オピニオン Opinion
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フリーエージェント宣言

 毎週水曜日の夜、僕は不機嫌になる。

 家に帰ると、家族がクイズ番組の「東大王」で盛り上がっている。平和な一家団欒のど真ん中に「東大王」がいる。
 「東大王」。我が家族は、一家の中に「北大総長」がいることを百も承知で、この番組を楽しそうに見るか!?「フン、僕だって、大学生の頃は、一晩で300ページの本を読んで、一言一句記憶することくらい、お茶の子さいさいだったんだぞォ!!」と強がりを言う。食事の輪に入る前に、リモコンを操作して、「東大王」以外の番組に変える。我儘極まりない家族の一員の暴挙で、食卓の楽しい雰囲気が険悪なものに一変する。

 ただ、間違っても、「北大王」などという番組を作ってはいけない。ローカル局でも数回で最終回になることくらい想像はできる。「東大王」でなければ、視聴率は取れないことくらい百も承知の介である。
 「東大」は、日本を代表する学術ブランドである。視聴率欲しさに民間放送がそのブランドを利用しているくらいで、いちいちカリカリするなど大人気ないに違いない。
 違うのである。僕が「東大王」でイライラするのは、もう少し屈折した理由がある。それは、「東大王」に表現されているように、この日本が誇る東大にして、世界では後塵を拝していることである。日本の大学が、世界の競争の中で苦戦していることに思いが及び、その競争の激しさにいら立つからだ。

 読売巨人軍からニューヨーク・ヤンキースに移籍して、最初のシーズン開幕戦で満塁ホームランを放った松井秀喜が、「チームのために打てたことがうれしいです」とコメントした。「おいおい、松井君、綺麗ごともそこそこにしてくれ。じゃあ、なぜ、巨人を捨てて、ニューヨークに行ったんだ!」と捻くれ男は感じていた。
 プロ野球の世界は、日本もアメリカもないし、自己実現を究極の目標とする人間も非難されるどころか称賛される。リバタリアニズムが席巻している環境では、少しでも年俸が高く、プレー環境の良いチームを選ぶのは、当然である。メディアの注目度も読売巨人軍とニューヨーク・ヤンキースでは天と地の差がある。
 素直で純朴な日本人の多くは、イチローや大谷翔平が、米国で活躍し、日本人も世界のメジャーリーグで通用する姿を見て、手放しで称賛する。捻くれた発言をしていたのは、元巨人の張本勲氏くらいである。

 イチローや大谷翔平ほどに注目されないが、優れた研究者の国内移籍やさらには海外流出が加速しているように思われる。学術の世界のスタープレーヤーや将来有望なルーキーが引き抜かれる。最近では、米国に国籍を移した眞鍋淑郎先生のノーベル賞受賞や、化学賞候補の藤嶋昭先生が研究拠点を中国に移すことも賛否両論、話題になっている。
 近い将来、世界の学術の集中や寡占が進み、北京、シンガポール、ロンドン、ボストン、サンフランシスコなど、世界のごく一部の都市に、世界の叡智の大多数が集中してしまうのではないかという暗い思考実験をしてしまう。こんな思考実験は極端過ぎるかもしれない。しかし、実際にはもっと目に見えない形で世界の大学、学術の在り方は変貌しつつある。

 学術の一極集中により、大学と学術がユニコーン型となり、イノベーションを生み出す効率が高くなることは想像に難くない。しかし、心配性の田舎の学長には、余計なことが気になってしまう。
 自己実現型の研究者の集結による、オールスター型、ニューヨーク・ヤンキース型の大学は、学術の世界を大きく変貌させる。弱肉強食のルールの下、多様で豊穣であったアカデミアが荒涼たる砂漠に変わり果てるのではないかと暗い想像をする。
 自己実現型の研究者が、高給と潤沢な研究環境を求めて流動することを引き留める「正義」を主張するのは容易ではない。その結果、基盤となるアカデミアという社会共同体の絆を失ってしまう。社会共同体の基盤を失った無邪気な研究者は、知らず知らずのうちに、政治的意図や軍事的な巧妙な企みに利用されるのではないか。ジョン・ロールズに代表されるような「正義」の思想が埋め込まれている僕みたいな人間は、心配で心配で仕方ない。

 日本の大学は、世界の中では苦戦を強いられている。おそらく、東大をはじめとする日本の一流大学にいる新進気鋭の売り出し中の研究者の中には、もっと良い給与、良好な研究環境、研究費を提示されれば、シンガポールだろうが、北京だろうが、ボストンだろうが、自分の研究者としての自己実現をひたすら求める者も多いであろう。彼らにとっては、「東大」も経歴の中の一つの通過点に過ぎない。

 あってはならない悪魔のビジネスが、僕の妄想の中ではすでに出来上がっている。会社名も決定している。
 「グローバル・アカデミア・リクルート(Global Academia Recruit略してGAR)」という実にベタな会社名である。研究者のポスティング制度、フリーエージェント制度を利用して、それを仲介するビジネスである。目利き力があれば、成功は間違いない。研究が引き起こすイノベーションから生み出される富の莫大さを想像すれば、このビジネスが設定する成功報酬は、大谷翔平の移籍の比ではない巨額なものとなるのも想像される。

 大学ランキングに血眼になっているH大学のH学長は、毎朝、会員制のGARのサイトを開く。A国のB大学のC先生。所有研究費〇〇億円、サイテーション・インデックス〇〇、希望報酬○○億ドル、移籍金〇〇万ドル。
 もちろん、H大学のH学長も、求人欄に情報を載せている。委細面談、特別報酬あり、住宅手当あり、単身赴任歓迎・・・。
 くれぐれもこうしたビジネスが生まれないように願っている。

 「東大王」も必死である。最近、東京大学が新しい経営プランを次々と発表している。東大は、日本のリーダーとして、世界で戦わなければならない。大きな税金をもらっている以上、日本代表としてその範を示す責任も大きい。スター選手の引き抜きを未然に止め、メジャーリーグから東京にトレードさせるための強力な経営方針を打ち出している。
 世界の大学の仁義なき戦いに勝ち抜くことと同時に、大学の「正義の正解」ピンポーン!!を出さなくてはならない。