オピニオン Opinion
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宇宙服を着た町医者に出会う

 コロナ禍の真っただ中、あるクリニックを訪ねた友人の話である。
 市内中心部のビル4階にある、そのクリニックの外来待合室に人の気配はなかった。「お願いしますぅ・・・」と控えめに声をかけると、全身、感染防護服を身につけ、ゴーグルとN95マスクで顔を覆った受付の中年女性が奥から現れた。彼女は何故か、「ビックリしないでくださいねーー」と前触れした。
 しかし、友人は一瞬たじろいだ後、改めて目を見張った。この受付の女性、見慣れないものを手にしている。何と表現すれば良いのか。強いて言えば、メジャーのついた〝さすまた〟のような長尺の竿をもっている。そして、その先端にプラスチックバケツのようなものがぶら下がっている。それがいきなり目の前に差し出された。
 「これで2メートル離れていますから。ご安心くださーい。その先のバケツに保険証を入れてくださーい。バケツは毎回、アルコール消毒していますから、ご安心くださーいませー」と妙に事務的に語尾が伸びている。
 簡単な問診を終えると、診察室に案内されたが、その間も、「2メートル」の距離が〝さすまた〟により厳格に保たれている。診察室の中には、コロナが猖獗を極めた、当時の中国武漢市の映像さながら、宇宙服ではないかと思われる感染防護服に覆われた先生が待っていたそうである。

 同じ頃、僕は、友人の外科医であるA先生から、このコロナ禍に関して熱い薫陶を受けていた。「ホーキンね、もう集団免疫が、日本人では確立しているから、心配なし。大学の学長あたりが、そのあたり、頑張って主張してくれないと、困るんだよォ・・・」という具合だ。マスクは片方の耳にだけアリバイ的にかかって、ブラブラ揺れている。「『口角泡を飛ばす』とはこのことか」と思うばかりの勢いで、北大総長を説諭してくれた。
 小心者の総長は、スーパーコンピューター富岳が計算した、例の飛沫が飛散する動画を思い浮かべた。そして、こっそり、マスクの鼻の部分にあたる金属部分をしっかり折り曲げ鼻に密着させて、Aの熱い息と飛沫の侵入を防ぐ涙ぐましい努力をした。「こいつ、昔から学生生協食堂の餃子ファンだったよなぁ。今日の昼飯もニンニク満載の餃子だったに違いない」と確信しつつ、とにかく、一刻も早く、急な用事を思い出したとバレバレの言い訳をして、この暑苦しい外科医の話を打ち切らせ、退散することばかりを考えていた。

 ノーマスク外科医の熱い説得から這うように逃れて、ようやく総長室に戻ると、医学部で同期の秀才から、久しぶりにメールが届いていた。学生の頃から、「冷静沈着」が洋服を纏って歩いているような基礎医学講座の教授であるB君から、添付ファイル付きのメールが届いていた。ファイルは2MBのサイズでズッシリ、重い。
 2MBの添付ファイル付きのメールでは、コロナ禍とワクチン接種の問題点を実に詳細な文献考察に基づいて論証している。製薬会社の研究開発の経緯とその添付書類の意味する問題の多い契約内容、ワクチン開発の中で繰り広げられた政治と利権の暗闘についても、海外のメディア論評の原文を引用して論考している。
 さすがB君である。エビデンスでしっかり理論武装しており、そのまま、投稿すれば、どこかの国際誌くらいには受理されるのではないかという出来栄えである。昨今、ツイッターで暴れまわっている浅薄なフェイク拡散主義者とは別格のレベルである。コロナ禍がロスチャイルド家に繋がる秘密組織によって仕組まれた、壮大な国際的陰謀であるという荒唐無稽な話とは一線を画している。
 しかし、秀才B自身の研究はどうなっているのかと、ふと心配になった。

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 このコロナ禍、医学はこれでもかとばかりに翻弄された。医師会は、医療崩壊というキラーワードを使って、予防法やワクチン接種を庶民に対して力説してきた。しかし、本来、近代医学が依って立つ科学的根拠に欠けることを自ら自覚していたためか、自信のなさがそこかしこに見え隠れしていて、その結果、ご存じのように、一糸乱れぬ統制とはいかなかった。むしろ、この間、科学より政治に揺り動かされ続けた。
 医師会の主張が、力強い科学的根拠に欠け、統制を失った結果、末端の先生方を見れば、かくの如く、百家争鳴のカオスとなった。宇宙服を着た開業医、集団免疫確立を熱く語るニンニク臭の外科医、ワクチン開発の暗部を理路整然と説明する教授など、それぞれに動揺し、それぞれの解釈で現状を打開しようと悪戦苦闘していた。
 もし、お医者様の言うことを信じて疑わない純真無垢な患者さんが、この3人の先生に順番に診てもらったりしたら、どれほど、混乱し振り回されたことかと考えると、空恐ろしくなる。いや、実際に、似たような混迷が市井に溢れたことは想像に難くない。この3年弱のコロナ禍、医学ばかりではない、様々な科学領域・学術が、これまでに経験したことのない動揺を経験した。

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 大学もその混迷の例外ではなかった。むしろ、「知の拠点」であるからこそ、混迷のマグニチュードを増大させる震源地とも言える状況であった。未知の敵、未知の現象に対して、21世紀の現代科学は、中世の暗黒時代とさして変わらぬ迷走ぶりを表した。ワクチンの開発は、確かに、21世紀に新しく開発された技術やAIでなければ成し得なかった成果に違いない。しかし、ワクチンが、コロナ禍による世界の混乱や人的被害をどれほど軽減したのか、あるいは、どれほど良い方向に変調させたかは、実のところ、専門家の間でも議論が分かれるところである。
 むしろ、いまだに、極めて有効な治療薬を開発し患者に届けることができなかったことで、21世紀の科学技術の限界が露呈された。さらに、皮肉なことに、21世紀の金字塔であるITやSNSが、冒頭の3人の医師のような多様な持論や虚実入り混じった情報を一瞬にして世界に拡散させた。これにより、無垢な人々を不安に陥れたことで、暗黒の中世より劣化した世界を作り出した。

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 宇宙服を着た町医者とニンニク臭い外科医、間違いなく、コロナに対する考え方では対極にいる医学者と言っていい。ワクチン開発の闇を暴く教授も、ある意味、彼らとは別の次元にワープしている。未知の危機に出会った時、かように多様な持論が無制限に情報社会を跋扈し、社会を混迷させるのは、確かに21世紀の民主主義と科学の弱点でもある。
 しかし、本来、科学とはこのように悩んで、悩んで、あちらこちらに寄り道しながら前に進むものなのだ。この迷える子羊のような危うさこそ、科学のあるべき「健全さ」を証明している。
 少なくとも、政治が「ゼロ・コロナ」という教義によって、科学のダイバーシティを抑え込むことに比べれば、私たちの科学と大学の将来はまだまだ明るいと考えることにしよう。失敗を繰り返しながら、ヨチヨチと前に進むのが「知の拠点」の本来の姿なのかもしれない。

 弱き者、汝の名は「科学」なり・・・