*年表の項目は、■組織・制度 ■人物 ■キャンパス ■学生生活 ■関連するできごと です。
- 1876
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1876.3.3
■ W.S.クラークと雇用契約
W.S.クラーク(William Smith Clark, 1826-1886)
現職のマサチューセッツ農科大学長でもあった。雇用期間は1876年5月20日~1877年5月20日で、教頭を務めた。また、植物学や英語などを教授した。
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1876.3.22
■ W.ホィーラーと雇用契約
W.ホィーラー(William Wheeler, 1851-1932)
マサチューセッツ農科大学卒業生で、クラークの教え子であった。雇用期間は1876年5月20日~1879年12月19日で、数学や測量などを教授した。
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1876.3.22
■ D.P.ペンハローと雇用契約
D.P.ペンハロー(David Pearce Penhallow, 1854-1910)
マサチューセッツ農科大学卒業生で、クラークの教え子であった。雇用期間は1876年5月20日~1880年8月6日で、化学や植物学などを教授した。博物場などを整備した。
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1876. 8.14
■ 札幌農学校を開校
専門科開校式当日の校舎。
中央の寄宿所の玄関には緑門が設けられ、学生の姿もみえる。
専門科の開校式を挙行した。専門科の他に、予習科も設けられた。9月9日には、校名を「札幌学校」から「札幌農学校」に改称した。
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1876.12.14
■ W.P.ブルックスと雇用契約
W.P.ブルックス(William Penn Brooks, 1851-1938)
雇用期間は1877年1月6日~1888年10月20日で、校園監督を務め、農学などを教授した。校園ではタマネギや甜菜、ジャガイモなどを栽培した。
- 1877
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1877. 4.16
■ W.S.クラークが離札
開拓使旧本陣前での記念写真(1877年4月)
馬上右2人目よりW.S.クラーク、W.ホィーラー、W.P.ブルックス、D.P.ペンハロー。
農学校を臨時休校とし、教員・生徒一同は島松駅逓所まで見送った。W.S.クラークは別れに際して「Boys, be ambitious」の言葉をのこしたという。
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1877.4.18
■ W.ホィーラーが教頭代理に就任離札したW.S.クラークの後を承けて教頭代理となった。1878年2月から、1879年12月19日に離任するまで教頭を務めた。
- 1878
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1878.7.23
■ J.C.カッターと雇用契約
J.C.カッター(John Clarence Cutter, 1851-1909)
雇用期間は1878年9月7日~1887年1月20日で、獣医学や英文学などを教授した。養魚法も講義している。また、医師として生徒の診察にあたった。
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1878.9.
■ 演武場を新築
1879年の札幌農学校
キャンパス(北1~2条、西1~2丁目)のほぼ中央に、大時計を据え付ける以前の演武場が見える。
W.ホィーラーが建築の基本計画を立てた演武場には、1階に教室や博物標本陳列室、2階にホール、屋上に鐘楼があった。ホールでは式典や兵式訓練などをおこなった。
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1878.11.8
■ C.H.ピーボディと雇用契約
C.H.ピーボディ(Cecil Hobart Peabody, 1855-1934)
雇用期間は1878年12月27日~1881年7月31日で、数学や土木学、製図などを教授した。また、天文学を教授し、観象台を管理した。
- 1879
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1879.5.
■ 観象台を新築
1889年頃の札幌農学校
北から、観象台・北講堂(焼失により1889年新たに建て直し)・演武場・寄宿舎。
天文観測施設である観象台は、天文学の学生実習や、演武場の大時計(1881年取り付け)の修正などに使用された。
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1879.12.19
■ D.P.ペンハローが教頭心得に就任離任したW.ホィーラーの後を承け 、1879年12月19日から、1880年8月6日に離任するまで教頭心得を務めた。
- 1880
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1880.6.13
■ J.サマーズと雇用契約
J.サマーズ(James Summers, 1828-1891)の名が記された文書(1881年4月2日)
本科・予科の英語の教授に対しての勤勉手当への礼状である。「ゼームス サンマルス」と表記されている。
1873年に来日し、東京開成学校や大阪英語学校で英文学の教師を務めた。札幌農学校での雇用期間は1880年6月13日~1882年6月12日で、英語を教授した。
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1880.7.
