![]() 知床:世界遺産登録への推薦がもたらす意味
北大地球環境科学研究科 渡辺 悌二 私と知床との最初の出会いは、子どもの頃にさかのぼる。東北海道に住んでいた当時、毎年のように夏休みの一ヶ月間を家族でキャンプ旅行をした。ある年、知床を訪れた。海岸にテントを張っていると、近くの漁師が魚を持ってきてくれた。知床は静かだった。 その知床が、2004年テレビや新聞、雑誌にきわめて頻繁に取り上げられ、にぎやかになった。もちろんその理由は、知床国立公園が世界遺産への登録の推薦の場となったからであり、また登録される可能性が大きくなったからである。 開発と自然保護運動に
揺れ続ける知床国立公園
この事実は、知床が原始性の高さを保持した国立公園でありながら、同時に観光開発の進んだ国立公園であることも意味している。もともと知床は、開発と自然保護運動に揺れ動く場所であった。大正・昭和時代の開拓に、1970年代の「知床旅情」のヒットによる観光開発、1980年開通の知床横断道路建設などの開発の歴史を持つ一方、1977年には、募金によって土地を買い取る「しれとこ100平方メートル運動」が始まり、自然保護グループは、一九八六年の国有林伐採計画を縮小させることに成功している(しかし大量伐採は八七年に強行された)。 日本の国立公園は、環境省が一元的な管理を行えない状況にあるため、さまざまな問題を抱えている。ここ知床国立公園も同様で、 知床の世界遺産登録について考える際には、まずこの事実について認識する必要がある。 世界遺産登録への推薦を受けて知名度があがったとはいえ、今年の知床への観光客の数は著しく増加してはいない。騒いでいるのはもっぱらマスコミである。地元の観光関係者は「知床にやってくる人たちは自然を見に来るのであって、世界遺産といった名前に惹かれてくるのではない」と言うが、世界遺産登録が観光客の増加、すなわち増収をもたらしてくれることを期待し、そうなるであろうと信じているというのが、ほとんどの観光関係者の本音であろう。 しかし、世界遺産登録は、観光客増加のためのカンフル剤ではない。知床がすでに国立公園というラベルを持っているにもかかわらず、さらに世界遺産のラベルを得て観光誘致をしようと考えるだけなら、世界遺産登録の本来の意義からそれてしまうことになる。 世界遺産登録への夢は
知床だけではない 1991年から、北大を中心とした専門家が、北方四島で研究交流を行っている。このチームは、北方四島の陸上ならびに海洋の生物多様性の高さを明らかにし、さらに、世界的にも稀な原生的自然生態系が保全されていることを明らかにしてきている。これらの結果を評価するならば、知床の世界遺産登録は、海峡をへだてて位置する北方四島と一緒に行われるのが良いに違いない。 最近、私が調査に出かけるようになったカラコルム山脈には、世界第二位の高峰K2が聳えている。パキスタン政府は、K2を含めた広大な地域を中央カラコルム国立公園として指定し、さらに世界遺産登録を目指そうとしている。しかし、この地域はインドとの間で国境線確定問題を抱えており、世界遺産登録は両国間の政治問題となってしまっている。知床と北方四島が同様の事態に陥らないようにと願わずにはいられない。知床と北方四島は、世界遺産に同時登録される価値を有しているのだ。 また、北海道には先住民の文化がある。自然環境のすばらしさだけではなく、先住民文化を前面に出して、自然遺産と文化遺産の複合遺産としての世界遺産登録を目指せば、まさに北海道らしい世界唯一の”遺産“となり得る。その際は、知床だけに世界遺産候補地を限定するのではなく、北海道の広域を登録候補地と考えればよい。 世界遺産登録推薦は
私たちに与えられたチャンス 日本の世界遺産には、法隆寺や姫路城など文化遺産として登録されたものが10件と多く、それに対して自然遺産として登録されたものは、白神山地と屋久島の2件しかない。環境省が世界自然遺産登録地を増やしたいと願っていることは、容易に理解できる。 すでに登録されている177の世界自然遺産のなかで、海洋を含む自然遺産の割合は四分の一に満たない。海洋生態系の保全をすすめることは、海洋を含む自然遺産候補地にとっては、最重要課題の一つである。知床はこの課題に直面しており、登録が現実のものとなるかどうかの鍵の一つがここにある。 知床の世界遺産登録への推薦は、地元に生態系保全の議論の場をもたらしたという点だけでも、きわめて大きな意味をもっている。世界遺産登録への推薦は、本来は、こうした議論がじゅうぶんに熟してから行われるべきであったろう。にもかかわらず、ユネスコが審査を委託しているIUCN(国際自然保護連合)は、知床の世界遺産登録に向けてポジティブな姿勢を見せている。だからこそ、目の前の自然環境保全の問題を避けて通ってはならない。海洋生態系保全の議論に加えて、50基にものぼるダムの撤去問題をはじめとするさまざまな議論がようやく活発になってきたのが現状であり、シンポジウムやフォーラムの開催を通して議論を重ねることが重要である。さらに、研究者の立場からは、ダム撤去にかかわる陸上および海洋の生態系の変化予測について、基礎調査を実施することこそが、最大かつ急務の課題であり、北大はこうした側面からも貢献すべきであろう。 知床の世界遺産登録への推薦は、自然環境の利用と管理のあり方をさまざまな分野の組織・個人が考え、行動する、絶好のチャンスを与えてくれている。
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