オピニオン Opinion
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オーレ・オレ・オレ・オレー
-----『昭和49年のフットボール』-----

 こう見えて、「気配りの人」である。SNS炎上のご時世である。このコラムでも、本人はかなり遠慮してモノ申してきた。日本の研究力の低下を憂い嘆く言葉も遠回し。再生のための提案も控え目。どこか奥歯にものが挟まったような物言いに、「意気地なしの学長」と呆れた読者も多いに違いない。
 しかし、このところ、政治家も本気で「日本、いよいよマズくないか?」と思い始めている。今が日本再生のラストチャンスと言い出した。
 今年もいよいよ残すところ10日余り。大学も再生のラストチャンスである。

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 1か月の期間中、世界中の人々の感情を「歓喜」と「落胆」の両極端の間で激しく揺さぶってきたカタールのワールドカップ。最後まで歓喜で終えた国は、アルゼンチンだった。
 事あるごとに言っているように、スポーツに関しては、「何でも来い」である。言い方を変えれば、スポーツに関しておよそ無節操である。従って言うまでもなく、「サッカーファン」の端くれである。
 「ちょっと待ちなさい!」
 「総長だからって、調子に乗んなよ!」
 「ミーハーファンが戯言を言うな!」との批判は甘んじて受け入れるつもりである。
 おっしゃる通り。野球、競馬やプロレスとの長い付き合いに比べれば、実に底の浅ーいサッカーファンである。告白するが、子供の頃からの野球少年は、サッカーボールをまともに蹴ったことすらない。サッカー漫画の金字塔である「キャプテン翼」も読んだことはない。
 それでも、少なくとも私には、日本サッカーを物語る権利がある。何故なら、不肖ホーキン、日本サッカー50年の成長の目撃者だからだ。

 今や、世界の人口の半分、猫も杓子もライブ中継を観戦し熱狂するワールドカップである。しかし、NHKがワールドカップを初めてテレビ中継したのは1978年のアルゼンチン大会。それより4年前、1974年(昭和49年)に西ドイツで開催された大会は、どこかの放送局で細々と録画で放映されていた記憶がある。今から、50年前近くにさかのぼる昔話である。当時、ワールドカップを見ていた人間がどれほどいるものか!
 1974年(昭和49年)、日本はアジア予選の突破も程遠く、ワールドカップなど夢のまた夢の時代だった。その、録画のワールドカップを食い入る様に見ていた稀有な一人が、当時、大学2年生のホーキンだった。
 財布をひっくり返して買ったカラーテレビで、世界のサッカーを垣間見た。度肝を抜かれた。皇帝ベッケンバウアーを中心とした「リベロ」が自由に動き回るサッカーは、まるで別のスポーツを見るかのような衝撃だった。日本がワールドカップに出場する姿を見ることなど、自分の生きている間にはあり得ないと諦めた。

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 そんな次第で、日本のサッカーの50年を見てきた。スポーツバーで「ニッポン、ニッポン!!」などと、ドンチャン騒ぎをしている中高年の方々や渋谷の交差点に集まるミーハーなお兄さんやお姉さんこそ、私に言わせると、俄かファンである。
 この50年、日本のサッカーはひたすら謙虚に、そして、貪欲に海外から学び続けてきた。多くの屈辱的な敗戦や無責任な批判を浴びながらも、愚直に前に進んできた。
 50年間、日本のサッカー少年が無謀にも海外に渡った。そして、その多くは打ちのめされ、夢破れて、祖国に帰ってきた。
 しかし、やがて欧州や南米の下部リーグで活躍する選手が現れ、日本のサッカー少年達は、彼らの背中を追い、海を超えることに憧れた。奥寺選手や三浦選手のような海外でも通用する選手がポツポツと現れた。そして、中田(英)選手が、本田選手が、さらに、三苫選手や堂安選手など、世界に通用するプレイヤーがその結実として出現する。今、サムライブルーの26名中、19名が海外の一流リーグに在籍するようになった。
 また、それに先立って、日本サッカーの再教育を目指して、1960年代に、西ドイツからデットマール・クラマー氏を招聘し、現代サッカーを学んだ。その後、多くの一流海外選手やコーチを招聘し、世界の新しい戦術を貪欲に取り入れた。しかも、単純な模倣ではなく、日本人の「献身性」「組織的規律」といった特性が生かされた。こうして、日本サッカーの固有のスペックが生まれることとなった。
 その後、1991年に日本でプロサッカーのJリーグが発足した。Jリーグは、先行する日本のプロスポーツであるプロ野球のビジネスモデルを模倣することはなかった。
 思い切った地域密着を基盤として、ジュニア、ユースなど若い選手への強化を地道に積み重ねた。首都圏だけではなく、人口の多くない地方の中都市でも地道に日本サッカーの文化醸成を積み重ねてきた。柏、鳥栖、鹿島など、日頃、耳にすることのない地域の名前が新聞紙面で踊っていた。50年の歳月をかけ、本当に一歩一歩、世界との差を詰め、ついに、世界のレベルが少し見えるところまで辿り着いた。
 日本のサッカーの進歩を見ると、「国際化」「地域密着」「次世代教育」という日本の近代における3つの難題を克服してきた。こうしてサムライブルーは、近代日本のビジネスとしては稀有な成功例となった。
 「大学再生のラストチャンス」にこの成功例をどう生かすか。くどくどした説明は不要だ。ここまでの文章の「サッカー」を「研究」「大学」に置き換えれば、成功へのプロセスは明確だからだ。

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 コロナ禍が世界的には小康状態になったタイミングを見て、韓国、オーストラリア、ヴェトナム、マレーシアを立て続けに訪問した。
 25年振りのマレーシアでは衝撃を受けた。25年前、僕は日本学術振興会の派遣制度により、Look East Policy(東方政策)を掲げたマレーシアを度々訪問した。マレーシアの多くの若い脳外科医に世界最先端の知識と技術を伝えるため、両手に余る数ほど訪問した。あるいは、マレーシアの若い教員や教授を日本に受け入れた。
 25年前のクアラルンプールは、アジアの貧困とカオスそのものであった。しかし、25年後に再訪したマレーシアは、今や先進国の仲間入りを目指していた。クアラルンプールの街は若いエネルギーに満ちていた。病院には、日本にもない最新鋭の診断機器が導入されていた。病院のシステムも国際標準に準じ、海外の患者を受け入れるレベルに達していた。

 今、日本はもう一度謙虚になって、海外から優れた点を学び直し、若い研究者は海外でどれほど通用するか修行すべき時期が来ている。若い研究者だけではない。学長を含めた大学のリーダーこそ、海外との交流、海外のリーダーとの他流試合で研鑽し、ラストチャンスをものにしなければならない。
 今、この機会を逃せば、日本の再生は視界から見えないほど遠のく。

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 クロアチアとの決勝トーナメント1回戦。日本4人目のキッカー吉田選手のペナルティキックが、クロアチアのゴールキーパー、リバコビッチに止められた瞬間、三苫選手がカタールのピッチ上で泣き崩れた。16強の壁を超える日本の目標は、4年後に先送りされた。
 まだまだ、次の景色を見るまでのハードルは高い。ただ、日本の大学が世界のベスト3になるより、正しい育成哲学と成功戦略を持っているサムライブルーのキャプテンが、ワールドカップの黄金のトロフィーを高々と掲げる日の方が近いような気がする。

 皆様、今年も一年、ご愛読、ありがとうございました。
 良いお年を。