特集 北大のキャンパスから水と緑のまち札幌へ
大学と市行政のコラボレーション 対談 放送大学長 丹保 憲仁さん 札幌市収入役 牧野 勝幸さん インタビューアー 北方生物圏フィールド科学センター 植物園 助教授 冨士田 裕子

       メムが育てた緑のキャンパス
冨士田  丹保先生にとって総長時代からの思いでもありましたサクシュコトニ川の再生が、いよいよこの秋以降に実現する見通しとなりました。平成9年の着工から7年経ちましたね。
 サクシュコトニ川はかつて北大構内を流れていたのですが、札幌市の都市化とともに昭和20年代ころから水量が減り、いまは涸れてしまった川ですね。
丹 保  むかし北18条が札幌の北限で、そこから先は新琴似でした。南は西20丁目から向こうが円山村。札幌は小さな町でした。これらが札幌市に入ったのは、ぼくが子どものころです。
 札幌の扇状地のピボット(原点)にあたる部分が南28条の自衛隊あたりで、昔は軍艦岬と言われたいまの藻岩橋近くのところです。そこから広がって円山の下を通り、琴似の発寒川、そこから右に振れるとツキサップ台地にぶつかります。そのあいだを豊平川が何層にも砂を落としながら流れ、扇状地の末端は札幌神社の坂下から北大の北側を通って苗穂にあるJR北海道の車両基地まで広がっていました。
 この扇状地の末端には、アイヌ語でメムと呼ぶ泉がいくつも湧いていました。いちばん西の端のメムは札幌神社の坂下。幌見峠から出ている川が元でした。そして西20丁目に1本大きな川があり、それがいまの界川。さらにいくつも流れがあって、その先に人工河川の創成川があって、その向こうにまた苗穂川がありました。
 メムの水量はとても豊かで500メートルから700メートルに1本ずつ川があったほどです。北大周辺には正門前通りに1本、西側には琴似川(現在の新川)、大学構内の真ん中にはサクシュコトニ川と、大学を挟んで3本の川があったのです。
 サクシュコトニ川は北海道の水産功労者・伊藤一隆さんの家の庭のメムから始まっていました。ぼくは伊藤さんの庭をのぞいた事がありますが、この庭のメムからはほんとうにこんこんと水が湧いていました。
冨士田  札幌は水と緑がたいへん豊かなまちだったのですね。しかし今では扇状地末端のメムはすべて枯れてしまいました。今回の事業でサクシュコトニ川の川としての形が再生されるわけですね。今なぜサクシュコトニ川の再生なのでしょうか。
丹 保  サクシュコトニ川は北大の中を流れていた川です。北海道大学は緑のキャンパスで有名ですが、この緑はまるまるこの川に養われていたといえます。ですから北大の緑はサクシュコトニ川がなくなると、時間とともになくなるのです。エルム(ハルニレ)だってどんどん枯れてたおれると思いますよ。
冨士田  中央ローンの川も昭和50年代初めに整備されたそうですね。
丹 保  ですから、北大のキャンパスを維持するには、サクシュコトニ川がいちばんの基礎なのです。植林など小手先のことをやっても、この川がなければすべて絵空事になります。

