オピニオン Opinion
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災厄の雲間から差し込んだ一条の光
-----外岡秀俊さんを偲んで----

 「燃える闘魂」アントニオ猪木師匠の教えによれば、「人はどこかで出会って、どこかで別れるもの」らしい。こんな平凡な人生訓でも、猪木師匠が語ると、ファンの胸にはズキンとくるから不思議だ。これは、興行的には大成功したタイガー・ジェット・シンという稀代の悪役レスラーとの出会いと決別を振り返って語った時の言葉だ。
 出会いも別れも、不条理である。出会いと別れの間を繋ぐ細い時間など、蜘蛛の糸にも及ばない。人は、どこかで出会って、どこかで別れる。

 これまで、何度も友人や先人の追悼文を書いてきた。追悼文は、本当に難しい。個人的な経験や感情を紡ぐ追悼文は、本来、”独りよがり“なものだ。生来、涙もろいところがあるのかもしれないが、書いている本人は、追悼文を書きながら、あるいは、読み返しながら涙してしまうほど、感情移入してしまう。おそらく、読み手には理解されないのが追悼文である。まして、赤の他人の追悼文である。もし、それで、読み手の心を少しでも震わせることができれば、もはやプロの文筆家の領域である*1。それを承知で、難度の高い、追悼の文章を書かせてもらう。

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 「年が明けたら、また是非、お話ししましょう」という約束が最後の言葉だった。
 外岡秀俊さんは、ジャーナリストであり、作家であり、私たちの世代を代表する知性だった。昨年9月末、外岡さんは、ジャーナリストとして、北大の取材ということで、総長室に現れた。
 その外岡さんが、突然、旅立った。

 出会いは、僕が15歳、彼が16歳の夏だった。入学した高校の校舎は、バリケードで封鎖されていた。その封鎖の一番奥に一学年上のリーダーの外岡さんがいた。
 その夏、機動隊の導入により封鎖は強制的に解除され、僕たちは荒んだ校舎に戻った。それが、外岡さんとの出会いであった。すでに、鋭い批判の知性が表情と言葉の端々に見えていた大きな外岡さんと較べて、僕は、小さな高校1年生だった。僕は、本能的に怯み、距離をおいた。

 その後、彼は、東京の大学に進学して、作家として、そして、当代を代表するジャーナリストとして世界をめぐり、生き生きとした情報を発信し、時の政権や権力に厳しい言葉を向け、不正に対して憤りの言葉を浴びせ、膨大な数の評論を書き、小説を書いた。
 僕は、時々、手術室に入る前に読む朝日新聞の論説欄に、論説委員の外岡秀俊の名前を見つけて、何故か、眩しい、そして、同時に、不思議な後ろめたい気分になっていた。
 人生は、悠久の時間と多次元の空間の中の時空間旅行だ。一瞬でも交差することは奇跡だ。僕と外岡さんの人生の時空間での線はもう重なることはないと思っていた。

 その外岡さんが、アポはあったものの、突然、僕の部屋を訪ねてきた。もともと、こちらは、高校生の頃から、権力に阿ることのない強靱で透明な外岡さんの知性に気後れしており、ある意味、劣等感さえ感じていた。その外岡さんと50年ぶりに再会するとなると、朝からそわそわしていた。
 50年ぶりに現れた外岡さんは、バリケード封鎖の中にいた16歳の高校生そのままであった。物静かで、深い知性を感じさせる視線は、驚くほど、変わっていなかった。
 外岡さんは、北大の産学連携の取材と言いながら、「南高校の紛争、寳金先生や大野先生達後輩には、大変な迷惑をかけた」ことを何度も謝罪した*2。まるで、50年前、自分たちが引き起こした事件を謝罪するために僕のところに来たかのようだった。一方で、あの若い熱量が漲っていた高校紛争は、俺たちだけのもので、寳金先生達はその外側にいたのだと疎外されたように感じて、僕の心は少し痛んだ。

 思いがけない50年振りの再会からわずか数週間後、母校(札幌南高校)の同窓会があった。一昨年の2月以来、こうした大規模なイベントは、全く開催ができない状態が続いていた。
 しかし、この同窓会が開催された10月中旬は、まるで、空を覆う暗雲の隙間から、一瞬、一条の光が射し込むように、コロナ禍はひと時の見せかけの収束の時期にあった。奇跡のように、人数制限はあったものの、華やかなホテルを会場として、賑やかに同窓会が開催された。
 当日は、外岡さん曰く「自分達がめちゃくちゃなことをして、申し訳ないことをした世代」である私と東北大学の大野英男先生、そして、更に一年下でアメリカで活躍している石井裕教授の3人が対談となった。
 対談終了後、会場の奥に控えめに立っている外岡さんを見つけた。促して、ようやく、ステージ近くに来てくれた外岡さんは、重ねて「僕たちが陰だとすれば、寳金先生や大野先生、石井先生は光の部分だ。」と、僕の総長室で語った言葉を繰り返した。
 そうかな・・・。外岡さんも本心はそのようには思っていなかったような気がする。事実は、外岡さんが外側から世界を照らし出す光で、僕(達)は、それによって照らし出される世界の内側にいたのだと思う。

 同窓会からわずか2か月後、外岡さんは、突然、旅立った。それは、バリケードの中にいたり、鋭い刃物のような論説を書いたりしていた外岡さんには、まるで似つかわしくない死であった。札幌市内のスキー場で、二度滑った後、三度目の滑走のために乗ったゴンドラの中で、外岡さんは突然死を迎えたと伺った。
 ただ、外岡さんの目に映った末期の風景が、故郷の美しい雪に覆われた厳冬期の光景であったことは、仕合わせなことだったような気がする。外岡さんのデビュー作、「北帰行」の冒頭の描写は、彼の目に映った末期の風景だったのかもしれない。

----眼を醒ますと、列車は降りしきる雪の中を、漣ひとつ立たない入り江に辷り込む孤帆のように、北に向かって静かに流れていた。夜明けが近いのか、暗色に閉ざされていた空は仄かに白み始め、吹雪に包まれた雪景色の単調な描線が闇から浮かび上がってきた----
「北帰行」*3外岡秀俊、冒頭より引用

追記
 他界された数日後に、私のところに、外岡さんの最新の評論「価値変容する世界」*4が送られてきました。また、最終的段階の小説もあったと耳にしています。是非、私たちの手に届くことを祈っています。

----編集部コメント
 外岡秀俊氏は、札幌市出身。札幌南高校卒、東京大学法学部卒、作家、朝日新聞のヨーロッパ総局長、編集局長など歴任。数年前から、母親の介護もあり、故郷の札幌に戻り、小説や評論を発表。北海道大学公共政策大学院上級研究員。代表作は、小説「北帰行」、直近の評論「価値変容する世界」など多数-----。68歳で2021年12月に急逝。

  • *1
    寄稿 外岡秀俊さんを悼む 朝日新聞 2022年1月19日夕刊 2ページ
  • *2
    道しるべ 朝日新聞 2021年11月11日朝刊 28ページ
  • *3
    外岡秀俊 『北帰行』 河出書房新社
  • *4
    外岡秀俊 『価値変容する世界』 朝日新聞出版