように,研究・教育・社会貢献の各局面において,同人の功績はまことに顕著です。

(教育学研究科・教育学部)


○加 地 郁 夫(かじいくお) 氏
○加 地 郁 夫(かじいくお) 氏
 このたび,春の叙勲の栄に浴することができ身に余る光栄です。これも北大応用電気研究所,北大工学部数物系共通講座,電気工学科,情報工学科,原子工学科に在職中にご指導,ご鞭撻(べんたつ)を賜りました恩師,先輩,同輩の方々からのご指導,ご支援によるものと深く感謝しております。
 私は昭和26年3月北大理学部数学科を卒業し,同年4月北大応用電気研究所数学部門に助手として採用され,それ以来38年間北大の職員一筋に生活して参りました。この間いろいろな事がありましたが,いまになると懐かしいことばかりです。顧り見ますと,応電に通うようになった頃は,応電の前の並木は今の貫禄(かんろく)のある銀杏並木ではなく,桜並木であったように思います。戦後,間も無くの頃でキャンパスにも木造の建物が多かった時代です。工学部も由緒ある木造の建物でした。応電での10年間は電気工学の数理を諸先輩のご指導のもとに学ぶことができ,本当に有意義な生活でした。昭和36年,小沢保知先生が担任されている応用原子核講座に勤務することになりました。当時,小沢先生は工学部に原子工学科を設立するための仕事に忙殺されながらも,これからの分野の研究・教育体制について非常な熱意をもって構想を練っておられました。私は先生から研究の進め方や心構え,教育のあり方などについて多くのお教えを賜ることができ有難く思っています。当時の教室のテーマの一つである線形電子加速器の建設・研究で初めてビームが出たときの興奮と喜びを昨日のことのように覚えています。昭和40年からは助教授として共通講座(工業力学第一,工業数学)で数物系学科の学生さんを対象に工業数学の講義や,物理実験の指導に当たりました。時あたかも工学部の大膨張期のはしりの時代で,各科の学生さんに大講堂で慣れない多人数講義をせざるを得ず,学生さんも大変だったと思います。この間教授に昇任し,応用物理学科に移られた小田島晟先生の後を受けて工業数学講座を担任しました。また,44年には電気工学科に新設された系統工学講座担任教授になり,システム工学の研究・教育を主たる責務とすることになりました。この分野は,私にとって今までの経験がそのままでは役に立たない急速な体系化が行われている学問分野であり,使命を果たすには,調査・研究しなければならない多くの対象があり,私一人の力では及ばぬものと考えられましたが,講座所属の大学院学生の諸君をはじめ職員全員の強い結束のもとで比較的短期間で電気科のカリキュラムに合わせる準備を調えることができました。さしあたりの研究テーマとして大型機を含む「システム問題に対する計算機利用」を選び,順次に各種最適化技法,待ち行列網とその応用,新しい構想によるシステム・モデリング,システム理論と応用,確率過程などの分野にテーマを拡(ひろ)げていきました。協力して頂いた院生の中から多くの方々が学位を取得され,現在社会の多方面で大活躍をしておられます。更に,初期の院生の方々から,工学研究科・工学部,また他大学で枢要の立場で重責を担っておられる方が何人もおられます。このことは私にとって最大の喜びでもあり,誇りでもあります。その後,私は工学部に新設された情報工学科のシステム工学講座担任を命ぜられ,平成元年3月に北海道大学を停年退職し,同年4月北海道大学名誉教授の称号を授与されました。同年4月から北海道工業大学電気工学科教授として,同学科のシステム工学・情報部門の教育・研究にあたり,平成8年3月に北海道工業大学を停年退職し,同年4月北海道工業大学名誉教授になりました。最後に,北海道大学工学研究科ならびに工学部の今後益々(ますます)のご発展を祈念して筆を置かせていただきます。

略 歴 等
生年月日 大正15年1月3日
昭和26年4月 北海道大学応用電気研究所助手
昭和36年6月 北海道大学工学部講師
昭和40年6月 北海道大学工学部助教授
昭和44年1月 北海道大学工学部教授
平成元年3月 北海道大学停年退職
平成元年4月 北海道大学名誉教授
平成元年4月 北海道工業大学電気工学科教授
平成2年4月 北海道工業大学情報技術センター長
平成8年3月

功 績 等
 同人は,大正15年1月3日北海道に生まれ,昭和26年3月北海道大学理学部数学科を卒業し,同年4月北海道大学応用電気研究所助手,昭和36年6月北海道大学工学部講師,昭和40年6月北海道大学工学部助教授を経て,昭和44年1月北海道大学工学部教授に就任しました。この間,昭和38年,昭和45年および昭和49年には名古屋大学プラズマ研究所研究員を併任,また昭和45年より昭和47年まで電気工学科演算工学講座,昭和58年より昭和62年まで電気工学科電気磁気学講座を兼担し,電気・情報系学科におけるシステム工学分野の発展に尽力され,平成元年3月31日限り停年により退官され,同年4月北海道大学名誉教授の称号を授与されました。
 この間,同人は永年にわたって,プラズマ工学,システム工学などに関する教育,研究に従事しました。昭和36年以降の同学部に在職中,学部においては工業数学,システム工学,電気工学実験などを,大学院工学研究科においては情報論特論,数値計算法特論,電気工学ゼミナール,電気工学特別実験,情報工学ゼミナール,情報工学特別実験などの講義,演習を担当するとともに,実験および研究の指導にあたり,学部学生165名,大学院学生76名,留学生3名の技術者,研究者の育成に貢献されました。また,北海道工業大学,武蔵女子短期大学の非常勤講師として広く,本学部以外の学生の情報工学に関する教育にも尽力されました。研究面においてはプラズマ工学,原子工学,システム工学,計算機利用工学に関する広範な研究分野に取り組み大きな業績をあげました。
 同人は,特に研究面で,昭和36年より従事したプラズマ工学,原子工学の分野では核融合プラズマの微視的不安定性,磁気閉じ込めの安定性に関する先駆的な研究を行い,さらに,パルス状放射線計測・原子炉制御などの研究に従事し,これらの業績は高い評価を受けています。この間,昭和43年9月「非等方的速度分布をともなうプラズマの微視的不安定に関する研究」により北海道大学から工学博士の学位を授与されました。
 さらに,昭和44年電気工学科系統工学講座へ所属換えとなってからシステム工学の研究を開始し,爾来(じらい)20年にわたり,コンピュータを利用した高度情報処理技術を駆使し,システム最適化法の研究,待ち行列網のシステム論とその応用,コンピュータ支援のもとで効率的かつ最適なシステム構築を行うためのシステム構築サポートシステムに関する研究に情熱を傾けられました。システム最適化法の研究においては,電力系統工学における火力発電機群の最適起動停止問題や原子炉最適炉停止問題,原子炉最適出力変更問題などの工学システムの最適化について研究し,この分野の先駆的な研究を行いました。また,費用関数が二次関数で表現される最適輸送問題に対し効率的算法を与え,それまで解けなかった大規模輸送問題を解き,内外で注目されています。待ち行列網のシステム論とその応用に関する研究成果としては新交通システムのトラヒック解析の研究があります。これは,個別軌道輸送システムと呼ばれる新交通システムの駅部,交差点,及びネットワークにおけるトラフィック現象の待ち行列論的な解析により,システムの最適なコンピュータ制御方式を確立したものであり,多岐かつ多数にわたる研究成果とその独創性は高く評価されています。最後に,システム構築サポートシステムに関する研究成果としては内外でも高く評価されている構造モデリング法の研究があります。これは人間の頭脳の中にある曖昧模糊(あいまいもこ)とした対象をコンピュータを対話的に利用して具象化し,分類整理するものであり,システム工学のみならず,知識工学における知識構造のモデリングへ応用できるものとして注目されています。
 また,学内においては,北海道大学大型計算機センター運営委員会委員,直接発電実験施設運営委員会委員,北海道大学大学院委員会委員を務めるなど北海道大学と工学部の発展に貢献されました。さらに,学外においては,全国大会実行委員長等を歴任し学術の発展に大きく貢献されました。また,運輸経済研究センター「メディアターミナル整備促進調査委員会」委員長,中小企業事業団・中小企業研究所研究事業検討会委員,札幌鉱山保安監督局深部総合対策部会調査員,日本オペレーションズ・リサーチ学会新社会システム研究会部会長として社会システム問題に参画し,地域社会に大いに貢献しました。
 定年退職後はさらに7年間北海道工業大学において電気工学科のシステム工学,情報工学部門を担当し,学生の教育および研究に尽力され,さらに,同大学の情報技術センター長を務めるなど同大学の発展に寄与されました。
 以上のように,同人は,教育面において多くの優れた人材を育成し,我が国の産業の発展に大きく貢献しました。また,研究面においてプラズマ工学,システム工学などを中心とする学術研究上の活発な諸活動に加え,北海道大学の運営,産業界,地域社会における貢献など,その功績はまことに顕著です。

