オピニオン Opinion
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シックス・センス

 「大吉」の直後の北光一閃には相応しくない話題である。とは言え、この種の話は、到底、一人で抱えることのできないもので、早々に読者の皆さんに横パスして、「情報共有」することで、多少は救われると信じて…。本来、もっと早く共有して、「楽になりたかった」というのが本心である。

 こう見えても、脳科学者の端くれである。「こっくりさん」も「お岩さん」も見たことはない。全ては、脳の異常信号のなせる幻覚の仕業であり、この世に「霊」などいないと信じている。ただ、僕は「持っている」のである。霊能力と言うにはおこがましいが、ちょっとしたシックス・センスを。

 最初にこの能力に気づいたのは、30代の頃、学会で米国のフィラデルフィアの古いホテルに泊まっていた夜のことである。フィラデルフィアはご存じのように、米国の古都である。ホテルも、一部改装はしているものの、南北戦争の頃からあったと見紛うような古色蒼然たるものだった。この古都で、どれほどの人々が、生まれ、出逢い、別れて、そして多様で無数の死を遂げてきたのか想像すれば、まるで、巨大な墓地の上に立っているに等しい。

シックス・センス1

 そのホテルでの最初の夜、それは起こった。

 夜というよりも、明け方のほんのわずか手前、暗闇が一番深くなる時間帯であった。最初、急に発熱したのかと思うような全身の悪寒・戦慄で眼が覚めた。全身がガタガタと震える。意識がはっきりと覚醒してくるにつれて、「何か」が部屋にいることが明確に意識された…それは、聴覚とか視覚とか嗅覚のような特定の五感で認知されるものではなく、脳と体全体で感じられるものなのだ。何者か邪悪な「気」が間違いなく、部屋の暗闇の中で蠢いている。いや、「固まり」ではなく、部屋全体に悪霊の気配が充満している。

 部屋中のライトを点灯する。米国のホテルに宿泊したことのある人であれば、想像できるはずである。すべて点灯しても、部屋の明るさは心細い。その後、夜が明けるまでまんじりともせずに過ごした。

 翌朝、朝食のレストランで、気分が悪そうな僕に、僕以上に気分が悪そうで目の周りに隅を作っている同僚が気づき、理由を聞いてきた。前夜の出来事をそのままに話した。途中から同僚の顔色が瞬く間に消え失せた。僕が震える恐怖を味わった時間帯、隣室に宿泊していた同僚の経験は、到底、この北光一閃にはなじまない戦慄すべき恐怖譚であり、後日、機会があればご紹介したい。

 とにかく、それ以来、この僕の微弱な霊感は覚醒し、その後、日本のホテルでも、眺めていた鏡の後ろを「何か」が通り過ぎ、凍えるような恐怖を感じ、部屋を交換してもらうことが続いている。

シックス・センス2

 北海道大学の総長室には、あのウィリアム・クラーク先生のセピア色の古い由緒正しい油絵の肖像画が総長のデスクの目の前にある。強い意志と知性が暗い配色の中からも発散されるような力作である。肖像画のクラーク先生は、「Boys be ambitious!」と言うようなキャッチーで聞くものを奮い立たせるような名言を発する人物とは程遠く、神経質で物静かな人物像として描かれている。

 相変わらずの仕事人間である。休日の深夜、人っ子一人いない古い石造りの本部棟の総長室は、静まり返っている。加えて本当に臆病者で、この年齢になっても、深夜になるとトイレに行くのが怖い。なるべく、クラーク先生の肖像画の方向に目をやらないようにして、仕事を終える。パソコンをシャットダウンした直後、何かに魅入られたように視線がクラーク先生の肖像画に引き込まれた。「まずい」と思った瞬間、視野の端にクラーク先生の尊顔が見えた。一瞬、「何か違う」という違和感があり、その直後、全身に戦慄が走った。

シックス・センス3

 いつもは左を向いているクラーク先生が右側(僕の方)を向いているではないか。気のせいだと、無理やり視野の外にクラーク先生を押しやる。

 そして、慌ててドアを閉めて鍵をかける直前、視野の端っこのクラーク先生が、一瞬、確かに、のが見えた。

 逃げ出すように部屋を後にして、駆けるように階段を降りた。脈拍が徐々に元に戻り、冷静さを取り戻しながら、自分が恥ずかしくなった。クラーク先生は僕と話をしたかったに違いない。

 人知の及ばぬことが、この世には間違いなくある。むしろ、「知らないこと」に気づいていないことが無限にある。私たち人類の知性はまだまだ貧弱で、私たちの科学は、いまだに、とてつもなく未熟である。量子力学がどれほどこの世界の成り立ちを詳らかにしても、生物学が生命の根本の謎を解き明かしても、説明の不可能な事象の数は、その解決量の指数関数のように増大する一方である。

人知の及ばぬ自然に対する畏敬の念を持って、慎ましやかに、科学を志すものは研究すべきで、シックス・センスは科学者にとって必須のコンピテンシーかもしれない。