■ 本科第1期生が卒業
本科第1期生の卒業記念
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1880.8.6
■ W.P.ブルックスが教頭心得に就任離任したD.P.ペンハローの後を承け、教頭心得に就任した。1882年の同職の廃止を挟んで、1886年4月~12月に再び教頭心得を務めた。
- 1881
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1881.2.3
■ 森源三が校長に就任
森源三(1836-1910)
開拓権少書記官の森は、1881年2月3日~1886年12月28日に校長を務めた。
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1881.7.
■ 本科第2期生が卒業
本科第2期生の卒業記念
- 1882
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1882.2.8
■ 開拓使の廃止 -
1882.3.8
■ 農商務省の所管となる開拓使の廃止に伴い、札幌農学校は農商務省の所管となった。
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1882.7.
■ 本科第3期生が卒業
本科第3期生の卒業記念
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1882.12.18
■ 井川洌が幹事に就任開拓使・農商務省に出仕した井川は、仮学校の時期から英語を教授していた。1882年12月18日~1886年2月には幹事を務めた。 幹事の職務は、学校の庶務の管理と、校長の不在時の代理であった。
- 1883
- 1884
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1884.7.
■ 本科第4期生が卒業
本科第4期生の卒業記念
- 1885
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1885.3.12
■ H.E.ストックブリッジと雇用契約
H.E.ストックブリッジ(Horace Edward Stokbridge, 1857-1930)
雇用期間は1885年5月17日~1889年1月31日で、化学や地質学などを教授した。
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1885.7.
■ 本科第5期生が卒業 - 1886
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1886.1.26
■ 北海道庁の所管となる北海道庁の設置に伴い、札幌農学校は北海道庁の所管となった。
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1886.3.2
■ 帝国大学令の公布 -
1886.11.
■ 第1期生佐藤昌介が北海道庁長官岩村通俊に意見書を提出
佐藤昌介「米国農学校ノ景況」「札幌農学校組織改正ノ意見」草稿(1886年11月)
アメリカの農学校の財政的な独立性を参考に、農校園の経営によって札幌農学校の維持資金を創出するなどの改革案を示した。
翌年3月、佐藤の意見を採り入れて校則が全面的に改正された。
北海道庁の経費削減の方針により、札幌農学校は厳しい状況にあった。佐藤は米国での調査を踏まえた改革案を提出した。
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1886.12.28
■ 札幌農学校官制を制定農工に関する学術技芸を教授するところと規定した。
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1886.12.28
■ 佐藤昌介が教授に就任佐藤昌介(札幌農学校第1期生)が、卒業生として初めて教授に就任した。
- 1887
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1887.3.8
■ 佐藤昌介が幹事に就任学校運営の責任者を、官吏に代わって教授が担うようになった。
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1887.3.23
■ 工学科を設置
平野他喜松(工学科第1期生)の卒業論文(1891年)
土木工学を教授する修学年限4年の課程として、本科に工学科を設置した。
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1887.3.23
■ 農芸伝習科を付設
農芸伝習科の生徒たち
農業従事者の養成のため、実業の伝習と日本語での農学の教授をおこなう修学年限2年の課程として設置した。
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1887.5.21
■ 学位令の公布 -
1887.7.
■ 本科生(農学科第6期)が卒業 -
1887.11.23
■ M.ヘートと雇用契約
M.ヘート(Milton Haight, 1855-1896)
トロント大学を卒業後、ジョンズ・ホプキンス大学大学院で学んだ。雇用期間は1888年1月23日~1892年8月30日で、英語や物理学を教授した。
- 1888
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1888.7.
■ 本科生(農学科第7期生)が卒業
本科生(農学科第7期)の卒業記念
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1888.9.
■ 本科でドイツ語の教授を開始
ドイツ語を担当した玉井喜作(前列)(1901年)
1888年9月から時間割に「独逸語」が加わり、1891年まで玉井喜作が担当した。
写真は、後年にドイツ留学中の札幌農学校教師たち(後列左から大島金太郎、松村松年、高岡熊雄)とベルリンで撮影したもの。
教官が研究会を設けたり、教授候補者の主な留学先がドイツとなるなど、ドイツの科学技術を導入しようとする動きが進んだ。
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1888.10.29
■ A.A.ブリガムと雇用契約
A.A.ブリガム(Arthur Amber Brigham, 1856-1938)
雇用期間は1888年12月~1893年11月30日で、農学を教授した。
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1888.12.11
■ 橋口文蔵が校長に就任
橋口文蔵(1853-1903)
1881年にマサチューセッツ農科大学を卒業後、開拓使・北海道庁に出仕し、三等技師となった。1888年12月11日~1891年8月15日に校長を務めた。
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1888.