       大学と市の「あ・うん」の呼吸で実現した川の再生計画
冨士田  メムは涸れたのですから、川の再生には水源が大問題だったと思います。今回は市の協力があったのですね。
丹 保  昭和26年ころ、教養部の学生であったぼくはよく図書館の前で野球をやっていました。ボールが川に落ちると、川の中は水藻がいっぱいで、とるのが大変でした。そのころボールは貴重品でしたから。まだ自然の川がありました。
 ぼくが教授になって、あなたが来たころは自然の川だった?
牧 野  いえ、もう地下水を汲み上げてました。昭和40年ころです。
丹 保  もうなかったんだ。
 じつは市では水環境再生の話が2つあって、ひとつは創成川の再生。札幌オリンピックで道路にしてしまった創成川沿いを戻そうというもので、建築系の人たちが一生懸命にやっています。しかしあれは街の景観に配慮したもので、自然とはほとんど関係ありません。札幌を水の都に戻すなら、北大に水を入れるのが効果的なのです。
 桂前札幌市長はぼくの一期上で、彼が課長のころからの付き合いでしたので、相談するには最適でした。牧野さんのような卒業生も中枢部にたくさんいましたし、川を戻したいと話をしたら、北大OBだけでなく室蘭工大や東北大の人たちものってくれたのです。しかし市長には水利の決定権はありません。開発局に行ったら、そこでも「やりましょう」と言ってくれたのです。
冨士田  水利権には河川法のしばりなどいろいろな問題がありますね。牧野さんは、今回の水の供給の件でいろいろケアされたとうかがっています。
牧 野  きょうはサクシュコトニ川のお話ですが、じつは市にとってはサクシュコトニ川以外の北部地区の小河川も視野に入っています。先ほど先生のお話にもあった、以前メムから出て川になった地域だと思いますが、いまその地域の地下水位が下がっており、河川流量がどんどん減って夏には枯渇する状況です。市としても環境面から、もともと流れていた清流をなんとか取り戻したい、もしくは水質改善したいということで以前から取り組んではいたのです。
 たまたま国の方から「水と緑のネットワーク」構想が出され、札幌でもその検討協議会で3案をつくっていました。ひとつは創成川ルート、もうひとつは雁来川ルート、そしてサクシュコトニ川ルートです。それぞれ創成川経由もしくは直接豊平川から水を上げ、それぞれの末端の小河川に流して本来の河川の姿に戻そうという考えです。先生からのご相談が、そんなわれわれの計画とタイミングが合ったのです。
 もう一つの経緯として、環状通りエルムトンネルの問題がありました。これは以前から北大と協議をしていたもので、平成8年にお互いに基本的合意を取り付け、建設GOという状況にあった計画です。事務局や丹保先生、学内の委員会で詰めていたところ、構内のサクシュコトニ川の末端が市の準用河川で、トンネル工事と境をなしており、それなら、そこも整備するのだからということになりました。
 事業にはそういうタイミングが大きなファクターになるのです。今回はまさにその一例だと思います。
丹 保  市の税金で北大だけ水をもらうわけにいきません。市全体のなかで考える必要があります。北大が札幌市民に大公園を提供しているといっても、それをお金に勘定することもできません。今回は市と大学のトップ、それを支える人たちの「あ・うん」の呼吸でうまくいったのでしょうね。
冨士田  今回、札幌市からいただく水は、藻岩浄水場できれいにした処理排水ですが、豊平川あるいは創成川から導水する計画もありましたね。
牧 野  先ほどの水と緑のネットワークでは、豊平川からいちど創成川に入れ、そこからサクシュコトニ川のルートに乗せることをまず考えました。ところが事業費の面で、多額になるのです。それと藻岩浄水場は昭和12年にできた創設の浄水場で、昭和30年、40年代に拡張した浄水場の改修工事が計画されていました。
 最近では、水道の水質の問題も出ていました。返送水を原水に戻すのはどうか。たとえばクリプトスプリジウムなどの問題。返送するうちに悪い物質がだんだん濃縮・蓄積され、飲料水に悪さを及ぼすことを避けたいというのが一つです。さらに、それを原水に戻すにはポンプでかなりの動力が必要です。いまの処理能力と水質優先を考えると、返送ではなく、河川や下水など別の系統に流すことも考えましたが、下水は容量的に間に合いません。
 市ではちょうど界川あたりのパイプの更新もやっており、界川であれば河川に放流する能力もあります。古くなって廃止するパイプを有効利用すれば街の中心部までつなげられます。オール札幌市として考えるとかなりの事業費軽減になり、界川の清流の復活にもなり、廃棄物も出ないとまさに一石三鳥だったのです。
 これは建設局と水道局の共同事業でやりましたが、両方にとってひじょうに良かった。そして北大にとっても水源が得られる。三者のコラボレーションのいい例ですね。

放送大学長 丹保 憲仁さん 「サクシュコトニ川の再生が一番の基礎なのです」 札幌市収入役 牧野 勝幸さん 「建設局、水道局、北大のコラボレーションのいい例ですね」

       春はカッコウが鳴き夏はうるさいほどのセミの声
冨士田  川の復元とともに、丹保先生は「エコキャンパス」と名づけた北大の環境保全を推進されてきましたが、どんな思いがあるのですか。
丹 保  きょうはセミが鳴いていませんね…。ぼくのメモリーのなかの北大は、春にはカッコウが鳴いて、夏はもううるさいぐらいにセミが鳴いて…。カッコウが鳴かなくなったのは、昭和45年ごろかな。カッコウは、托卵といってよその鳥の巣に卵を産み、どこかへ行っちゃう鳥で、カッコウがいたということは、ここに卵を育てるヨシキリもいたということです。
冨士田  ということは、北大構内に湿地があったということですね。
丹 保  北海道大学はもともと湿地にできた学校です。農場だったのです。札幌農学校は市役所のところにあって、農場は湿地だったから北大にくれたのです。
 しかし、それが湿地でなくなったことで環境が変わった。それもずっと昔に変わったのではなくて、牧野くんがいたころです。だったら、戻すにもそんなに時間はかからないでしょう。
 放っておけば、どんどん環境は変わってしまいます。戻すスイッチをどこかで入れなければ。でも、ハルニレやヤチダモはもともと湿地の木です。水を入れればヤチダモが返り、ヤチダモが返れば北大の緑は生き返るのです。
 大野池は、昭和15年ころ理学部前の恵迪寮の学生が、スケートのためにサクシュコトニ川に掘り込みをつくってできた池です。この川は湧泉で水温が冬でも4〜5度あり、水門をつくって水の出入りを止めてやっと凍らせた。それがいまの大野池の前身です。
冨士田  ぜんぜん知りませんでした。
丹 保  ぼくもたしか名誉教授の佐々保雄先生(故人)に聞いたと思います。ですから、そういう状況がつい私の子供時代まであったのです。そこでトンギョをすくって遊んでましたもの。水さえ入れれば、それらは帰ってくるんです。
 このキャンパスには、たとえば日本初の学士院会員・松村松年先生の昆虫教室があります。日本昆虫学の発祥の地ですよ。文化財でありこんな冥利なものが残っているのに、足りないのは生物だけです。木があやしいのはみんな気づいています。だけどカッコウがいなくなったことを知っている人は少ない。ヒバリの声も農場の麦畑のなかにひっくり返って聞いていたし、カエルもいた。水がもどれば、生態系は返ってきます。ぼくは、ここだったらそれを戻せるだろうと思ったのです。

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