(工学研究科・工学部)


○八 木 康 一(やぎこういち) 氏
○八 木 康 一(やぎこういち) 氏
 このたびの叙勲において,受賞の栄によくしました。これは北海道大学においてお世話になった,諸先生・同僚と学生諸君および事務・技術職員の皆さまのお陰と思っております。厚く御礼申し上げます。
 第2次世界大戦が終わる直前の4月,理学部地質学鉱物学科へ入学しました。植物化石の大石三郎教授をはじめ立派な先生たちがおられて学科は充実していました。廊下のガラス棚にあった大きなアンモナイトの化石は,新鮮な驚きでした。しかし,地質学を学んで新疆省から西へ行こうという夢は,敗戦で消えました。
 生物がどういうものかよく知らないまま,生物化学を手段にして研究しようと理学部化学科へ転入学し,卒業。化学科教養課程の学生実験担当助手に採用されました。それ以来40年ちかい長いあいだ化学科・化学第二学科のお世話になってきたことになります。
 生物化学の実験は理学部の山下生化学研究室ではじめました。この建物はもうありません。田所哲太郎教授の友人で農学部出身の山下太郎氏が,満州太郎と呼ばれていた頃,理学部に寄付されたものです。建物の雨漏りなどで何度かお訪ねしたときの山下太郎氏のお人柄は忘れられません。そのご,この建物では化学科の渡辺静雄と触媒研究所の殿村雄治のお二人が,筋収縮の研究を協同ですすめておられました。このグループに参加して研究を始めることができたのは幸運でした。しかも,夏になると名古屋や東京の医学・生物学や物理の若い研究者が山下研究室へ実験にきました。色々な視点とアプローチのあることを教えられました。恵まれた研究環境だったと思います。
 渡辺・殿村両先生がそれぞれダートマス医大・大阪大学へ移られたあとも,盛田・矢澤両教授をはじめすぐれた仲間に恵まれて研究を展開してくる事ができました。
 定年のあとも,アメリカのNIHで遺伝子をあつかう機会を与えられ,北海三共(株)でも実験することができたので,日本のアツモリソウの遺伝子による分類を続けてきました。最近,アツモリソウを目印にして,日本列島が生まれたいきさつを追求したいという気持ちになっています。むかし地質の学生だったころに戻ったようです。
 考えてみると,内外のたくさんの研究仲間に恵まれ,支えられてきました。心から感謝しています。

略 歴 等
生年月日 大正15年1月5日
昭和24年3月 北海道大学理学部卒業
昭和27年4月 北海道大学理学部助手
昭和33年5月 理学博士(北海道大学)
昭和35年2月 北海道大学理学部講師
昭和37年12月 北海道大学理学部助教授
昭和41年4月 北海道大学理学部教授
平成元年3月 北海道大学停年退職
平成元年4月 北海道大学名誉教授
平成元年4月 酪農学園大学嘱託教授
平成8年3月 酪農学園大学嘱託教授退職
平成元年4月 (株)北海三共研究所研究員
平成16年3月

