オピニオン Opinion
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M氏とH氏
----サンフランシスコ1987年----

 カリフォルニアの夏は、連日、猛暑である。

 1986年から1989年にかけて、サンフランシスコ市から地下鉄で40分くらいの郊外の静かな町で暮らしていた。
 プール付きのアパートと言えば、日本では贅沢と思われるが、灼熱のカリフォルニアでは当たり前の設備である。私達の暮らしていたアパートにもプールがあった。

 そんな猛暑のある日、プールで、カップルがキャーキャーと楽しそうに嬌声をあげて戯れていた。プールの水をかけあって、小学生のようにはしゃいでいる。微笑ましい光景には違いないが、私達当時の日本人にはあまり馴染みがないものだった。プールではしゃいでいたのは、どこにでもいそうな中年の白人男性のカップルであった。
 最初は兄弟かと思ったが、すぐに、勘のいい家族(と言うか、気がつかない私の感度の低さが問題かもしれない)に言われて、その二人が同性のカップルであることが分かった。
 その後、アパートに設置されているコインランドリーでも、仲のいいM氏とH氏の二人をしばしば見かけることになった。いつも、お洗濯ものを丁寧にたたんでいるのがM氏で、微笑みながら雑誌を見ているのがH氏だった。実にユルーイ平和な日常だった。

 当時の私の英語の教材は、セサミストリートだった。セサミストリートには、とても仲の良い同性カップル、バートとアーニーが出てくる。公式に、製作者は、「性的指向のない」「親友同士」としている。とは言え、どこから見ても、バートとアーニーは、同性カップルのモデルに違いなかった。今から、30年も前に、米国では、すでに、子どもの番組に同性カップルのことをしっかり取り上げていた。
 仲睦まじいコインランドリーのM氏とH氏は、バートとアーニーによく似ていた。二人とも、バートとアーニーのように、それはそれは幸せそうだった。

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 どっぷり、昭和の教育を受けてきた日本人家族にとって、同性カップルの身近な出現は黄色信号であった。同性愛者やドラッグ使用者の間で、エイズが蔓延し、猛威を振るっていた時期でもある。サンフランシスコは、そのど真ん中にあった。
 実際、1987年頃と記憶しているが、日本から、エイズの現地視察のために、政治家の視察団が訪問したことがある。日本語通訳ということで私のボスがエスコートした。
 サンフランシスコ市内の繁華街のカストロ・ストリートはLGBTQの聖地である。LGBTQとして最初に政治の舞台に立ち、そして非業の最期を遂げたハーヴェイ・ミルクが、活躍した街である。視察団は、エイズが猛威を振るっていたカストロ・ストリートでは、感染を恐れて、視察用のバスから降りなかったと聞いている。

 あれから、30年、レトロウィルスによる後天性免疫不全症候群(エイズ)は、治療薬による成績の飛躍的向上により、ほぼ治療可能な疾患となった。そのことと並走するように、この疾患とLGBTQとの関係に関する偏見も少しずつ解消されつつある。
 しかし、社会や私たちの中にある根源的な差別を取り除くことは、疾患の克服以上に、困難な闘いである。
 学術は、しばしば、偏見を助長し、人々の分断を引き起こすが、一方で、偏見や差別に何の科学的根拠がないことを見事に示してくれる最高の仲間「アライ」(ALLY)でもある。医学研究などのエビデンスに基づいた科学は、こうした偏見と闘う人々のアライとなった。

 サンフランシスコは、中国人とイタリア人がビジネスを興し、ゲイが芸術・文化を創り出し、LGBTQがイノベーションをもたらした街だと、私の師匠は語っていた。彼らだけが、あのサンフランシスコの街を作ったわけではなく、少し、盛り過ぎかもしれないが、実際、私の研究所で当時最先端のゲノム解析で華々しい成果を上げていた研究者は、今思えば、LGBTQだった。
 この街は、ゴールドラッシュに沸いた西部開拓の終着駅であった。熱い野望を持った多くの人々が、吹き寄せられるように、西海岸の果ての霧の街に漂着した。
 それから約100年後、第二次世界大戦時、戦場に向かう軍港から若い兵士が見た祖国の風景は、この坂の多い異国情緒に溢れた街だった。あるいは、戦場から帰国して疲れ切った兵士達を最初に迎え入れたのも金門橋(ゴールデンゲートブリッジ)のあるサンフランシスコの美しい街並みである。
 命を懸けた西部開拓や戦場から、ようやく辿り着いた街で、性別や肌の色、人種を超えて、人間が寄り添うという想像は、やや、日本人の演歌的解釈が入り込み過ぎているかもしれない。しかし、サンフランシスコがLGBTQの発信地であり続けるのは、相応しい歴史と地理的理由があることは間違いない。「比類なき街」である。
 そして、そのサンフランシスコが、第二次世界大戦後の科学やビジネスのイノベーションの最大の発信地となったのは、決して偶然ではない。

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 昨年末、遅ればせながら、北海道大学ダイバーシティ&インクルージョン推進宣言*1を公表した。「今更、遅いわ!」と厳しいご意見も受け止めつつ、何とか、巻き返しということで、その後、頻回にイベントを開催し、対話を重ねてきた。
 サンフランシスコ湾(ベイ)周辺の人口密集地をベイエリアと呼ぶ。ベイエリアには、カリフォルニア大学バークレー校、スタンフォード大学などの世界最高峰の大学が肩寄せ合っている。そして、そこからスピン・アウトした人々が築いたシリコンバレーが世界を席巻している。多様性とこれを受け入れる包摂性は、この地域で過ごした経験からいやというほど目撃してきた。
 幸運なことに、1990年代後半、ベイエリアで、短期間ではあるが二度目の研究機会に恵まれた。その頃になると、スタンフォード大学は、多様な人種構成は当然、女性研究者の比率も増加し、LGBTQの研究者や教授の姿を当たり前にカフェテリアで見かけるようになっていた。
 研究力を急激に伸ばした大学を見ると、LGBTQも含めて、研究者の多様性、ダイバーシティ&インクルージョンが、研究力向上とイノベーションの重要な原動力の一つになっている。オープン・イノベーションは、人間全体そのものの多様性をインクルージョンする痛みを伴うものだ。そして、その痛みなしには成功しない。

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 あれから、30年が過ぎた。M氏とH氏も、存命であれば、もう70歳代になっているはずだ。プールではしゃぐことはないかもしれない。しかし、元気で仲良く暮らしていると良いな!と願うばかりである。