インタビュー

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牛師/酪農家 吉田 全作さん(1979年、農学部卒業)

探検部で前人未到の
挑戦を続け
アリューシャン列島
踏査隊に参加

高校時代によく読んでいた『探検と冒険』の中で、北大出者の執筆者が最も多く、大学の探検部が有名だったのが北大と京都大学で、進学するなら親元から一番遠いところがいいかなと思い、北大を志望しました。学部は当時、理類、文類、医学部、歯学部と4つの試験区分しかなく、教養の成績次第で学部移行ができるシステムだったので、地球物理へ行きたいと思い理類を選択。結果的には農学部へ進みましたが、当時は、中谷宇吉郎さんの低温科学研究所で、氷河の氷のコアを採取し、その気泡から太古の地球の環境を調べるという研究がしたかったんですね。高校の進路指導の先生には「何学部へ行くのか?」と尋ねられ、「探検部に行きます!」と答えましたけど(笑)。

北海道のイメージは、初めて千歳空港に降り立ち、目にした広大な風景と原生林そのもの。北大のキャンバスも同じく、「開拓した人たちは苦労しただろうな」と思わず想像するダイナミックな自然が印象的でした。

当時の北大は、今よりはるかに自由な雰囲気が漂っていまして、学生も教授も人数が少ない分、親密な関係が築かれていたように思います。周囲の友達は本州から入学した“変なの”ばっかり(笑)で、入学後に進路を決めるという…。なかでも農学部を希望する友達が多かったですね。建築業界が不況の時代だったので、建築、工学、土木関係のランクが下がっていて、確か農学部の農業生物が一番高ランクだったと思います。

入学当初、いきなり探検部に入るのは技術が伴わないと思い、まずは1年間山岳部へ入り、その後、探検部へ。探検部の第一目的は「誰もしていないことをやる」だったので、例えば、流氷の上を歩いて知床半島を一周するという、前人未到のことを探し出してはチャレンジしていました。2年生の時には、アラスカ半島からアリューシャン列島、アッツ島にかけて動植物を調査する北大の「アリューシャン列島踏査隊」が参加者を募っており、私も一年間休学し、食糧班のメンバーとして参加しました。調査後はみんなと別れ、そのまま一人でずっと南下し、南米まで旅しました。

肌に合わない
会社員を辞め、牛飼いに
渡仏で自分らしい
チーズ作りに目覚める

就職のことはあまり考えていなかったのですが、卒業後すぐに結婚したので、急に現実的な問題となり、「どういう仕事がいいか」を熟慮する間もなく、慌てて東京で就職してしまいました。もともと東京の大学は絶対に嫌だ、事務仕事も絶対に嫌だと思っていたのに、東京でしかも経理の仕事に就くことに…。面白くない毎日を送りながら、「何とかここから抜け出さなければ!」と考えていて、アパートの狭い部屋で納豆などいろいろな発酵食品を自作していたので、こういう自給ができる仕事がいいなと思い始めました。その頃、パリでジャーナリストとして活躍していた増井和子さんの、雑誌『暮らしの手帖』の連載「チーズの旅、チーズの味」を読んでいて、「チーズ作りはなんてステキな仕事なんだ」と思いまして。酪農の勉強はしたことが無いのに、何か身近な感じがして、「もう酪農しかない!チーズ作りしかない!」と思い、会社を辞め、酪農を始めました。感動的な物語があるわけではなく、チーズ作りを始めたきっかけはホントに衝動的だったんです。

1984年に岡山県吉備高原で牧場を開業し、チーズ作りを始めたのは1988年。当時、日本でチーズ作りをしている人、ましてや牛飼いでチーズ作りをしている人はほとんどいなかったので、すべて独学でした。牧場の仕事で時間がないので外に出られず、研究者の本はありましたが、実践的ではないので参考にならないし…。チーズ作りを始めたものの、全然うまくいかなくて思い悩んだ末、意を決してヨーロッパへ行くことにしました。学生時代、さんざん秘境は旅してきましたが、ヨーロッパは初めて。「チーズの旅、チーズの話」の切り抜きを手に、ヨーロッパへ向かいました。

まず、この連載にも登場しているカマンベール村のクルノエさんという方を訪ねたのですが、すでにチーズ作りを辞めていて会うことができず、もうその村にはチーズ作りをしている人はいないと言われ…。何人もの人に尋ね歩きながら、リムーチェという隣村でチーズ作りをしている農家がいるとわかり、そのうちの一軒を訪ねました。彼は同い年で、村の長老から教わり、自分でチーズ作りを始めたという人でした。チーズ作りを教わりながら、私が気温や湿度、時間などデータを細かく聞くと、「面倒だからそんなこと聞くな」と言われて(笑)。彼曰く「そういうことではない」と。「ここではこのやり方だけど、同じやり方を日本でやっても同じチーズはできない。土地や環境に合った方法を見つけることが大事。僕は長老に教わったけど、チーズの味はそれぞれ違う。自分のチーズを追求すればいい」と言われ、目の前の霧が晴れたような気がしました。ヨーロッパでは、日本でいう味噌や醤油のように農家の人がチーズやワインを日常的に作っている。「真似することは無いんだ」と思い、何年かかるかわからないけれど、いつかできる日が来ると腹をくくりました。