功 績 等
 同人は大正15年1月5日小樽市に生まれ,昭和24年3月に北海道帝国大学理学部化学科を卒業,引き続き同大学大学院に進学,昭和27年4月同大学理学部助手に任ぜられました。昭和33年5月には「ほたて貝柱筋の収縮性蛋白質(たんぱくしつ)特にMyosin Bの組織に就て」の研究により,北海道大学から理学博士の学位を授与されました。同人は助手在職中に昭和31年より3年間,米国ワシントン大学医学部,ダートマス医科大学に留学し,腎臓(じんぞう)の細胞化学的研究および筋肉の酵素化学的研究に従事しました。帰国後,筋肉の生化学的研究を再開しました。
 昭和35年2月同大学講師,昭和37年12月助教授を経て,昭和41年4月に教授に昇任し,平成元年3月北海道大学を停年退官後,同大学名誉教授の称号を授与されました。引き続き,酪農学園大学嘱託教授に就任し平成8年3月同大学を退職,以後平成16年3月までは(株)北海三共研究所研究員として植物の分子生物学的研究に従事し,同社を退職後現在に至っています。
 この間,同人は永年にわたって,筋肉の収縮機構に関する生化学的研究に取り組んできました。特に,筋肉の収縮蛋白質ミオシン分子の研究では筋肉の収縮に必須(ひっす)の役割を果たすミオシン分子の機能部位断片(サブフラグメント-1,S-1)の分割と精製に成功した成果は特筆に値します。同人が開発したキモトリプシンを用いてS-1を単離する方法は,その後世界中で広く採用され,ミオシンの作用機構と筋肉の収縮機構の研究に大きく貢献してきました。また,ミオシンがリン酸化され,このリン酸化が筋肉の収縮調節に関与しているという可能性が報告された時点で,このリン酸化酵素の研究を開始し,この酵素の活性はカルシウムイオンと,低分子量蛋白質とが共存するときにのみ検出できるという発見への道筋をつくりました。このとき研究室で発見された低分子量蛋白質は,細胞内カルシウムイオン濃度が上昇したときにカルシウムイオンを選択的に結合しリン酸化酵素を活性化するということが明らかになり,刺激により筋肉が収縮するときに細胞内カルシウムイオン濃度が上昇するというそれまでの生理学的な知見を合わせてミオシンのリン酸化が筋肉を収縮させるスイッチの働きをするという仮説に発展しました。この仮説は,平滑筋の収縮調節の基本的機構として現在広く受け入れられています。カルモジュリンと命名されたこの低分子量蛋白質に関する研究はさらに発展しました。カルモジュリンは脳で機能するホスホジエステラーゼの活性も同様に調節することを大阪大学のグループとの協同研究で明らかにし,カルモジュリンは,これらの酵素の活性化に携わる共通のカルシウム結合蛋白質として機能することを明らかにしました。この研究が契機となり,カルモジュリンが様々な蛋白質にカルシウム依存性を付与する共通の蛋白質因子であることが明確になりました。筋肉にとどまらず,刺激に対する細胞の応答・活性化には細胞内カルシウムイオン濃度の一過的な上昇が先立ち,カルシウムイオンがカルモジュリンに結合することで多くの種類の酵素が活性化され細胞が刺激に応答するという「細胞機能のカルシウム調節」の概念の確率に大きく貢献しました。この後,研究対象はミオシンからカルモジュリンの構造機能相関に移り,分子構造とカルシウム結合,標的酵素活性化の機構解明の研究に貢献しました。このように,筋肉収縮蛋白質ミオシンの研究に始まり,収縮の制御機構の研究を経て細胞機能のカルシウム調節機構の解明へと発展した業績は国際的に高く評価されています。これらの成果に対して,昭和38年度朝日学術奨励金,昭和47年内藤記念科学奨励金が授与されました。
 同人は,北海道大学の学生・大学院学生の教育および研究指導はもちろんのこと,一般社会人に対しても多くの助言や指導を惜しまず,同人の指導を受けた多くの研究者が,各機関で活躍中です。また,当時の教養部の学生に対する教育の重要性を指摘し,教養部において「生命現象と生化学」という総合講義を企画担当し,一方で,北海道大学の生命科学系の大学院学生を対象に全学レベルの「生化学共通講義」を企画担当し,若い学生たちに生命現象に対する興味を喚起することに大いに貢献しました。また,若い世代に国際性を学ばせることを目的として,外国人研究者の招待や,国際会議の主催を積極的に行いました
 北海道大学に勤務する傍らで,学外にあっては,学術審議会専門委員,日本学術振興会専門委員,大阪大学蛋白質研究所運営協議会専門委員会委員,日本生化学会Journal of Biochemistry誌編集委員,日本生化学会北海道支部長等を歴任し,また,北海道大学内にあっては公開講座委員会委員,大学院委員会委員などを務め,大学行政上においても多方面にわたる貢献をしました。
 以上のように,同人は生化学の分野における優れた研究業績によって学術上の進歩に寄与するところまことに大であるとともに,教育上および行政上の功績も顕著です。

(理学院・理学研究院・理学部)


○高 尾 彰 一(たかおしょういち) 氏
○高 尾 彰 一(たかおしょういち) 氏
 このたび,春の叙勲の栄に浴しましたことは,誠に光栄なことと存じます。叙勲に際しましてお世話いただいた方々に,まずお礼を申し上げます。
 私は昭和23年,北大農学部農芸化学科を卒業後,直ちに同学科の応用菌学講座に助手として勤務し,その後同講座の3代目教授として長く務めてまいりました。
 1915年(大正4)に同講座を創設された半沢洵先生,さらに私の直接の恩師である2代目教授の佐々木酉二先生にまず心から感謝の意を表し,あわせてご支援,ご協力いただいた教室のスタッフや卒業生などの多くの方々にもご厚礼申し上げたいと存じます。
 ところで同講座には両先生の長年にわたる研究を通して収集されたカビ,酵母,バクテリアなどの微生物が数千株もあり,それらの中には他大学の研究室に見られない種類も数多く保存されていました。
 そこで私はこれらの菌株を中心に,新たに自然界から分離した多数の菌も加え,従来全く対象とされなかった微生物について,多年にわたってそれらの未知の有用機能を追求してきました。
 その結果,1)これまでは嫌気的代謝であるアルコール発酵にばかり注目されていた酵母が,好気条件では有用有機酸であるグルコン酸を量産すること,2)ある種の酵母が酢酸からビタミンB2を多量に生産すること,3)従来,代謝の研究が全く手がけられていなかったキノコの中に,蓚酸(しゅうさん)やリンゴ酸,青い色素のインディゴなどを生産するもののあることを発見しました。なお,このような研究は,当時,国内はもとより世界でも全く行われておりませんでした。
 さらに新たな研究として,冬の寒冷地で特に問題となる澱粉(でんぷん)工場や水産加工場の排水処理について,微生物学的研究を進めました。この分野では,それまで工学的研究があるのみでした。その後,全国の大学の先生方に「微生物による環境浄化」を提案し,やがて文部省の特定研究として採用され,多大の成果をあげることができました。
 次は全く新しい発想による転換発酵であります。従来のさまざまな発酵は,いずれも1種類の菌だけで行われてきました。しかし,この発酵は種類の違った微生物を組み合わせ,より一層有用な化合物を生産しようとするもので,このような方法は世界でも全く試みられていませんでした。そこで,この発酵に対して新たに“転換発酵”と名付け,実験の結果,種々の有用化合物が得られました。
 研究のかたわら,入学試験実施の責任者,国際交流委員長,評議員など,北大全体にかかわる重要な仕事に従事でき,他学部の先生方と親しくさせていただいたのは幸せなことでした。
 さらに専門分野である微生物対象のバイオテクノロジーについて,世界の国々と密接な交流を進め,とくに中国や東南アジア諸国で積極的な指導も進めてきたことを,なつかしく思い出しております。
 一方,国内でもバイオや食品関連の各種研究会のまとめ役となり,特に北海道で実現をみた道立食品加工研究センターの設立委員長を務めるなど,地域の振興にも深くかかわることができました。
 筆をおくにあたり,四季の移ろい豊かなキャンパスでの,学生時代を含めて四十数年に亘る過ぎし日をかえりみつつ,北大の益々の発展を祈念しております。

略 歴 等
生年月日 大正15年1月22日
昭和23年3月 北海道帝国大学農学部農芸化学科卒業
昭和23年6月 北海道大学農学部助手
昭和30年12月 北海道大学農学部助教授
昭和36年7月 農学博士(北海道大学)
昭和45年9月 北海道大学農学部教授
昭和60年8月 北海道大学評議員
平成元年3月
平成元年3月 北海道大学停年退職
平成元年4月 北海道大学名誉教授
平成元年4月 酪農学園大学嘱託教授
平成9年3月

