オピニオン Opinion
右にスワイプしてご覧ください
スクロールしてご覧ください

難攻不落・未踏の「共同幻想論」:
「吉本隆明」を読む

 このところ、おちゃらけた雑文ばかりこのコラムに載せており、周辺から、歴史ある旧帝国大学の総長としてはいかがなものかと言う声が高まっている。ファンとは言え、やたら米倉涼子が登場し、クレヨンしんちゃんが跋扈し、挙句はダークサイドのダース・ベイダーまで登場すると、さすがにここらで昂った心を鎮め、暴走を止めるべきであるという周囲の諫言は的を得ている。さもなければ、いよいよ筆が滑り、筆禍を引き起こし「炎上」の憂き目に遭うに違いないと広報担当者のEさんは真剣に心配している。
 そこで今回は、少々お灸を据えられて、学者らしいものを書かされることとなった。

 SNSの登場で、一億総コメンテーター、一億総炎上が実現した。しかも、そのスピードが尋常ではない。
 何か世間の注目を惹く出来事、問題が起こると、ものの1時間程度でfacebook、twitter、Yahooニュースなどは五万というコメントで溢れかえる。SNSに湧き出る民衆の怨念のエネルギーは、一瞬にして対象者を「炎上」させ、数時間のうちに忽ち廃墟として現世から葬ることのできる新しい暴力装置として定着した。
 その威力は、わずかに記録で知ることのできる第二次世界大戦時の米国のB29による「絨毯爆撃、carpet bombing」以上である。つまり、当の本人ばかりでなく、周囲の家族や一般人も殲滅する恐るべき広範囲な殺傷能力を有している。

 実は、いくつかのインタビューで、軽率にも、愛読書は吉本隆明の「共同幻想論」であると言ったため、苦しい言い訳をさせられる羽目になった。中核的コンセプトである「共同幻想」「対幻想」「個人幻想」などの基本的な概念は辛うじて理解しているつもりであるし、その現代的意味は全く色褪せていないと確信している。しかし、白状するが、実はいまだに「共同幻想論」は半分も理解できていない。
 そもそも、「古事記」「遠野物語」「資本論」や、エンゲルス、フロイトなど知の巨人達の乾坤一擲の力作の知識を前提としている作品であり、その知識に乏しい僕などが、その深遠な境地に到達できるものではない。

 この本を世界最高峰の山岳に喩えると、高校3年生の頃、第一回目の登頂に挑戦している。ほぼベースキャンプにも至らず、撤退となった。
 二回目の登頂挑戦は、大学の1、2年生の頃であった。長時間をかけてのアタックであった。この二回目のトライの頃、ひょっとすると僕の頭は今の3倍くらい良くて、読解力、記憶力は人生の絶頂期にあったかもしれない。何より、この難書を理解するに当たって絶対に必要な瑞々しい「感受性」が備わっていた。
 従って、この二回目の挑戦では、「共同幻想論」の頂きが視野の彼方にわずかに捉える標高までは到達していたのかもしれない。何しろ、暇を持て余す大学1、2年の学生である。時間だけは、山のようにあったのだから。
 第三回目のアタックは、実に、この本に出合ってから45年以上の時を経てからである。大学病院の院長を退職し、しばし時間的余裕ができ、再挑戦した。これは悲惨であった。高校3年生の時とは別の意味で、全く歯が立たず、やむを得ず、「共同幻想論」を解説する本を参考にして、「こういうことだったんだぁ!」という安直をやってしまった。

難攻不落・未踏の「共同幻想論」:「吉本隆明」を読む

 ただ、この吉本隆明という戦後最大の巨人思想家の渾身の集大成を読むにつけ、彼が、どれほどの時間をかけて、博覧強記の重厚な先人達の著書と思想を咀嚼し、この「共同幻想論」に結実させたかという研究の時間軸だけは学んだ。
 膨大な時間をかけ、寝食を惜しんで文献を渉猟し、熟読し、反芻し、そして何より、その数倍の時間をかけ、批判的吟味を行ったことが想像される。
 なにしろ、彼が、反駁した相手は、エンゲルス、マルクスであり、フロイトといった世界の知の巨人であり、それに盾突くことは、それはそれは、恐ろしく勇気のいることであり、万全な理論武装なしには出来っこないことである。
 とにかく、吉本隆明が生涯をかけて、この「個」と「国家」の問題を考え続けたことは間違いない。平たく言えば、彼のような天才にして、たった一つのテーマに一生をかけても、時間は十分ではなかった。

 社会やそれを構成する個人にとって、実「時間」の経過する速度感は、極めて重要な問題である。
 一時期、マレーシアの仮の医師免許をもらって、クアラルンプールの病院に、毎年、手術に出かけていたことがある。最初に行った頃は、熱帯雨林に埋もれた雑踏と混迷のアジアの街であった。しかし、その後行くたびに、空港が変わり、高速道路ができ、街は高層ビルが立ち並び、熱帯雨林はあっと言う間に開発された。わずか10年程度のことである。
 光陰矢の如し、あるいは、Time flies!!ということとは全く違う次元で、世界の変化と情報の拡散は、けた違いに速度を増した。そして、比例して、情報の鮮度の劣化も、驚くべきスピードである。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と論語にあるが、朝聞いた「道」が、夕べには、「非道」になる時代であり、孔子も呆然とするのではないだろうか。

 21世紀になり、平成・令和の時代、時間の加速は研究にも暗い影を落としている。その中で、大学も研究者もスピード感を持ってイノベーションを先導すべきだという社会的圧力をひしひしと感じている。とにかく、実時間の速度が加速して、物事がみるみる間に進み、そして、あっという間に陳腐化し、忘却される時代である。
 だが、吉本隆明のような知の巨人でさえ、「のんびり」と生涯の研究テーマに向かい合ったわけではない。彼にして、日夜を分かたず、必死に生涯のテーマを追求し続けた結果が、「共同幻想論」である。
 吉本が現代の学問世界を評論したら何と言うであろうか。のんびりと与えられた研究室で、惰眠を貪って良いとは決して言わないのではないか。ただ、あっという間に炎上し、灰塵に帰す浅薄な研究や思想を唾棄したことだけは、間違いない。

 まこと、「少年老い易く学成り難し」である。やはり、天才にして、寝食を惜しんで没頭して、ようやく一遇を照らすのが精一杯の研究だとすれば、いやはや、本当に凡人にとって研究の道は厳しいものだ。

 吉本隆明が存命であれば、ミーハーな吉本隆明ファンの私としては、米倉涼子さんは無理としても、是非、本学の非常勤理事になっていただきたかった。あるいは、内閣府の大学改革の第三者委員会のメンバーになっていたら、どんなことを言ったであろうか。