もういちど北大と出会う(1405 byte)

− その弐 −

ダブリンで「校歌」を聞きました


古川俊実(3398 byte) 古川 俊実

朝日新聞社友
(北大文学部英文科 1960年卒業)




 アイルランドのパブは歌声が満ちあふれています。バラードやフォーク、ポップスそしてロックやマーチ調の曲を伝統楽器の響きに乗せ、ミュージシャンたちが英語のほかゲール語歌詞も交え、のびやかな声で次々歌い継ぎます。2004年3月から実施された禁煙法で店内の空気が見違えるようになった中、やがて客たちとの大合唱へつながります。

 私は7月5日夜、ダブリン中心部にある創業1835年というパブで、その歌声を聞きながらギネス・ビールを傾け、いささか陶然となっていました。そのとき、仰天する事態が起きました。「北大校歌」が流れ始めたのです。いや、校歌そのものではなく、同じメロディーで、歌詞は全く別でした。

 「絞首台につるされた3人の高貴な魂 専制を痛撃され暴君が報復をしたのだ 彼らは民族の勇気を顔にみなぎらせ、不屈の精神で死へ赴いた 『神よアイルランドを救いたまえ』と英雄たちは叫んだ…英国の網に搦め捕られ、勇敢な命が故国に捧げられたことを我々は忘れまい…我々がこの島を自由で気高い国として勝ち取る日まで」(大意)。題名を尋ねると、『God Save Ireland』でした。


南北戦争時の進軍歌

 その後、調べてみると、興味深い事実がいろいろ浮かび上がってきました。

 札幌農学校から北大へ受け継がれてきた校歌『永遠の幸』と『God Save Ireland』のメロディーは、米国人作曲家ジョージ・F・ルート(1820〜1895)が1863年に作った 『Tramp,Tramp,Tramp』が原曲です。

 マサチューセッツ州シェフィールドで生まれたルートは、ボストンで音楽教育を受けてパリへ留学。帰国後はニューヨークやシカゴに住み、音楽教育家で作曲家という声価を高めていきます。1861年、南北戦争が始まると、彼はリンカーン大統領支持を鮮明にします。開戦直後、『The First Gun Is Fired』と題する愛国的軍歌を作ったのを皮切りに、北部連邦軍を励ます歌を次々作曲。全部で28曲を数えました。最もヒットしたのは62年、リンカーンが「来年1月1日を期して奴隷解放宣言をする」と表明したのに感激して作った『The Battle Cry of Freedom』で、楽譜は1万2000部も売れました。その63年、解放された黒人たちが参加した北軍はペンシルベニア州ゲティズバーグで節目の勝利を収め、リンカーンは「人民による、人民のための、人民の政治を地上から絶滅させないために」と歴史的な演説をします。その年に作られたのが『Tramp,Tramp,Tramp』でした。
 激戦下、捕虜になった少年兵が郷里の母を思い、友軍による救出を待ち望む心情を盛り込んだ歌詞で、兵士たちが行進する歌に仕上げました。『Tramp,Tramp,Tramp』とは、地響きを立て進む行軍の音を意味し、日本語では「ザッ、ザッ、ザッ」という感じでしょう。軽快なメロディーは、たちまち北軍兵士の間で人気を博しました。戦争がさらに続く中、南部連合の兵士たちも聞きます。歌詞のうち旗の描写などを作り替えて、南軍部隊でも盛んに歌われるようになりました。
 1865年4月の終戦までに両軍の死者は62万人を超えました。当時の人口3100万人の実に2%です。第2次世界大戦での米国人の戦死は40万6000人で人口比0・3%ですから、南北戦争は最も多く米国人が死んだ戦争でした。その凄惨な内戦下、双方の兵士はほとんど同じ歌で行軍したわけです。その中に北軍大佐ウイリアム・S・クラーク(1826〜1886)もいました。