功 績 等
 同人は,大正15年1月22日北海道夕張町に生まれ,昭和23年3月北海道帝国大学農学部農芸化学科を卒業後,同年6月北海道大学農学部助手に採用されました。その後,昭和30年12月助教授,昭和45年9月教授に昇任,応用菌学講座を担当されました。平成元年3月停年退職され,同年4月北海道大学名誉教授の称号を授与されました。同大退職後の4月からは,酪農学園大学嘱託教授に就任,平成9年3月に退職され,現在に至っております。
 この間,同人は一貫して,応用菌学の教育,研究に努められました。大正4年応用菌学講座が開設されて以来,収集・保存されてきた数千株にのぼる微生物標本を中心に,様々な微生物について,その未知の有用機能の開発を追求されました。これらの研究の中で,北海道産果実から分離された酵母に,培養液中に多量のリボフラビン(ビタミンB2)を生産する酵母を発見され,この研究成果をとりまとめた「Candida robustaのリボフラビン生合成に関する研究」に対して,昭和36年7月,北海道大学から農学博士の学位を授与されました。また,酵母の好気的糖代謝,担子菌(キノコ)の液体培養による代謝,カビを対象とした非糖質炭素源の利用など,従来目が向けられていなかった研究を手がけられ,数々の有用な化合物を生産させることに成功されました。さらに,一種類の微生物の純粋培養ではなく,種類の異なる微生物の混合培養によって,一種の菌では生産され難い各種の有機酸やアミノ酸などの有用化合物を大量に得る,転換発酵法と呼ばれる新しい手法を開発されました。また,微生物によるセルロース,生デンプン,イヌリンなどのバイオマス資源の有効利用についても積極的に研究を進められました。以上の成果は諸外国の専門書にも引用され,我が国のバイオテクノロジーの最大学会である日本農芸化学会から,昭和60年4月,その最高賞である鈴木賞が授与されております。
 学外においては,昭和63年4月から平成元年3月まで大阪大学工学部(附属生物工学国際交流センター)教授を併任され,昭和61年中国の無錫軽工業学院から,我が国の研究者として初めて名誉教授の称号を受けるなど,微生物利用のバイオテクノロジーの面で,特に東南アジア諸国,中国などとの学術交流を推進されました。日本農芸化学会評議員,同学会北海道支部長,日本発酵工学会評議員を歴任され,学会の発展のため尽力されました。また,道内外の多くのバイオテクノロジー関連委員会や関連団体の長を歴任され,これらの業績により,平成元年2月,北海道科学技術賞,さらに平成13年9月,北海道功労賞を受賞されました。
 以上の様に,同人は,永年に亘って学術の振興,教育,大学の管理・運営のみならず国際交流の推進,地域社会の振興についても多大な貢献を果たし,従ってその功績は極めて顕著であります。

(農学院・農学研究院・農学部)


○八 鍬   功(やくわいさお) 氏
○八 鍬   功(やくわいさお) 氏
 このたびはからずも平成18年春の叙勲の栄に浴しましたことは,長年にわたりご指導,ご鞭撻を賜りました恩師,先輩ならびにご協力,ご支援をいただいた多くの方々のお陰によるものと心から厚く御礼申し上げます。
 私は昭和25年北海道大学理学部物理学科を卒業し,直ちに工学部理学第一講座の助手に採用されました。当時池田芳郎先生は工学部と理学部を兼担されており,両学部の池田教室は研究,教育の面でも密接に協力し合っておりました。研究分野は多様で,池田先生をはじめとする応用数学,理学部の添谷先生をはじめとする物性物理,工学部を中心とする応用流体と,それぞれの分野で活発な研究が行われておりました。
 工学部では福島久雄先生のご指導の下,一貫して流体に関係ある自然界の物理現象を研究対象としておりました。北海道にはまだ人工的に手のつけられていない自然が残っていて,研究対象として興味ある現象が多いとおもわれたし,何よりも教室に実績があり,優秀なスタッフが揃(そろ)っていて,大抵のことには適切に対応することができました。
 はじめに手掛けたのは,河川の水温日変化とその流体力学的特性との関係で,河川それぞれの,または同一河川でも上,中,下流の流況によって水温変化の振幅と位相が特徴づけられることを理論的に導き,結果を実河川の水温観測によって確かめました。研究をはじめた当初は水温の問題は主に農学の方面で取り扱われており,工学では主たるテーマではありませんでしたが,その後火力発電所や原子力発電所が建設されるようになると温排水の水温の問題がクローズアップされてきました。赤潮や河川の汚濁など環境問題にも,水温は水質に関する基本量の一つとなり,その研究,調査が各方面で行われるようになりました。
 もう一つのテーマは河川塩水楔の問題でした。潮差の小さい河口では,塩淡水の密度差によって二層流が生ずることは福島先生がはじめて指摘されましたが,超音波を用いた記録法によって塩水楔の観測が短時間にしかも精密にできるようになりました。石狩川や天塩川河口など多くの観測の結果,塩水楔の挙動と河川の流況や川底地形との関係が明らかになりました。
 湖水や貯水池内に生ずる温度躍層は,水温上昇と密度成層とが重複した自然現象です。夏季に発達した躍層は秋季には消滅して上下層同一温度になりますが,躍層の位置や表層の温度は湖水の規模や外界の熱的条件によって異なります。それらの要素を考慮した解析により躍層の位置や上下層の水温の予測が可能となりました。
 網走湖のように河川によって海と連結している湖水では,塩水の流入によって複雑な構造の密度躍層が形成されます。温度躍層と塩淡水の密度差とを合わせて考察することによって,この密度成層現象は解明され,その成果は網走湖の水質汚濁問題の原因究明にも適用されました。
 このように流れの自然現象は学問的にも興味があり,また実社会に影響するところ極めて大きく,やり甲斐(がい)のある研究テーマでした。
 最後にこのたびの叙勲に際して労をお取り下さいました北海道大学の皆様に厚くお礼を申し上げますとともに,北海道大学の益々のご発展を祈念いたします。

略 歴 等
生年月日 大正15年1月28日
昭和25年5月 北海道大学工学部助手
昭和26年5月 北海道大学理学部助手
昭和31年1月 大阪市立大学理工学部助手
昭和31年4月 大阪市立大学理工学部講師
昭和33年4月 北海道大学工学部講師
昭和39年4月 北海道大学工学部助教授
昭和49年4月 北海道大学工学部教授
平成元年3月 北海道大学停年退職
平成元年4月 北海道大学名誉教授
平成元年4月 釧路公立大学教授
平成6年3月
平成3年4月 釧路公立大学経済学部長
平成6年3月

