【対談「総長が訊く」】

大志を抱け
地球規模の課題解決に立ち向かうフロンティア精神


ゲスト
木股 昌俊
株式会社クボタ 取締役会長

1890年に創業し、食料・水・環境に関わる様々な課題の解決に取り組んでいる株式会社クボタ。現在では、ビジネス展開国数120カ国以上、海外売上比率70%以上と、グローバルに事業を展開している。
比類なき大学を目指して改革を進める寳金清博総長が、本学OBであり、同社のグローバル化を牽引してきた木股昌俊氏に、その半生や企業理念などを伺った。




実験に明け暮れた学生時代

寳金 今朝早くテレビでサッカーのワールドカップの試合(12月2日、日本対スペイン戦)を観ていたのですが、クボタのコマーシャルは非常に印象的でした。開催国である中東のカタールを、データに基づいて理解しつつ事業展開するという先進的な企業としてのイメージが発信されています。


木股 カタールなど中東では、水プロジェクトでの貢献を中心に行っています。また、女優の長澤まさみさんが出演し、「壁がある、だから、行く」というメッセージを発信したコマーシャルも社内外で注目されていましたね。

寳金 ご出身は岐阜県と伺いましたが、北大進学に至る過程について教えて下さい。

木股 父やおじが国鉄職員だったこともあり、幼少の頃はいつも蒸気機関車の絵を描いていたようです。蒸気機関車が好きだったことからボイラーに関心がありました。その後、鉄道のディーゼル化とともにディーゼル機関に興味を覚えました。
 高校時代は鉄道旅行が好きで、それが高じていつか北海道に行きたいと思うようになりました。大学を北海道にすればあちこち行けると。旅の延長として北海道は憧れの地でした。

寳金 どのような学生時代を過ごされたのでしょうか。

木股 お金に余裕のない学生だったのでなかなか旅行には行けなかった記憶があります。アルバイト代も学費やお酒に使ってしまうのです。それでも、当時「カニ族」と呼ばれていた横長のリュックを背負うスタイルで道内旅行をしていました。駅舎やベンチで寝泊まりもしました。
 工学部では、好きだったディーゼル機関を学ぶために村山先生の熱機関学第2講座に入りました。そこでは、指導教授の村山先生、実験のペアを組んだ近久さん(北大名誉教授:現北海道職業能力開発大学校長)にしごかれまくりました。今では考えられないかもしれませんが、よく2〜3日の徹夜でエンジンを回していました。
 当時は、ディーゼルエンジンの排気ガスであるNOXやCO2をいかに低減させるかが研究のテーマでした。エンジンの噴射方法を変えながらデータを取るのにものすごく時間を費やしました。そのおかげで粘り強さを身につけましたよ。
 また、環境に優しいエンジンの実現を目指していました。排気ガス浄化の電子制御や、軽油に代わる水素燃料への転換なども考えていました。


「Boys,beambitious」の実践


寳金 学生時代の研究が今日まで続いているのだと感じました。どのような経緯でクボタへの入社を決められたのですか。

木股 クボタは機械系の会社でエンジンの研究開発を進めていました。当時は大型のエンジンも手掛けていましたので、選択肢のひとつとして考えていたところに先輩からの強い勧めがあったことが入社のきっかけでした。
 入社後に配属希望の面接があり、エンジンの研究開発を希望したのですが筑波のトラクター工場に配属され、はじめは少しがっかりしました。

寳金 1988年からアメリカのジョージア州で勤務されていますね。私も1986年から2年半程度、カリフォルニア州で留学をしていました。当時の日本経済は円高を背景に上り坂の時期であり、多くの日本人が世界で活躍していた時代でした。

木股 配属された当時の筑波工場は、生産量の半分が輸出されるという社内では国際的な工場でした。その頃の急速な円高もあり、海外生産拠点の展開を工場長に進言したのです。一方、その前に全米を2ヵ月間回る長期出張の機会があり、アメリカの市場で通用するトラクターや農業機械を開発すべきだという使命を強制的に植え付けられましたね。若手の社員が生意気なのですが「やる」と手を挙げ、反対されず「お前、行け」と。

寳金 当時アメリカで活動していた日本企業は大半が東海岸か西海岸でした。南部のジョージア州での工場立地では苦労されたのではないでしょうか。


木股 工場担当の駐在者は私ひとりだけでしたので、計画、建設、社員の採用、販売促進、新製品開発などをひとりで実行したことはものすごくしんどかったですが、非常に自由に仕事ができました。学生時代のしごきが活かされました(笑)。
 ジョージア州を選択した大きな理由は、トラクターなどの市場規模が一番大きかったことでした。さらに顧客との距離も近かったですね。あとは、日本とよく似た森が多くきれいな所でもありました。現在では工場が8つに増え、約3千人の社員がいます。

寳金 7年後に帰国されますが、日本の環境に適応するのは大変ではなかったですか。

木股 帰国後の配属では、グローバル化に関わる仕事をしたかったのですが、結局、同じ筑波工場に戻りました。そして、さらに大型のトラクターを開発してアメリカで販売するための仕事を手がけました。アメリカでの大型トラクターのシェアは2〜3%しかなかったのですが、一気に15%まで上昇させることに成功しました。
 1988年の駐在当時、クボタはアメリカでは無名の企業でした。それが1995年頃になると認知度が上がりました。2000年を超えると、「持っている」という人が増え、感動しました。ボーイズ・ビー・アンビシャスの実践です。
 現在では世界各地に工場があり、7割以上の売り上げが海外ですが、そのうちの半分をまだ国内から輸出しているので、まだまだ海外拠点をつくらなければならない途上にあります。