札幌と京都で新展開

 和泉庫四郎さん(農・1949年卒)水野一さん(文・52年卒)阿澄昌夫さん(農・53年卒)らの記述と、高井宗宏さん(農・60年卒)の資料によると、『Tramp,Tramp,Tramp』のメロディーは南北戦争後、米国諸大学の学生歌に転用され、1876年(明治9年)、札幌農学校開校時に来日したクラークら米国人教師によって学生たちに伝えられました。そして、1901年(明治34年)の創立25周年を期して校歌を作ろうという機運の中、農経学科4年在学中の有島武郎(1878〜1923)が書いた歌詞に『Tramp,Tramp,Tramp』のメロディーを付けた歌が同年5月の祝賀会で、オルガン伴奏で歌われました。当時、多数の文部省唱歌や各校校歌の作成に絡んだ大和田建樹(1857〜1910=作詞担当)と納所弁次郎(1865〜1936=作曲担当)がどうかかわったかは、具体的データが残されていません。『永遠の幸』誕生は、恵迪寮歌『都ぞ弥生』に11年先立つものでした。

 一方、『Tramp,Tramp,Tramp』のメロディーは、クラークとも親交のあった新島襄(1843〜1890)が札幌農学校開校の1年前に京都で開いた同志社大の前身である英学校にも、やはり米国人教師によって伝えられたようです。同志社は三高とともに関西の学生スポーツ界の草分けでしたが、1911年(明治44年)、ラグビー・チームを結成、対外試合を始めます。そして、『若草萌えて』と題する歌詞にこの曲を付けた歌がラグビー部歌となりました。

 「若人の血 今もゆる 希望は胸に 心は躍る…高らかに叫べ 誇の歴史 いざ起て友よ 勝利は待てり 白熱の意気 敵なし」。同大ラグビー部は、いまも早・慶・明大や関東学院大などに伍して全国大学ラグビー選手権を競う強豪です。その伝統を彩る部歌のメロディーが、奇しくも北大校歌と同じでした。


アイリッシュの叫び

 英国の圧政に対するアイルランドの抵抗は16世紀から連綿と続きました。その間、1840年代のジャガイモ飢饉の際は英国による救援がないまま100万人が死亡。170万人が米国へ渡って、多くは故国での反英闘争のサポーターになり、その移民のうち17万人が南北戦争で北軍に加わりました。

 戦後の1867年、アイルランドでの蜂起は失敗。逮捕者の奪還を図った3人の若者は英国官憲に捕らえられ、マンチェスターで処刑されました。それを悼み、ティモシー・サリバン(1827〜1914)が書いた歌詞に『Tramp,Tramp,Tramp』のメロディーを付けて、『God Save Ireland』が生まれました。その後も蜂起と鎮圧が繰り返される間、この歌は地下抵抗闘争の「聖歌」として歌い継がれ、1922年、北部6州を除く地域が「アイルランド自由国」として独立後、『Amhran na bh Fiann』(兵士の歌)が国歌に制定されるまで、準国歌に位置付けられました。  1949年、英連邦から脱退し、正式にアイルランド共和国が成立しましたが、英国領として残った北部6州(北アイルランド)では爆弾テロを含む抗争が長く続き、カトリック系住民にとっては、あの「聖歌」が心のより所でした。北アイルランド紛争は3200人以上の犠牲者を出した後、1998年の包括和平合意で一応の終止符が打たれました。

いま「聖歌」は、ラグビーやサッカーの国際試合で、アイルランド・チーム応援のキー・ソングとして歌われているといいます。


 三つの歌とも、音楽著作権の国際規格が確立していない時代の転用でした。ともあれ、『God Save Ireland』を収めたCDを入手しました。そのメロディーを聞きながら、懐かしの校歌を歌うことにしましょう。

 「永遠の幸 朽ちざる誉 つねに我等がうえにあれ よるひる育て あけくれ教へ 人となしし我庭に イザイザイザ うちつれて 進むは今ぞ 豊平の川 尽きせぬながれ 友たれ永く友たれ…」




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