功 績 等
 同人は,大正15年1月28日山形県に生まれ,昭和25年3月北海道大学理学部物理学科を卒業し,同年5月北海道大学工学部助手に採用されました。翌26年5月同大学理学部助手となり,昭和31年1月大阪市立大学理工学部助手として転出し,同年4月同学部講師に昇任されました。昭和33年4月北海道大学工学部講師に迎えられ,同39年4月,助教授に昇任されました。昭和49年4月教授に昇任され工学部共通講座理学第一講座を担任し,流体力学の応用分野の発展に尽力され,平成元年3月31日限り停年により同大学を退官され,同年4月北海道大学名誉教授の称号を授与されました。また,平成元年4月釧路公立大学教授に迎えられ,平成3年4月から経済学部長を務められ,平成6年3月31日限り停年により同大学を退官されました。
 昭和33年以降の北海道大学在職中,学部においては工業数学第一,同第二,力学,近代物理学概論,ならびに物理学実験など,また,大学院工学研究科においては応用流体力学特論,応用物理学特別実験,ならびに応用物理学特別演習などの講義,実験,演習を担当するとともに,実験および研究の指導にあたり,多くの技術者と研究者の育成に努力されました。また,学内にあっては,非常勤講師として教養部の学生の教育にも尽力されたほか,学外では北海道商工研修協会において中小企業技術者の研修講師を務めました。
 研究面では,応用物理学,流体力学,熱力学,気象学,海岸工学などにもとづいて,河川,湖沼,海洋の波動や流れ,および水温などの広範囲の研究に従事されました。昭和25年から河川の濁度に関する研究に従事し,光電池を用いた透明度計を製作して,石狩川下流部の濁度と水中の懸濁物質との関係を明らかにし,吸光係数が濁質の量によらず,その粒度分布によって一定の値を持つことを明らかにしました。昭和31年からは,大阪市立大学において,防波堤に作用する砕波の圧力について水槽実験を行い,防波堤に働く砕波の圧力鉛直分布や襲来波と砕波圧力の関係を明らかにする研究を行いました。昭和33年から同37年にかけて河川の水温日変化の観測と理論研究を行い,河川の水温日変化は統計的に上流型,中流型,下流型に分類されることを明らかにするとともに,流況によって日変化の振幅,位相がともに異なる特性を示すことを,熱伝達方程式の解析解により良く説明できることを示しました。この間,昭和37年「河流の流体力学的特性と水温日変化との関係について」により北海道大学から理学博士の学位を授与されました。昭和38年から,感潮河川河口部に形成される塩水楔の形状観測において,超音波エコー法を開発し,それまで数カ所の観測点のデータから推測していた楔の形状を,この方法により短時間のうちにその全体像を把握することを可能とし,塩水楔に関する知見を飛躍的に高めることに成功し,河川流量と楔の運動についての研究を大幅に進展させました。昭和41年から42年にかけて,アメリカ合衆国コロラド州立大学において,振動する円柱の伴流に関する研究に従事しました。昭和43年から塩水楔による河口二層流界面における塩水拡散の研究を行い,石狩川,天塩川,尻別川,サロベツ川などでの観測から,河口成層流が発達している水域の表面塩分分布の観測結果を統計処理することにより,流量と河道方向の表面塩分分布形との関係を明らかにできることを示しました。二層界面の研究は,昭和54年以降,貯水池や自然湖水における密度成層の研究におよび,金山ダム,桂沢ダム,倶多楽湖などの水温鉛直分布や懸濁物質,あるいは溶解物質量の鉛直分布変化による密度成層の成長過程を明らかにしました。また,昭和59年から,密度躍層面に生じる内部波の研究を進展させ,内部波の発達に与える水面上の風による剪断応力の効果を考慮し,風の観測データをもとに数値解析し,実測値とよい一致を得ました。昭和61年から,海岸の傾斜面における孤立波の反射と変形に関する研究を,境界要素法を用いたシミュレーション解析により行い,海底勾配が20度以上の斜面では,勾配が小さくなると,反射波が波峰分裂を起こすことを明らかにしました。昭和62年から,海底勾配がゆるやかな海岸斜面を遡上(そじょう)する非線形孤立波の変形とエネルギーの変化に研究を進め,航空写真により海岸付近の海面の2次的な波の解析を行い,多くの波のスペクトルなどの統計量を求め,実際の波浪と理論的非線形孤立波の統計的特性の相似性を明らかにしました。この間,数次にわたり流体力学および水理学の国際会議において研究発表を行い,国際学術交流に尽力されました。これらの研究成果はいずれも国の内外において高い評価を得ています。
 また,学内においては,工学部大学院制度委員会委員長,同企画委員会委員長を務めるなど工学部の発展に貢献しました。学外においては,応用物理学会北海道支部長,応用物理学会理事などを歴任し,学術の発展に大きく貢献したほか,北海道開発局苫小牧海域調査委員会,同霧多布漂砂検討委員会,同千歳川放水路環境影響調査委員会,同寒冷地圏域海跡湖環境保全研究検討協議会,同滝里ダム水質保全協議会,同網走湖水質保全検討委員会に委員として参画し,北海道の開発にも貢献しました。
 以上,学生の教育,学術研究上の諸活動に加え,本学の運営,ならびに官界,産業界に対する貢献は極めて大なるものがありました。

(工学研究科・工学部)


○酒 井   豊(さかいゆたか) 氏
○酒 井   豊(さかいゆたか) 氏
 この度の春の叙勲において瑞宝双光章を授かり,心から光栄なことと存じ上げております。
 これもひとえに諸先輩方をはじめとする皆様方のご指導,ご鞭撻によるものと心から感謝する次第です。
 振り返って見れば大学図書館の業務一筋47年間,よくも続けたものと我ながら感心しております。昭和22年の春,東京大学附属図書館閲覧掛に入りましたが,当時はまだ終戦後の混乱期にあり,利用者にとって最悪の環境だったという印象が残っております。しかし年々施設・設備,利用面も回復し,私自身も図書館業務に興味を覚えるようになり,昭和28年大学を卒業すると同時に整理課受入掛へ,また間もなく洋書目録掛へ配属されました,ここで当時の洋書目録掛長で後に名大図書館の部長になられた男沢さんから数年間洋書目録の取り方をみっちり教わり,洋書目録業務に対する自信と同時に仕事に対する愛着もますます深まってまいりました。
 ところで私が在職していた時代,大学図書館のたどった大きなうねりは,図書館の近代化と図書館の電算化だと存じます。昭和35年に岸本英夫先生が東大附属図書館の館長になられ,急ピッチで図書館の近代化が進行いたしました。たしかにそれまでの図書館は先生方にとっては単なる書斎の延長であり,学生にとっては勉強部屋に過ぎないものでした。したがって図書館から利用者に対する積極的な働きかけは殆どありませんでした。そこで附属図書館組織の確立,全学総合目録の編成,利用者本位の施設改修等々が大学図書館全体の問題として取り上げられ,また米国の大学図書館界とも交流を深め,図書館の近代化は目覚しい成長を遂げました。一方学術審議会の「今後における学術情報システムの在り方」に沿って,学術情報センター(現国立情報学研究所)が設置され,大学図書館をコンピュータとネットワークを介して結びつけ,共同目録作業と学術情報資源の共有化が実現しました。その先陣をきって輝かしいデビユーを飾ったのが北大附属図書館でした。丁度私が赴任したばかりの昭和61年4月から北海道大学オンラインシステム業務が開始いたしました。それまでは各大学とも電算化に熱心に取り組んでいましたが,目録以外の個々の業務が殆どで,目録の場合でも独自のシステムを作ってしまって,学術情報センターと結んだ全国的な目録システムができるとかえって修正が大変だったなどときいております。私が北大に入ってからは,大野公男館長のもと一致団結,実に生き生きと業務を遂行することができました。特に山田常雄学術情報課長以下優秀な職員がいたことも北大にとって非常なプラスだったと思っています。
 私は昭和63年に流通経済大学に赴任しましたが北大での経験が大変役に立ったことはいうまでもありません。そしてまた,北大にいたときの充実した,しかも暖かい雰囲気の職場は生涯忘れることができません。
 大学図書館を去ってから現在地元である湖北台の自治会長など数年続けておりますが,奇(く)しくも我孫子市の新しい図書館(約3,000平方メートル)の建設誘致の委員会に学識経験者として加わり,お陰様で平成21年の新館建築が決まりました。今から楽しみにしております。

