オピニオン Opinion
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ジャイアント馬場さんと出会った夏

 北国の短い夏の終わりの強い日差しの中、叔父が買ってくれた自由席の切符を握りしめ、田舎町には不似合いなほど立派な国鉄駅舎から、列車に乗った。酒宴でもやっているかと思われる喧騒の声が漏れ出てくるドアをわずかに引いて、中を覘いた瞬間、我が目を疑った。
 雲を突くような大男や四人掛けの座席を一人で埋め尽くすような巨漢が車両を占拠していた。中には、頭部全体を覆う派手なマスクをした金髪男まで。
 冷房などなかった真夏の列車は、窓を全開にしても、なお、大男達の男くささが充満していた。そして、その中に、まさか!あの憧れの世界の大巨人がいるではないか!

 中学1年生の僕が、夢のような田舎での夏休みを終え、札幌行きの準急行「えりも」に乗ったのは、お盆も過ぎた晩夏のことだった。僕の夏は、親戚のいる日高三石町という、当時は、どこにでもある長閑な田園と豊かな海岸に彩られた田舎町で過ごすことであった。
 僕が乗車した三石の駅の一つ前の駅は、日高支庁のある浦河町であった。おそらく、前日に浦河で行われた全日本プロレスの興行の帰路であろう。新潟県三条市が生んだ日本が誇る世界の巨人「ジャイアント馬場」さんは、機嫌よさそうに、16文の巨大な足を座席に伸ばして、ウィスキーを瓶ごと飲み干していた。伝説の名レフェリーの沖識名まで同乗しているではないか!
 その全日本プロレスの一団が、大挙して、この田舎の準急行に乗っていたのだ。

 当時の男子中学生の多くがプロレスファンであったが、僕は、「超」がつくプロレスファンであった。当時、書店で毎月専門誌「リング」を隅から隅まで立ち読みし、店員からマークされていた「ワル」であった。そんなプロレス少年にとって、ジャイアント馬場さんは雲上人であった。こんなことはプロレスファンにはあまりに当たり前のことで注釈など野暮の極致であるが、おそらく、数少ないこのコラムの読者の99%は、プロレスファンではないことを前提として注釈するが、プロレスファンにとって、どんな場合でも、「ジャイアント馬場」さんだけは、「さん」付けが不文律のマナーである。

 今回のコラムには直接関連はないが、リング上の熱い戦いを真剣勝負と信じていた純真なプロレス少年であった中学生の夢は、この日、脆くも粉々になった。なんと、あの凶器を使い、卑怯な反則を繰り返す悪役外国人レスラーと馬場さんが、屈託なく笑い合って、彼らの巨大な手の中では、まるで、小さな小瓶のように見えるウィスキーのボトルを回し飲みしているではないか。純真な少年の夢は、この田舎の準急行の中で打ち砕かれた。

 プロレスと競馬の話になると、もう止まらないので、話を本筋に戻そう。

 少なくとも半世紀前の北海道では、こんな田舎町にも立派な駅舎があり、5両連結の急行列車が日に数回は停まっていた。そして、美空ひばりはさすがに札幌限定であったが、三波春夫の歌謡ショーは、僕がひと夏を過ごした日高三石町でも興行されていた。妙にギラギラした原色の歌謡ショーの宣伝ビラが、町のあちこちに張られていた。叔母はその日だけはしっかり化粧をして、どことなくウキウキして、歌謡ショーが行われる公民館に出かけて行ったことを子ども心に覚えている。
 そして、あの日本が誇る世界の大巨人、ジャイアント馬場さんが参戦するドサ回りのプロレス興行が、こんな田舎町でもビジネス的に成り立つほど、地域には人も財も存在していた 。

 あれから半世紀の時間が過ぎ、日高三石町は隣の静内町と合併し、「新ひだか町」になり、人口はピーク時の4分の1程度まで減少した。プロレスはおろか、売れない無名の演歌歌手の興行さえ全くなくなった。

 地域の人口減少と高齢化、経済力の低下をここでグダグダと語っても仕方ないことである。その現実を現場で体験してきた僕にとって、大学がこのことに対してどう向き合ってきたかは、自分自身に向けられた深刻な問題である。僕が典型的な東京人、あるいは、世界の大都市を巡ってきた帰国子女であれば、この問題は「地域創成」の課題として冷静に捉えることができたかもしれない。
 しかし、僕は、この田舎町の急速な過疎への変遷を実時間で目撃し、人間形成の何割かをこの田舎町での経験で培ってきた。この辛い現実に対して、どうしても、他人事として向き合うことはできない。
 地域の問題に向き合うと、北海道大学が建学の精神とし、実は多くの大学も掲げている「実学」について考えてしまう。明確な定義はないが、practical studyであり、地域の課題や喫緊の課題、生活者の目線からの課題に応える学問であることは間違いない。敢えて言えば、農学、医学、水産学、経営学などなどである。
 その実学が、地域の衰退を変えることができなかったことは事実である。なす術がなかったという言い訳は少し無理がある。実際には、私たちの「実学」が、必ずしも「地域学」としては機能していなかったのだと思う。

ジャイアント馬場さんが他界されて20年以上になる。きっと馬場さんは、当時のドサ回りで、稚内から沖縄まで日本中の地域を知り尽くしていたはずだ。一度も実際にお会いしてお話しすることが叶わなかったことは、本当に残念至極だ。
 あの低い籠った声と優しい目で、日本の田舎のことを話して欲しかった。さらに言えば、馬場さんは、米国での修行・転戦も長く、世界からの目線も持っていた。加えて、プロレスというビジネスモデルの先駆者・成功者でもあった。
 「世界に伍する」と同時に「地域の課題解決」という、一見相反する課題に対して、気障な言葉で言えばどのように「止揚・アウフヘーベン」するかという難題を解決するためには、馬場さんの空手チョップ、16文キックが役立ったに違いない。