寳金 2010年にはタイの現地社長として赴任されましたね。

木股 当初は生産性や合理化に厳しいというイメージを持たれ、現地では労働組合が結成される状況でした。その後、タイでは大洪水によって多くの企業が打撃を被る事態に直面しました。撤退する企業が相次ぐなか、「クボタは逃げない」と公言し、千人近い社員も復旧作業に力を入れてくれ、当初結成された組合も霧散し、私が退任する時には拍手で送ってくれました。苦労したことと嬉しかったことを両方経験できました。


キーワードは「食料・水・環境」

寳金 現在の日本では、30年余りの停滞が続き悲観的な見方もあり、厳しさが増しています。こうした状況やグローバリゼーションに対して、クボタはこれからどのように向き合っていくのでしょうか。

木股 今までは、ニッチな分野での事業展開でよかったのかもしれません。これからどうするかというと、ハードだけではなかなか受け入れられなくなります。ポイントは、食料・水・環境です。と言いますのは、トラクターをつくっていて、本当に食料増産に貢献できるかというと必ずしもそうではありません。やはりソフトが重要です。水関係の事業を効率的に進めようと思うと、流行ではないですがDXです。日本はまだまだ遅れているという感じがあります。機械のみならず、栽培方法でも作業の自動化やロボット化により生産性を上げつつ、全体の入口から出口までの面倒を見るというハード・プラス・ソフトの面で遅れているのではないかと思います。


寳金 バリューチェーンの考え方ですね。医療業界では、大きな装置を製造していた大手の会社が最近はバリューチェーンを形成し、今までとは異なるソフトウェアのネットワークを構築する方に注力しています。日本企業はものづくりでは一定程度、部分々々で成功しているのですが全体では・・。単純なものづくりだけでは限界があります。クボタさんのような大きな会社でも、ある種の壁があるという趣旨のご発言と受け止めました。

木股 高齢化により農家が減少していくと、いくら良い農業機械をつくってもそれを使う人がいなくなります。その人たちが持っているノウハウをデータ化、共有化することが重要です。他業種、競合他社を含めてスマート農業の広域化を進める必要がありますが、それだけではだめで、ヨーロッパの事例などを参考に世界とも組んで進めるような体制が求められます。

寳金 振り返れば当然、失敗もたくさんしてきたのではないかと。

木股 失敗は山ほどしています、クボタは(笑)。仕事には「落下傘型」と「地下水脈型」があります。農業機械は「地下水脈型」であり、鋳物から始まり、鋳物のパイプ、エンジンのブロック、エンジン、農業機械、建設機械というふうに広がります。反対に、「それでは発達しない。落下傘みたいに降りろ」と言ってコンピューター事業やゴルフ場経営を始めて失敗したこともありましたね。「下を見て降りろ!!」と思っていました。
 若手社員には「失敗してもええで、それが糧になるよ」とあえて言っていますが、経営陣が失敗してはいけません。

寳金 私もそう思います。すごく難しいですが、過大なリスクを引き受けてはいけないのです。ゴルフの世界でも「ネバー・アップ・ネバー・イン」と言います。よく理解している人が見守り、とんでもない方向に進まないようにしてあげないといけません。
 最後に、今後、クボタとしてどの分野に注力していくのでしょうか。

木股 食料・水・環境です。これらの分野を軸にスマート・オートノマス化、資源循環化、そして脱炭素化を進め、クボタならではの差別化された製品・ソリューションの提供を目指していきます。

寳金 実は、北大の強みはそれらの分野にあり、食料、水、空気の分野は、フィールド系サイエンスとして昔から取り組んでいるので、クボタでの本学卒業生の活躍は、学生にとって大変励みになります。
 今日、非常に感銘を受けたのはグローバリゼーションの考え方です。世界の中で自社の位置付けを考えることは非常に重要であり、これは大学にも共通します。
 本日はありがとうございました。

北海道大学総長
寳金 清博
HOUKIN Kiyohiro

1954年、北海道出身。北
海道大学医学部卒業。医
学博士(北海道大学)。
1979年北海道大学医学部
附属病院などに勤務。米
国カリフォルニア大学デ
ービス校客員研究員など
を経て、2000年北海道大
学大学院医学研究科助教
授、2001年札幌医科大学
医学部教授、2010年北海
道大学大学院医学研究科
教授に就任。2013年北海
道大学病院長・北海道大
学副理事、2017年北海道
大学病院長・北海道大学
副学長を歴任し、2020年
10月から現職。
株式会社クボタ 取締役会長
木股 昌俊
KIMATA Masatoshi

1951年、岐阜県出身。北海道大学工学部卒業。1977年に久保田鉄工株式会社(現:株式会社クボタ)に入社。1988年からアメリカに赴任、帰国後の2001年から筑波工場長に就任。2009年取締役常務執行役員、2010年タイ子会社 サイアムクボタコーポレーション社長などを歴任し、2014年から代表取締役社長に就任。2020年からは代表取締役会長。2023年1月から現職。2023年3月から特別顧問に就任予定。


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