略 歴 等
生年月日 昭和4年6月22日
昭和28年3月 中央大学法学部卒業
昭和22年4月 東京帝国大学写生
昭和24年4月 東京大学作業員
昭和25年5月 東京大学雇
昭和32年7月 東京大学事務員
昭和33年10月 東京大学文部事務官(附属図書館)
昭和40年4月 東京大学附属図書館総務課企画掛長
昭和45年1月 東京大学附属図書館閲覧課参考掛長
昭和48年5月 東京大学附属図書館整理課目録主任
東京大学附属図書館整理課洋書目録掛長
昭和52年4月 京都大学附属図書館閲覧課長
昭和55年4月 東京学芸大学附属図書館整理課長
昭和59年4月 静岡大学附属図書館事務部長
昭和61年4月 北海道大学附属図書館事務部長
昭和63年3月 北海道大学退職
昭和63年4月 流通経済大学(学校法人日通学園)
平成6年6月

功 績 等
 酒井豊氏は,昭和4年6月22日東京市神田区に生まれ,同20年3月都立九段中学校を修了後,海軍経理学校予科生徒を経て,同22年3月長野県立松本中学校を卒業しました。
 その後,昭和22年4月東京帝国大学附属図書館に採用され,同33年10月文部事務官に任官しました。その間,同28年3月中央大学法学部を卒業し,同40年4月附属図書館総務課企画掛長に昇任,同45年1月同閲覧課参考掛長,同48年5月同整理課洋書目録掛長,同52年4月京都大学附属図書館閲覧課長に昇任,同55年4月東京学芸大学附属図書館整理課長を経て,同59年4月静岡大学附属図書館事務部長に昇任し,同61年4月北海道大学附属図書館事務部長に配置換となり,同63年3月後進に道を譲るべく退職しました。退職後は,昭和63年4月から平成6年6月まで学校法人日通学園流通経済大学参事(図書課長)として勤務しました。
 この間,同人は,40余年の永きに亘り大学行政に携わり,一貫して大学図書館職員として,図書館の発展とその利用者に対する情報提供等の図書館活動に心血を注いできました。
 東京大学在職中は,戦後間もない混乱期のなか,図書館も徐々に活気づくようになり,その情報把握,情報提供に手探りの中から企画掛長,参考掛長,洋書目録掛長として経験と指導力を発揮し,その職責を全うされました。
 昭和52年4月からの京都大学附属図書館閲覧課長在職中は,「附属図書館新営計画」の策定に当初より参画し,来るべき新時代にふさわしい図書館建設に尽力されました。
 また,図書の貸出・複写等の規程や施行細則の整備を行うとともに,同和問題に関する文献・資料コーナーの設置,開架図書室の拡張工事や時間外開館の開始など閲覧課長として利用者サービスの充実に多大なる貢献をしました。
 昭和55年4月に東京学芸大学附属図書館整理課長に配置換となり,昭和54年学術審議会答申「今後における学術情報システムの在り方について」中間報告に基づく図書館としての対応策の検討・実施に向け,精力的に問題解決に取り組み,また,「英国教育学文献集成」,「ドイツ教育学集書」などの大型コレクション整備に多大の貢献を果たしました。
 昭和59年4月静岡大学附属図書館事務部長に昇任してからは,静岡大学附属図書館業務電算化に向けて尽力し,その結果,昭和61年度予算で導入されることが決定し,同年11月に図書館業務用電子計算機が無事導入されました。また,昭和59年度大型コレクション「ル・モンド」の採択に貢献されました。
 昭和61年4月北海道大学附属図書館事務部長に就任してからは,図書館の将来構想について検討するため図書館委員会に設置された「北海道大学図書館将来計画小委員会」の議論をリードし,北大図書館の組織の在り方として,人文社会科学系部局との業務統合について方針を定められ今日の実現に至っております。
 また,同年3月,全国で初めてのトータルシステムとして本稼働を開始した「北海道大学図書館オンラインシステム」は,図書事務処理の電算化を志向していた当時の他大学図書館の電算化の方向とは違って,目録・所在情報の効率的利用に主眼を置いた画期的なものでしたが,このシステムの安定的な稼働のため大変尽力されました。
 こうした図書館の電子化が進む中で電子化の基本課題である目録所在データベースの構築についても,同人の強いリーダーシップのもと他大学に先駆けていち早く電算化以前の蔵書のデータベース化に着手し,第一期の遡及入力事業を開始し,それ以降の遡及入力事業への道を開きました。
 北海道大学附属図書館を退職後は,流通経済大学において,同大学学生のための図書館情報提供のため,図書館界永年の実務経験を活かして学生の教育,指導を含め図書館学の発展に情熱を傾けられました。
 以上のように,同人は,図書館業務の専門家として常に図書館職員をリードし絶大な信頼を得て,永年にわたる大学図書館機能の強化・拡充への貢献は,延(ひ)いては大学の教育・研究全体の発展に大きく寄与したものであり,その功績は誠に顕著であると認められます。

(附属図書館)


