*年表の項目は、■組織・制度 ■人物 ■キャンパス ■学生生活 ■関連するできごと です。
*明治6年(1873年)の改暦以前は、元号・太陰暦(西暦・太陽暦)を表します。
- 1869
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明治2年7月8日(1869.8.15)
■ 開拓使の設置 - 1870
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明治3年5月9日(1870.6.7)
■ 黒田清隆が開拓次官に就任
黒田清隆(1840-1900)
明治3年5月9日(1870年6月7日)~1874年8月2日に開拓次官を、1874年8月2日~1882年1月11日に開拓長官を務めた。
- 1871
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明治4年11月22日(1872.1.2)
■ H.ケプロンが農学校開設を建言 -
明治4年12月24日(1872.2.2)
■ T.アンチセルが「北海道術科大学校」設立の意見書を提出 - 1872
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明治5年3月10日(1872.4.17)
■ 開拓使仮学校の生徒を募集
開拓使仮学校校舎(1872年)
東京芝の増上寺本坊を校舎として使用した。
定員は官費生・私費生各50人で、14歳~20歳の者を募集した。開校までに300人以上が応募し、80人以上が生徒となった。
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明治5年4月(1872.5-6.)
■ 荒井郁之助が校長心得に就任
荒井郁之助(1836-1909)
開拓使五等出仕の荒井は、明治5年4月(1872年5・6月)~1873年3月に開拓使仮学校校長心得を務めた。
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明治5年4月15日(1872.5.21)
■ 開拓使仮学校を開校
開拓使仮学校の生徒たち(1873年)
北海道の「開拓」に従事する人材養成を目的として、当初より札幌への移転を念頭に置き、東京に「仮学校」を開校した。開拓使東京出張所が所管した。
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明治5年9月19日(1872.10.21)
■ 仮学校内に女学校を開校
女学校のオランダ人教師I.ツワーテル(I.Towater、左)とI.デロイテル(I.de Ruyter、右)(1872年)
「賢母」の育成を目的として仮学校内に女学校を設置した。
- 1873
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1873.4.19
■ 調所広丈が校長心得に就任
調所広丈(1840-1911)
開拓使七等出仕の調所が1873年4月19日に校長心得に就任した。1876年8月3日~1881年2月2日には校長を務めた。
- 1874
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1874.11.30
■ 調所広丈が専門科の設置を上申 - 1875
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1875.7.29
■ 仮学校を札幌学校と改称札幌学校は開拓使札幌本庁学務局の所管となった。職員生徒は8月に札幌へ移った。
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1875.7.
■ 札幌学校講堂に「洋造弐邸」を転用
札幌学校開校時の講堂(1875年9月7日)
2階建が旧洋造弐邸、渡り廊下と平屋建が増築部分。現在の北2条西2丁目に位置した。
開拓使のお雇い外国人向け宿舎「洋造弐邸」(通称ケプロン館)を増改築した講堂は、教場、書籍室、校長・教員の控室などを備え、後に北講堂と呼ばれた。
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1875.8.24
■ 女学校を札幌に移転
開校式当日の札幌学校女学校生徒たち
女生徒の左端はイギリス人教師のE.デニス(Elizabeth Dennis)。
札幌で女学校の開校式をおこなった。しかし、翌1876年5月2日に廃止された。
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1875.8.
■ 札幌学校寄宿所を新築
札幌学校寄宿所の平面図
西側の母屋には寄宿室(1室2~3名)が並び、渡り廊下でつながる東側には調理場・浴場・食堂(2階は講堂)があった。
寄宿室(机・ベッドなど備付)・食堂・浴場・靴製所・講堂などがあり、生徒は洋式の生活を送っていた。
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1875.9.7
■ 札幌学校を開校
札幌学校開校式当日の男子生徒たち
後に農学校第1期生となる荒川重秀(2列目左から4人目)や伊藤一隆(同7人目)などの姿もみえる。
松本十郎(開拓大判官)ら開拓使官吏列席のもとで開校式をおこなった。
最新更新日 2021/9/24