オピニオン Opinion
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プーチン大統領とゴルフ場で出会う

 Fは、僕のゴルフ仲間の中でも、他の追随を許さない「ゴルフの鬼」である。Fは、外科医であるが、彼とどういう経緯で知り合ったのか、どこの病院で一緒に仕事をしたのか記憶が定かでない。今は、ひたすら、ゴルフだけで繋がっている。雨が降ろうが、雪が舞おうが、ゴルフ場から閉鎖の連絡が来ない限り、約束したゴルフ場のスタート地点で出会うことになる。
 スタート時、小雨だった雨が、プレー途中に土砂降りになり、ハーフの時点では中止について議論の余地はないと思った日も、Fだけは断固抵抗を示した。採決すれば、3対1で中止になることは歴然としていた。しかし、多数決の原理は、譲らない主張には勝てない。
 その日、結局、全身ずぶ濡れで、15番ホールあたりからは会話も途絶え、仮に声を発しても、たたきつける雨音に消される有様であった。最終ホールで、僕は、ティー・ショットした瞬間、雨でずぶ濡れになったシューズが脱げ飛んで転倒し、泥だらけになった。幸い、怪我はなかった。
 この時だけは、本当にゴルフをやめようと思った。

 3年前の3月中旬のことである。そのFが、札幌市内がまだ深い雪に覆われていたこの時期に、車で3時間はあろうかと思われるゴルフ場を予約したと伝えてきた。この時期、北海道で最初にオープンしたゴルフ場だった。
 断る選択はなかった。

 3月とはいえ、冬型の気圧配置で寒風が吹き、気温は3度。小雪が舞い散る中、凍てつくような寒風で体感温度は氷点下であった。残り70ヤード。Fが、サンドウェッジでダウンブローに打ったボールには快心のスピンがかかっていた。ボールは高い放物線を描いて、ピンを串刺しするようにグリーン上に落ちた。スピンの利いたボールは、バックスピンがかかり、ピンそば1メートルでピタリと止まるはずであった。
 しかし、シーズン最初の北海道のゴルフ場の地面はまだ凍っていて、硬いグリーンの面で、ボールは跳ね返った。ツーバウンド目で、視界の彼方へ向かった。ボールは、舗装されたカート道で跳ね、前方にある次のティーグラウンドに飛び込んだ。

 前方のティーグラウンドには、2人連れの男女がいた。メルケル首相のような腰高の体格の女性ゴルファーとプーチン大統領と見紛うような筋肉隆々の初老の男性の強面カップルである。後方から飛んできたボールを拾い、無言で振り返り、こちらを睨みつけた。この3月に、北海道のゴルフ場でドイツ・ロシア首脳会談があるとは聞いていなかった。
 ゴルフというスポーツで前の組にボールを打ち込むのは、あってはならないマナー違反である。宣戦布告である。プーチンの凄んだ形相は言葉にならない。ゴルフシーズンにはまだほど遠いこの時期、ゴルフ場にいるメルケルとプーチンそっくりのカップル。ただモノであろうはずがない。一歩間違えば、その筋の人かもしれない。
 体中から冷や汗が出た。情けないことに、僕は思わずFから遠ざかり、見知らぬ他人のふりをした。幸い、Fがすかさずクラブを放り出して、猛ダッシュで前方にいたプーチンとメルケルに直角お辞儀で謝罪したことで、ロシアとドイツを相手にする無謀な戦争は回避された。

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 この北光一閃シリーズには、いくつか書きためたものもある。あるいは、執筆途中で出来の悪さに嫌気がさし、お蔵入りになったものは売るほどある。このメルケル・プーチンのゴルフの話は、この時期の掲載のために、昨年暮れに途中まで書いていたものである。話は、この後、気象変動へ展開する予定であったが、筋の悪い出来で、納得できる完成度に至らず、ボツになるはずであった。
 昨年末の執筆当時、プーチン大統領が、まさか翌2022年の冬の終わり、歴史的暴挙の主役として登場することは想定もしていなかった。

 昨年まで、僕のプーチン氏像は、「冷静な戦略家であり、交渉相手にすると世界でも最も手強い政治家の一人」というものであった。冒頭の出来の悪い3年前の思い出話もそれを物語っている。
 安倍元首相と「シンゾー」「ウラジミール」と呼び合うほど日露の蜜月のピークであった2016年、ウラジオストクと東京での会議に参加し、このロシアの大統領を垣間見ることができた。屈強な格闘家の体躯と冷静沈着な表情は、オーラを放っていた。
 しかし、当時をどう振り返っても、2022年2月24日以来のウクライナ侵攻という、世界の9割以上の国々を敵に回し、さらに、万全でない国内状況を無視して、第二次世界大戦後、欧州における最大規模の軍事行動という暴挙を彼が実行するなど、つゆほどにも想像もできなかった。
 今、ウクライナで日々起こっている悲劇の原因を専門家が様々に分析している。歴史は、膨大な歴史の積み重ね、複雑な地政学的条件、さらに膨大な人間の行動・思いという複雑系の自己組織化の結果として生まれる。今回のウクライナの件を見ても、非線形的な出来事である。自己組織性 (self-organization) と非線形性は、複雑系に固有の特徴である。プーチン氏の内部に起こった小さな揺らぎが、バタフライ効果のようにこのウクライナ全土に及ぶ軍事侵攻に影響したという憶測も、決して妄言ではない。

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 ゴルフの鬼であるFと知り合いになったこと。そのおかげで、3年前の3月のゴルフ場で、プーチン氏そっくりの男性に出会ったこと。どれも複雑系のなせる業である。
 あの時、プーチン氏に瓜二つの男に「冷静な判断をしてくれ」と頼んでおけば、それがバタフライ効果で、今回のウクライナでの悲劇を未然に防ぐことができたとはさすがに思わない。
 ただ、歴史が複雑系であり、自己形成・自己組織化する非線形な生態系と信ずるに足る理由がある。僕の力も、北大の力も、歴史という膨大なエネルギーの前では宇宙に浮かんだ塵にも及ばない。しかし、複雑系を信ずるならば、私達は、微力であっても無力ということは決してない。すぐに効果が出るなどは思っていないが、私達の小さな決意表明*1、あるいは、国立大学協会の声明*2が歴史の自己形成に関わらないはずがない。
 どんな小さな声でも「正しさ」に自信があるなら、聞こえるように発するべきだ。ゴルフでも、打ち損なえば、「ファー」と大声を発するルールがある。3年前の3月、グリーンで跳ねたボールがプーチン氏そっくりの男性に向かっていった時、「ファー」と叫ぶべきであった。

 ロシアに最も近い大学の一つである北大は、ウクライナの学生、ロシアの学生を含めて、多様な学生が平穏に学べる大学でなければならない。この話、今年、最初のゴルフ場のスタートホールで、Fにも伝えなければ。