○鈴 木 信 雄(すずきのぶお) 氏
○鈴 木 信 雄(すずきのぶお) 氏
 このたび,春の叙勲の栄に浴することになり,誠に光栄と感慨深いものがあります。これも偏(ひとえ)に,事務局及び所属した学部等において,教職員の皆様から賜わりましたご支援とご協力のお陰によるものと,厚くお礼申し上げます。
 顧みますと,私は進学期を迎えた頃,食糧難と経済状況の悪い時代でしたので,国鉄に就職いたしました。その後に農学部附属農場に一時的な気持ちで転職いたしましたが,北大に定年まで勤務する結果となりました。当時の北大キャンパスは,エルムとポプラ並木,広いローンと緑が多く,また教養部,体育館の場所は,空地で,時折,第二農場飼育の牛が放牧され,キャンパスの中でも穏やかで,その光景は牧歌的雰囲気が漂っていたことが思い浮びます。
 昭和33年9月事務局経理部に配置換になり,次いで昭和38年に庶務部庶務掛長に異動いたしましたが,同一ポストに7年の長さは,異例であったと思います。当時は,杉野目学長ですが,私は職務上で学長に接することが多く,特に印象的なことは,昭和38年に体育館が新築されましたが,建築費の大半は寄附金による計画でした。札幌で多額の寄付集めは限界があり,東京,大阪方面の企業を訪問し募金活動を行うことになり,その際には随行し協力いたしましたが,学長は,社長,重役方に面会し協力を求め,募金目標額に達成するに至りました。学長の行動力と手腕には心から敬服いたしました。募金活動の苦労は,私の貴重な体験となりました。
 昭和44年,私の担当であった入学式行事が式場として準備された体育館が,一部学生集団によって占拠され,入学式が困難となり,教養部教室で分散入学式を行う異例の行事となったことを思い出します。その後,学園紛争はエスカレートし,学内は喧噪(けんそう)状態が続き,事務局も封鎖占拠されるに至りました。長引く異状事態の正常化のために,道警機動隊に出動要請して沈静化をはかることになり,急きょ私は要請文を作成したこともありました。
 昭和50年北見工業大学に赴任いたしましたが,保健管理センターの設置が認められ,医局経験を有する教授候補者の確保に困難いたしましたが,適任者を迎えることができたこと,また,多くの方々の温情に接し,懐かしい想(おも)い出(で)も多くありました。
 2年後に,再び北大で勤務できる好運に恵まれました。工学部,応用電気研究所,教養部を異動し,昭和62年北大で最後の職場となった工学部に配置換になり,当時の工学部では,講座組織(大講座制)及び大学院改革の検討が顕著であったことを思い出します。特に,情報通信産業の分野など,国際競争の激しい昨今,工学部において,教育研究の更なる進展にご尽力されていることと存じます。退職まで,39年余の在職で,私の人生の糧と益することも多くありました,偏に,多数の方々のご援助によるものと深く感謝しております。終りに,北海道大学の益々のご発展を祈念いたします。

略 歴 等
生年月日 昭和4年7月31日
昭和28年2月 北海道大学作業員
昭和32年7月 北海道大学作業員
昭和33年7月 北海道大学文部事務官
昭和33年9月 北海道大学会計課
昭和34年4月 北海道大学経理部経理課
昭和37年5月 北海道大学経理部主計課
昭和38年7月 北海道大学庶務部庶務課庶務掛長
昭和45年4月 北海道大学医学部事務長補佐
昭和45年11月 北海道大学庶務部人事課課長補佐
昭和50年4月 北見工業大学学生課長
昭和52年4月 北海道大学工学部総務課長
昭和57年4月 北海道大学応用電気研究所事務長
昭和60年4月 北海道大学教養部事務長
昭和62年4月 北海道大学工学部事務部長
平成2年3月 北海道大学定年退職
平成3年4月 (財)クラーク記念会常務理事
平成5年3月

功 績 等
 同人は,昭和4年7月31日北海道に生まれ,昭和19年3月札幌郡星置国民学校高等科を卒業し,直ちに札幌鉄道教習所苗穂技能者養成所生徒を命ぜられ,同養成所本科を修了した後,同21年3月札幌鉄道局苗穂工機部自動車職場工場技工,5月札幌鉄道教習所生徒を命ぜられました。同24年3月北広島自動車区技工,9月札幌地方自動車部,恵庭自動車営業所技工,同26年11月願による辞職の後,12月北海道大学農学部附属農場臨時作業員に命ぜられ,同28年2月北海道大学農学部附属農場作業員に配置換えの後,同32年7月事務員,同33年4月出納員,同33年7月文部事務官に任官され,同年9月会計課に配置換され,同34年4月経理部経理課,同37年5月経理部主計課,同38年7月庶務部庶務課庶務掛長に昇任,同45年4月医学部事務長補佐に昇任し,同45年11月庶務部人事課課長補佐を経て,同50年4月北見工業大学学生課長に昇任後,北海道大学工学部総務課長,応用電気研究所事務長,教養部事務長を歴任し,同62年4月工学部事務部長に昇任し,平成2年3月定年により退職しました。
 この間,同人は,北海道大学及び北見工業大学においておよそ37年の永きにわたり勤務し,特に昭和50年4月から退職までの15年の間,課長もしくは部局事務責任者である事務長あるいは事務部長として卓越した行動力と実行力,そして広範な知識と経験をもって部下の指導と育成に努めるとともに,時の部局長を側面から支援しながら管理運営に当たり,歴任した各部局の発展並びに整備充実に努めています。北見工業大学では,学科増及び専攻科設置時期とも重なり,学生数の増加に対応し体育館等の増築をはじめ,食堂の設置等,課外活動及び福利厚生業務に尽力しました。
 また,昭和50年に設置された保健管理センターには,常勤医師を迎えるなど,保健管理の基礎をも築き,同大学の円滑な運営及び発展に大いに貢献しました。その後北海道大学に勤務し,工学部では,昭和52年4月に中央事務が部課制となったことから,事務部長の下に総務,経理,教務の三課が設置され,総務課に庶務,人事,図書の各掛,経理課には,経理,用度,営繕の各掛,教務課には第一教務,第二教務,学生の各掛が所属することになり,同人は,14学科(98講座),2実験研究施設,13共通講座,大学院独立専攻等を有する大規模学部の最初の総務課長として,円滑,かつ適正な部局事務を執り行えるよう多岐・広範にわたる連絡調整等に腐心努力し,事務組織の整理・合理化を図るべく,学部長,事務部長,関係教官及び事務職員に適切な意見や助言を行い,今日における基礎作りに多いに貢献しました。応用電気研究所では,同人が配属となった昭和57年頃から国立大学の附置研究所に対して,厳しい自己点検と組織運営の見直しが求められるようになっていきましたが,事務の責任者として,所長,関係教官に対して意見や助言による側面からの支援を行い,同研究所の管理運営と充実に心血を注ぎました。また,昭和60年4月に新設された光システム工学部門における事務においても多大な尽力をしました。教養部では,一般教育の充実発展の最善を期し,教養課程を全学的な責任の下におき,各教科目の教官は,その専門領域の属する学部に所属しています。このように一般教育の目標達成のため,多岐にわたる学部からの教官で構成されている教養部において,同人は,教育研究体制の充実を図るとともに各学部への連絡調整に尽力しました。昭和56年4月には北海道大学言語文化部が設置され,教養部事務部がその事務を担当することとなりましたが,事務部の責任者として,適切な指示,指導を行い,教官と事務部の信頼関係を築き上げるために尽力しました。工学部では,大規模学部の事務部長として,学部長を支援するとともに,教育研究の発展に側面から寄与し,なかでも,昭和62年4月には,研究助成の多岐に伴う申請に対する事務体制の充実を図るため,総務課に研究協力掛の設置,また学部から大学院まで一貫した教育研究指導等の必要性から,情報工学科の設置に尽力しました。また,昭和63年4月工学部の附属教育研究施設である直接発電実験施設を廃止し,同月に先端電磁流体実験施設の設置に伴い北海道大学工学部附属電磁流体実験施設規程を制定するなど,多岐にわたる事務量の増加に関わらず,事務部の責任者として適切な指示,指導あるいは関係教官への事務的な面での助言等を行い,工学部の発展に多いに貢献しました。
 同人は,謹厳実直であり,教官及び事務職員の信頼は絶大で,その協力体制のもとに数々の施設,組織整備の実現に努めました。
 以上のように同人は,永年にわたって大学行政の進展に精励したことに併せて,部下の指導育成にも尽力し,その功績はまことに顕著です。

