オピニオン Opinion
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マスク美女・美男

 コロナの感染によるマスク生活も、早3年。ついに終息の出口が見えてきた。まだまだ気を緩めてはいけないが、これでもう勘弁してほしいと願うばかりだ。
 私のマスク生活は、実に40年の長きに及んでいる。大学卒業時、外科医の職(脳神経外科医)を選んだ。手術室でのマスク生活は、人生の半分以上を占めている。マスク生活の長さを自慢する気はさらさらないが、私は押しも押されぬ、マスクの達人であり、マスク評論家でもある。

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 コロナ以前、2000年代前半の頃、手術室での出来事である。当然、日常生活ではマスクなど全く不要な時期の話である。
 手術室では、全員が顔を広く覆う厳重な大型のN95マスクに加えて、深々と手術用のキャップを被っているため、目元が確認できる程度である。
 マスクの着用で、口元、顎のライン、鼻の形、ほうれい線などがカバーされる。確実に見た目は、ワンランク、いやツーランクアップとなる。手術室の世界では、昔から「マスク美人」という言葉がある。最近は男性看護師も増えたので、ジャニーズ系「マスク・イケメン」も少なくない。
 マスクを外すことのない手術室では、いつもマスクで「見た目の印象」がアップした美男、美女で溢れている。その日の僕の手術担当のY看護師も、そうしたマスク美人の一人で、看護技術の評判も抜群であった。

 手術はいよいよ佳境にさしかかっていた。顕微鏡の術野、動脈瘤の薄い壁を通して、今にも暴発寸前の怒り狂った動脈血の濁流が透けて見える。術野から一瞬も目を離せない緊迫した状況である。
 この状況での手術道具の選択のミスは、動脈瘤の破裂を引き起こす。平穏な術場が一瞬にして修羅場に変わる。最も息詰まる時間帯である。普段でも、人の名前などは普通に失念する私である。まして手術の緊迫した場面で操作に没頭すると、長年愛用している手術器具の固有名詞も、しどろもどろになってしまう。

 「アレアレ・・・『曲がりのアレ』・・・ナンバー何だったかな・・アレ渡して! 」。
 テレビで放映されている「神の手」を持つ外科医の影響により、世間の人々は外科医の技術をミスター・マリックさんの「ハンド・パワー」と一緒にしている。これは大変な誤解である。手先の器用さや繊細な動きは、確かに優れた外科医の要件ではある。しかし、手術室では、工夫を凝らした道具や最新の技術、そして「アレ」だけで欲しい道具が手渡しされるような、心通じ合う優れたチームが必要である。

 顕微鏡から視線が離せない状況で、私は右側の中空に右手を差し出す。その私の掌にマスク美人のY看護師から、願っていた道具が渡される。〝ピシッ〟と心地よい音が静かな手術室に響く。
 「コレ! コレ! 」
 「コレだよ、45度の剥離子。完璧! 」とこちらもヨイショする。
 Y看護師は、術野の状況と術者の求めるところを読み、言葉足らずのホーキンの「アレ」で「コレ」が分かる。プロの仕事は凄い。
 この〝ピシッ〟という小気味よい音を立てる「手渡され感」は、曰く言い難い絶妙な感覚である。これがちょっとでも強すぎると繊細な顕微鏡操作に影響が出る。逆にこれ以下の優しいタッチでは頼りなく、微妙な心細さを術者にもたらす。〝ピシッ〟という確実な手の触感は、ゴールに繋がる絶妙なスルーパスが決まった瞬間の快感に近い。「外科医冥利に尽きる」と思える数少ない瞬間である。
 完璧な手術にとって、手術を知り尽くしたプロの看護師は、なくてはならない仲間である。以心伝心、阿吽の呼吸の「最強の相棒」は、40年の脳神経外科医としての生活を振り返っても、本当に数えるほどしかいない。

 手術の難所を無事に切り抜け、閉頭のルーチンに向かう頃には、手術室全体に安堵感が満ち、他愛無いチャット時間となる。
 「ホーキン先生って、何歳ですか? 」とY看護師からの質問。
 「いきなり、直球かよ・・」と思いながら、ちょっと、いじわるしようと思って、
 「57才だよ」とマスク越しに答えた。
 当時の僕の本当の年齢は47歳であった。
 これに受けて、マスク美人のY看護師は
 「 」ときた。
 「? ? ? ・・・・・・・」
 「・・てことは、Yさん。僕を60才くらいに思っていたのか・・」と自問し、すっかり落ち込んだ。

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 手術が終わって、その日の22時頃、病院の玄関で見知らぬ妙齢の女性から声をかけられた。
 「ホーキン先生、お疲れ様です。マスク外すと、先生お若いですね! 」
 相手の女性は、どうも私をよく知っているらしい。そもそも、「人見知り」がネクタイをして歩いているような私である。見知らぬ女性から声をかけられると、警戒心の固まりとなってその場で立ち尽くした。「ムムム、患者さんのご家族か、はたまた製薬会社の社員の方か・・・」。
 何とかその場を取り繕うとして、
 「はい、お久しぶりです。お元気でしたか? 」
 と返事をしてしまった。今思えば、実に間抜けなことを言ってしまった。
 たった今まで手術室で命のやり取りをするような仕事をしていた相手に対して、「はい、お久しぶりです。お元気でしたか? 」はあり得ない。
 相手は、一瞬、唖然とした表情を見せた後、事態を察知したらしく、ちょっと笑いながら、
 「先生、Yですよ! ひどいわ! もう忘れたんですか! 」ときた。
 ここでさすがの私も「ムムムー、ひょっとして、今日の手術で絶妙なアシストをしてくれた看護師のYさんか」と気づいたが、時すでに遅し。
 目元は間違いない、あの以心伝心のマスク美人のY看護師だ。
 マスクを外したYさんは、マスク美人からは想像もできない、なかなかの個性的なお顔立ち。しかし話していると、手術室担当看護師としての能力の高さの片鱗が随所に感じられた。間違いなく「マスク美人」だ。
 お互いマスクをして、プロの仕事人である! 善き善き! !

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 この春からは、いよいよマスクを取る機会が増える。恐る恐るスッピン生活が徐々に再開される。何だか妙にくすぐったい。マスク美人もマスク・イケメンも素顔勝負となる。
 この3年間、マスク顔以外を見たことはないが、仕事では深く関わってきた関係者が大勢いる。その中には男女問わず、「いったいどんな顔なのか」とずっと気になっている人が何人かいる。
 マスクと言えば、このコラムのプロレスファンであれば、間違いなく白覆面の魔王の異名を持つザ・デストロイヤー、あるいはタイガーマスクを思い浮かべるはずである。かくの如く、マスクは謎めいていて、仕事人の象徴であった。
 感染予防のマスクはもう懲り懲りである。ただ、このコロナ禍が遠い忘却の彼方になった頃、「今日は懐かしいマスク着用会議を開催しませんか! 」なんてこともあるかもしれない。美女・美男、年齢不詳、国籍不明の仕事人の集まりのご提案があれば、千の顔を持つ男、ミル・マスカラスの仮面を付けて出席しようと妄想している。