オピニオン Opinion
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ホームカミングデー:大学のお彼岸

 無信心とは言えないが、宗教に関しては、節操がない。小学生の頃、プロテスタント系の日曜学校に通うのが楽しみで、日曜日が待ち遠しかった。理由は、そこの優しい女性の先生に褒めてもらうのが嬉しかったからである。思春期前からこの調子であり、実に「おませ」で不純不埒な小学生であった。
 親類縁者の葬式は、曹洞宗から浄土真宗、日蓮宗まで様々。娘たちはカトリック系のミッションスクール。仕事でマレーシアにいた頃は、ラマダーンとはいかなるものかと興味を持って、プチ断食に挑戦した。しかし、予想通りと言えばその通りであるが、翌朝、空腹で目が醒めた。そして、出国時に日本の成田空港で買ったアーモンドチョコをあらかた食べてしまい、自分はムスリムにはなれないと思い知らされたことがある。

 病院長で多忙であった頃の話である。日頃の無信心も重なり、年に一度の墓参も途絶えがちになり、「大学の病院長は忙しいから・・・」と、親戚筋からは半ば諦められていた。この不義理を何とか挽回しようとの思いで、病院長の最後の年の夏のお盆の時期、そして、秋のお彼岸の時期、墓参を兼ね、各地に点在する親戚巡りをしたことがある。

 血縁とは有り難いものだ。長年の不義理も忘れて、「忙しいのによく来てくれた!」と歓迎してくれる。
 「さあさあ、爺さん婆さんに線香をあげてくれ」と仏壇のある奥の部屋に通される。小学校の音楽室のハイドンやバッハの肖像画さながら、セピア色の遠い明治期の親戚の写真が飾られた欄間のある部屋に置かれた仏壇の前に座ると、自分が小さくなったような気がする。
 僕にとっては自分との関係性すらわからない親戚の話、次々とすでに他界した親戚が登場するが、理解は容易ではない。特に、皆さんも田舎の縁戚と話をすると気が付くと思うが、家の名前が、地名に置き替わったり、あるいは、同名の親戚を区別するためにその家業で呼称したりする風習は一般的である。これは、もうある意味、暗号化であり、家系の理解は困難を極めることになる。

 明治以降の出生率(正確には特殊出生率)を見ると、二つのピークがある。明治期と昭和の戦後直後に4~5の高値となっており、とにかく、子どもがたくさん生まれた。当然ながら、”親戚“が爆発的に増えた時代があった。高等な数学の力を借りるまでもなく、出生率が少し上がるだけで、親戚の数はネズミ算というか指数関数的に増える。まして、連れ子や再婚、養子・養女などがあると、もう、もつれあった糸玉のようになり、家系図の単純な樹形の表現では収まりきらない複雑さが生まれる。

 大学も北大のように創基150年を迎える旧家ともなると、実に多くの様々な人々が複雑に混じりあっている。さらに、関わりのあった人々の大多数がすでに他界されて、「彼岸」にいる。その中で、「講座」という分家のような組織が生まれては消えたり、合併したり、あるいは、拡大し、更なる分家を作りだす。それこそ、大学院改革などの結果、教室名が変わり、大講座制になったりすると、自分の学んでいる講座がどこにルーツを持っているかも容易には把握できない有様である。

 北大にとって、ウィリアム・クラーク先生が、別格のご先祖様である。クラーク先生は、わずか8か月半の札幌滞在の後、「Boys be ambitious」という最高のキラーフレーズを残して去っていかれた。
 クラーク先生の末裔の方々、クラーク家と北海道大学は今でも曾孫様が本学を訪問されるなど、強い繋がりがある*1。クラーク家は、「北大」家にとって、150年前にこの地に大学の礎を作った数代前の曽々々々祖父のような本家筋にあたる。
 現在、大学の百年記念会館の一室には、ハイドン、ベートーベンさながらに、歴代の総長の肖像画が飾られている。これに囲まれると、遠い親戚のセピア色や白黒の写真のように威圧的で、どこか懐かしい。

 北大の「ホームカミングデー」の季節である。
 総長を拝命してから、この小洒落た「ホームカミングデー」の何たるかを、深く考えることになった。奇しくもこのホームカミングデー、北大では、ほぼ秋のお彼岸の時期に行われる。
 ホームカミングデーは、主にアメリカで広まり、日本にも導入されたものである。アメリカのホームカミングデーは、要するに、卒業生が母校に集まって、母校のフットボールチームの試合を見ながら、旧交を温める行事である。ある意味、長閑な古き良きアメリカン・グラフティの世界である。
 日本の国立大学法人では約3割程度の開催であり、その内容もアメリカの模倣であったり、学園祭と重ねたりしている。しかし、こうして、クラーク家の末裔からのコンタクトがあり、あるいは、先祖代々さながらの歴代の総長の肖像画に囲まれると、ホームカミングデーは、「大学のお彼岸」のように思われる。

 クラーク先生は、わずか8か月半の札幌での教員生活を、人生で最も輝いていた期間と述べたと伝えられている。総長室には、クラーク先生が米国帰国後に札幌を懐かしんでしたためた自筆のメモが飾られている。

   
   現北大総長室に飾られているクラーク先生自筆のメモ(クリックで詳細を表示)

 先生は、ご存知のように、札幌からマサチューセッツ州に戻った後、起業に失敗し、親戚との確執、そして病魔と闘い、わずか10年後、59歳で他界している。
 クラーク先生は、マサチューセッツ州、アマーストの墓地に眠っている。当然のことながら、この無信心者である現総長は墓参を果たしていない。コロナ禍が収束した暁には、日頃の不義理を詫びるために、是非とも、アマーストの墓地に花を手向け、末裔の皆さんにご挨拶したい。

 財政難である。数代前まで歴代総長は高額な肖像画で壁に飾られていたが、ここ3~4代は平凡な写真になってしまった。数年後、そこに「シュッとしたお顔」とは真逆の、顔の筋緊張が無残にも低下した第20代総長が加わることになる。
 50年後、時の北大総長は、どんな思いで、間違いなく「彼岸」にいる僕のセピア色の写真を見るのだろうか。