(工学研究科・工学部)


○柿 沼 正 代(かきぬままさよ) 氏
○柿 沼 正 代(かきぬままさよ) 氏
 このたびは叙勲の受章の栄誉に与かり,誠に光栄に存じます。ひとえに関係の皆様のご尽力によるものと深く感謝申し上げます。
 私は,本年3月の定年退職までの36年間を北海道大学において勤務させていただきました。医学部附属看護学校で学んだ3年間を数えますと,39年に亘り,緑豊かな北大キャンパスで過ごしたことになります。そして,多くの先輩のご指導をいただき,熱意あふれる仕事仲間とともに常にチャレンジ精神をもって職務に当たることができましたことは何よりもありがたいことと思っております。この間,4つの職場を異動しましたが,なかでも,母校での勤務の後,昭和54年に配置換えになりました歯学部附属病院にはもっとも長くお世話になりました。「口腔(こうくう)の健康管理を通じて全身の健康に関与する」ことを行動指針に病院運営が進められており,活気あふれる病院でした。外来診療のウエイトが高く,40床1病棟の小規模病院でしたが,この当時からチーム医療を指向していたことは驚きでもあり,看護職にとってやりがいのある職場でした。また,全国の11国立大学の歯学部附属病院看護部長会議が中心となり,歯科看護の実践報告や看護研究の発表の場として年毎に研究集録をまとめるなど歯科看護の研鑽(けんさん)の場も整えられていきましたが,全国各地の看護職のエネルギッシュな行動力にも刺激を受けました。日常の歯科診療活動においては重なり合う領域を担当する歯科衛生士と協働する中で,看護職の強みを生かした仕事の仕方を模索し続けることに繋(つな)がりましたし,歯科技工士の皆さんからは生体にフィットする精密なモノ作りを担うプロとしての姿勢を学びました。また,薬剤師,放射線技師,検査技師,栄養士の方々からは歯科医療を見つめる際の職種による着眼点の違いなどに気づかされ,新鮮な思いをしたものです。
 さて,定年まであと3年,平穏な仕事の締めくくりかと思いましたが,やはりフロンティアの北大でした。平成15年10月には,医学部,歯学部各々の附属病院は統合により北海道大学病院となりました。社会の変化,医療のニーズに対応した歯科医療を含む医療を実践する新しい病院の出発でした。このプロセスの中でも,さまざまな仕事仲間に出会い,励ましをいただきながらの日々でしたが,常に時代を見据えてさまざまな改革に取り組み,粘り強い仕事を身上とする看護部の一員として定年を迎えることができましたことは幸せなことでありました。振り返ってみますと,このたびの受章は,その時々の仕事仲間とご一緒に戴く栄誉であると改めて実感いたします。長い間のご指導とご支援をいただきましたことに心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
 最後になりましたが,北海道大学のますますのご発展を祈念申し上げます。

略 歴 等
生年月日 昭和20年11月15日
昭和43年3月 北海道大学医学部附属看護学校卒業
昭和43年5月 北海道大学医学部附属病院看護婦
昭和46年10月 藤沢市民病院看護部看護婦
昭和46年12月 東京女子医科大学附属病院看護婦
昭和47年12月 東京女子医科大学附属第二高等看護学校専任教員
昭和48年10月 北海道大学医学部附属看護学校講師
昭和54年4月 北海道大学歯学部附属病院看護部看護婦長
平成9年4月 北海道大学歯学部附属病院看護部長
平成15年10月 北海道大学医学部・歯学部附属病院看護部副看護部長
平成16年4月 北海道大学病院看護部副看護部長
平成16年4月 北海道看護協会推薦委員会委員長
平成17年3月
平成18年3月 北海道大学定年退職

功 績 等
 同人は,昭和20年11月15日北海道河東郡上士幌村に生まれ,昭和39年3月北海道小樽潮陵高等学校を卒業後,昭和40年4月北海道大学医学部附属看護学校に入学,昭和43年3月に同校を卒業,同年4月から北海道大学医学部附属病院に採用され,皮膚科形成外科病棟に勤務しました。昭和47年12月東京女子医科大学附属第二高等看護学校に配属,専任教員として勤務し,昭和48年10月退職後,同月に北海道大学医学部附属看護学校講師として採用され,看護基礎教育に携わってきました。昭和54年4月から北海道大学歯学部附属病院に配置転換となり看護師長を命ぜられました。同人は,障害を持つ患者への歯科検診や歯磨き指導のための訪問看護,退院した患者への訪問看護を行うことで,歯科看護の専門性を見いだし,看護実践活動を通じて人材育成の発展・向上に努めました。
 平成9年4月に看護部長に昇任,北海道大学医学部附属病院と歯学部附属病院の統合が行われた平成15年10月から統合後の北海道大学病院副看護部長としての責任を担い,平成18年3月31日に定年退職しました。
 歯学部病院看護部長昇任後は看護部門のみに留(とど)まらず病院全体の医療の質向上のために尽力しました。平成10年には地域支援医療部が院内措置で立ち上がり,歯科医師,看護師,歯科衛生士等がチームを組み訪問診療を行うことにより,歯科医療に遠のきがちな障害をもつ人々への診療の充実や口腔ケアを通した健康教育を積極的に実施するとともに,在宅療養継続中の患者のQOL(生活の質)拡大への支援を行うなど歯科領域におけるチーム医療の礎を築きました。また,医学部附属病院と歯学部附属病院の統合後は,新たな組織体制の中,業務担当副看護部長として,患者サービス委員会の活動を活性化し,患者サービスは勿論(もちろん),職種間の連携を強化するとともに,看護助手の中央化運営を効率的に推進し,看護業務改善に尽力しました。また,人材育成においては,リーダー育成や管理者育成に能力を発揮し,問題解決能力や時間管理の視点を院内教育の手法に取り入れ,管理能力育成に大きく貢献しました。
 この間,同人は看護研究13題,誌上発表5題を発表し,嚥下(えんか)を含めた食事摂取のための看護,口腔ケアの取り組み等,歯科看護領域の専門性を明確にした功績は大きく評価されるものでした。さらに,看護協会活動をとおして看護師教育への協力など社会貢献においても同人の功績は大きいものでした。
 同人は31年の長きにわたり基礎教育,看護業務,看護管理に携わり,教育者として看護師を志す学生を指導し,生涯自己研鑽の必要性を教え,時に,学習や実習に悩み,苦しむ学生の支えとなり,多くの看護師を養成しました。また,臨床の場においては,歯科領域での診療環境整備,臨床看護の充実,後輩の指導育成,看護研究の推進に尽力し,看護の質向上にむけた功績は,誠に顕著であると認められます。

(北海道大学病院)


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