チーズは暮らしに
密着したものづくり
その起源を探るのが
今のライフワーク

うちの牧場は北海道のように広大な土地ではなく、急斜面なので、強くて丈夫なブラウンスイス種を放牧して健康に育て、吉備高原の環境に寄り添ったチーズ作りを試行錯誤しながら今も続けています。現在は柵乳牛が約35頭、育成牛が25頭ほど。朝晩の搾乳時間以外は、牛たちは雨でも台風でも365日放牧するスタイル。チーズは、フレッシュからハードタイプまで計10種類を作っています。

チーズ作りをする上ではターニングポイントというよりも、影響を受けたキーパーソンが何人かいます。イタリアチーズを教えてくれた参事や、東京や神戸やチョコレートを一人で作っている女性、神戸の料理人など…。その人たちと出会い、教わったことは、とても大きいと感じています。

仕事で最もやりがいを感じるのは、自分のチーズを喜んでくれる人がいるということ。そして、チーズを通してさまざまな人と出会えることも喜びの一つです。工業製品と違い、チーズは暮らしの中に脈々と受け継がれ、暮らしに密着したものづくりなので、必ず僕らの手に取り戻せるものだと強く確信しています。

探検部時代の延長でブータンの山岳へ6回ほど足を運んでいて、そこにヤクを飼って珍しいチーズ作りをしている夫婦がいるのですが、彼らにもそれを学びました。彼らは標高4000mほどの山岳で完全自給自足のとてもハッピーな生活をしていて、持ち物も非常にシンプルで何でも自分たちで作ってしまう。そういう生活に触れ、翻って見ると、昔は日本にもあったんだと気づかされました。チーズの起源はアジアなので、そのルーツを探っていたところ、高校時代に読んだ中尾佐助さんの『料理の起源』『秘境ブータン』という本に「ヨーロッパのチーズよりもおいしいピールーというチーズはある」と書いてあったことを思い出し、いろいろ調べたんですが、どの文献にも載っていない。元探検部としては行かなくては!と、伝手を頼って2013年に初めてブータンに行ったのがきっかけでした。チーズもパンもワイン作りも、どれも特別なことではない。売るために権威付けするという一面はありますが、それがおいしいとは限りません。“暮らしの技”としてずっと伝えられてきたものは、実はそんなに難しいことではないと学びました。ただし、本当にいい原料を当たり前のように作ったり、探さなければ、いいものはできないということも学びました。

今は孫を含め9人家族で、娘夫婦、息子夫婦が牧場とチーズ作りを手伝ってくれています。チーズ作りは終わりのない研究なので、ずっと繋いでいってくれたら嬉しいですね。僕自身は今、チーズ作りのルーツに没頭しているので、これを突き詰めていきたいと考えています。パン作りの小麦を栽培したり、自家栽培のブドウでワインを造ったり、やりたいことはまだまだ山のようにありますね。

苦しいことも
楽しいことに変換できる
バイタリティあふれる
精神が北大の魅力

サバイバル技術や探検部で培った技術、畜産学部の先生にお世話になったことなど…北大での経験はすべて今の自分の役に立っていると思います。北大の一番の魅力は、自然が人を育ててくれるという貴重な環境。昨年、北大に行きましたけど、現役時代に行ったことがなかった場所があって驚きました。原生林の中とか(笑)。とりあえず授業に出るより、あの原生林の中を散策したほうがよっぽど勉強になるんじゃないかと思いましたよ。

いろいろな意味で運よく北大を目指せた人に言いたいのは、その選択は絶対に間違いではないということ。どの大学よりも楽しいし、さまざまな人、自然との出会いがある。何より、どんなことが起きても、それを面白がれる環境がある。苦しい事があっても、北大であれば、それが楽しい事に変わってしまいますから。だからぜひ、受験生のみなさんには、北大を目指してほしいと思います。

吉田 全作さん 牛師/酪農家 (1979年、農学部卒業)
牛師/酪農家
吉田 全作さん
(1979年 農学部卒業)
1955年、岡山県生まれ。5年間のサラリーマン生活を経て、1984年岡山県吉備高原で酪農家として開業。その後、1988年から日本のフェルミエ(農家製)チーズの草分けとしてチーズ作りを始める。ブラウンスイス種の牛を放牧で飼い、搾った乳で作るチーズは、著名なシェフをはじめ、全国に熱烈なファンを持つ。世界のさまざまなチーズ作りとその文化的背景に関心を寄せ、さらなる探究を続けている。