オピニオン Opinion
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「おしょろ丸カレー」

 ずっと気にかかっていたが、北海道大学の総長として、ようやく函館の水産学部キャンパスを訪問する機会を得た。

 日本には、大きなキャンパスを有する大学がいくつかあり、その中には、遠く離れた別キャンパスを持つ大学もある。しかし、飛行機で行くような離れた街にキャンパスを有する大学は、日本ではそうそうあるものではない。離れたキャンパスは、学生はもちろんのこと、教職員にとっても特別な環境であるし、大学全体の責任者である総長にとっても、特別なものである。

 今更であるが、私の本職(と言うか、前職)は、脳神経外科医であった。医者はとにかく転勤が多い。その転勤歴の中には、もちろん函館もあり、あの悲劇的な日航機墜落事故のあった年には、函館の近郊で昼夜を問わず手術に明け暮れていた。その後、年に数回は函館を訪れており、慣れた土地でもある。筋金入りの競馬ファンである僕にとって函館は、第4コーナーからの日本一短い直線コースが幾多のドラマを生んだ美しい競馬場のある「住みたい街」ベストテンの常連の街でもある。

 冬の嵐の中の飛行は大揺れであった。眼下に冬の競馬場を見下ろしながら、荒涼たる海岸に沿った特徴的なアプローチのある函館空港に、左右上下に大きく揺れながらも、無事到着した。小型機のパイロットの技術にはいつも感服する。

 空港の到着口で、水産科学研究院長の木村先生が出迎えてくれる。初対面にも関わらず、久しぶりに帰郷して再会した親戚の従兄弟のような郷愁と親近感を感じてしまう。
「総長、はるばる、お疲れ様です!」
などと声をかけられると、何だか、胸がキュンとなる。

 これが白いマフラーにダークスーツ姿の強面の男たちが一列に並んでいれば、「総長」の言葉を小耳にはさんだだけで、周囲の人々がざわざわと離れていくに違いない。しかし、実際の木村先生は、函館の懐かしいイントネーションで、人懐っこい笑顔で話しかけてくる。

 「なんだろう?」この胸キュン感は。思うに、これが、同窓生感という説明しがたい一体感かもしれない。

 久しぶりの総長の訪問。一日千秋の思いと言えば聞こえが良いが、直訴したいことが山のようにあったに違いない。この日の午後から、翌日の夕方、函館を去るまでの一泊二日の日程は、怒涛のようであった。全ての教員の前で総長として対話会を開き、キャンパスを見学し、力の入っている研究を紹介され、夜に解放となる。しかし、このコロナ禍である。イカサシもウニ丼も宴会もない。回転寿司の後は宿舎に直行し、大学からのメールをチェックして、ついつい、ゴルフチャンネルを見ながら、眠り込んでしまった。

 翌日は、朝から函館埠頭に向かう。函館訪問のハイライトは、何と言っても、本学が誇る!海洋実習船「おしょろ丸」への乗船見学である。到着した前夜の冬の嵐よりはずっとましであるが、おしょろ丸が停泊する函館港はべた凪とは言えない緩やかなウネリを見せていた。

 船長の高木准教授は、どこから見ても見間違うごとなく凛々しい船長である。本キャンパスで会う教員といえば、基本、背筋ピンの敬礼など縁遠い人種であるが、やはり「海の男」は違う。こちらもついつい柄にもなく身長が伸びたのではないかと思わんばかりに背筋を伸ばし、声のトーンも海軍調(そんな調子を知らないのだが)になる。こんな毅然とした先生には、大学キャンパスではついぞ会ったことがない。

 長年、ボート部に所属していたくせに、実は、船に酔う。大学一年生の頃、離島の間をつなぐ短いフェリーに乗船した際、トランプに興じた数分で酷い船酔いになった。離島に到着する頃には、天井がぐるぐる回る有様で、トイレで情けない時間を過ごした。

 この辛い思い出がよみがえった。おしょろ丸は日本でも最大級の海洋練習船であるが、ゆっくりとした微妙な周波数の揺れは、ひ弱な私の三半規管を気持ちよく刺激するにはちょうど良い波長であったらしく、もう、体がふわふわしてきた。

 「総長、夏には是非、学生と泊まり込みで海洋実習に参加して下さい」と背筋の伸びた高木船長に言われると、
「是非、是非、日程を調整しましょう」
「ひとつくらい、講義もさせて下さい」
などと調子良く答えてしまう。

 もう船酔いが始まっているくせに、本来の「断れない性格」が災いして、お調子者の返事をしてしまう。「」も大切であるが、「」という、大甘の人生訓に依存して、人生60年余りを生きてきた負債がこのあたりでも出てしまう。このために何度も、結果として、悪意なく、他人の期待を裏切り、迷惑をかけてきたが、自業自得である。

 北国の短い夏。学生との海洋実習は、想像するに、きっと素晴らしいひと夏の思い出になることは間違いない。船上で、「水産放浪歌」などを学生達と肩を組んで合唱すれば、涙腺が緩むに違いない。

 その一方で、終日、トイレに閉じこもる総長の姿は見せたくないと思うと、心が揺れ動く。悪しざまに、あるいは、面白おかしく、SNSで拡散されるに違いないなどと捻くれた想像をしてしまう。

 お土産に、「おしょろ丸カレー」*1を戴いた。北太平洋の海深5,000メートルの深層水から作ったカレーである。

「おしょろ丸カレー」

 自宅に帰って、この「おしょろ丸カレー」を食した。美味この上ない!早速、大枚をはたいて100個注文し、周囲に配った。届いた「おしょろ丸カレー」を再度味わうと、不思議に胸がキュンとなった。

 この夏は、万難を排して、学生との海洋実習に参加しようと心に決めた。

  • *1
    おしょろ丸カレー 販売情報はこちら(水産学部Webサイトへ)
     水産学部が、函館市を代表する老舗洋食店「(株)五島軒」と共同開発したレトルトカレー。
     附属練習船おしょろ丸が海深5,000mから採水したミネラル分豊富な海洋深層水と五島軒特製のブイヨンソースで具材を煮込むことにより、まろやかでコクのある深い味わいに仕上がっている。