■ 幹事佐藤昌介が文部大臣森有礼に意見書を提出
佐藤昌介「北海道殖民地ニ農学校ヲ必要トスルノ意見」草稿(1888年)
佐藤は、欧米の科学技術を用いた農業の導入や、「屯田兵」士官の養成など、北海道における農学校の有用性を説き、森有礼の理解を得た。
翌年には兵学科が設置された。
文部省による高等専門教育機関の一元的管理を目指す森に対して、佐藤は北海道における農学の教育機関の必要性を訴えた。
- 1889
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1889.7.
■ 本科生(農学科第8期生)が卒業
本科生(農学科第8期)の集合写真(1886年1月)
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1889.9.19
■ 兵学科を設置
兵学科のカリキュラム
兵学科は、農学科の課程を2年間修めた後、1年間の兵学専門の課程を修める学科であった。
1889年、加藤忠治・須田金之助・近藤仙吉郎・中野(柏井)徳一が入学した。
しかし、1891年には廃止が決定していたため、4名は農学科に編入となり、第11期生として卒業した。
兵学科は1896年6月に廃止され、1人も卒業生は出なかった。
「屯田兵」の士官任官志願者を対象として兵学等の教育をおこなう課程として設置した。
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1889.11.4
■ 兵学科別課生が入学
兵学科別課第1期生の学籍簿(1889年12月)と第2期生の学籍簿(1891年5月)
1889年に24名、1891年に18名が入学したが、1892年の第2期生卒業後に廃止となった。
「屯田兵」の下士官経験者を対象として、1年間の課程で士官養成のための教育をおこなった。
- 1890
- 1891
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1891.2.21
■ 廣井勇らが校長橋口文蔵に校名の改称を上申
杉文三・廣井勇「校名改正之義ニ付上申」(1891年2月)
1887年に工学科を設置した後も、校名は「札幌農学校」のままだった。
杉と廣井は、これでは工学科が「副科」にみえると、「札幌農工学校」への改称を提案した。
教官会議に提示されたが、改称はおこなわれなかった。
工学科教授杉文三・廣井勇が「札幌農工学校」への校名改称を提案した。
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1891.7.
■ 本科生(農学科第9期・工学科第1期)が卒業
本科生(農学科第9期・工学科第1期)の卒業記念
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1891.8.16
■ 佐藤昌介が校長心得に就任
校長心得当時の佐藤昌介(1893年)
1891年8月16日に校長心得に就任し、1894年4月12日からは校長を務めた。校長の職務は、官吏の兼任ではなく、教授が担うようになった。
- 1892
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1892.7.
■ 本科生(農学科第10期・工学科第2期)が卒業
本科生(農学科第10期)とW.P.ブルックス・H.E.ストックブリッジ(1888年10月)
帰国を前にした両教授の送別記念。
- 1893
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1893.7.
■ 本科生(農学科第11期・工学科第3期)が卒業
本科生(農学科第11期)の卒業記念
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1893.11.30
■ 外国人教師を廃止札幌農学校を文部省直轄学校とする条件に対応するため、A.A.ブリガムの満期離任をもって、外国人教師を廃止した。
- 1894
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1894.2.23
■ 校長心得佐藤昌介が文部大臣井上毅に意見書を提出
佐藤昌介「農業教育ニ関スル卑見」草稿(1894年2月)
札幌農学校は文部省直轄学校になることが決まっており、教育程度の位置づけが問題となっていた。
佐藤は、帝国大学は学理に、府県立農学校は技芸に偏っているとして、学理に通じ技芸に精しい「農学士」養成の必要を訴えた。
札幌農学校を実業教育の機関としようとする井上に対し、佐藤は学理と技芸を両立することの重要性を説いた。
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1894.4.12
■ 佐藤昌介が校長に就任
1895年4月時点の教員の一覧(部分)
佐藤校長のもと、2期生の廣井勇、宮部金吾、新渡戸稲造、南鷹次郎ら卒業生が教官の中心となった。
1894年4月12日から、1907年9月1日に札幌農学校が東北帝国大学農科大学となるまで、校長を務めた。
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1894.7.
■ 本科生(農学科第12期・工学科第4期)が卒業
本科生(農学科第12期・工学科第4期)の卒業記念
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1894.9.
■ 実科演習を開始
農業経済学教室の教官と学生(1895年4月)
前列は左から佐藤昌介教授、新渡戸稲造教授。2列目は左から成田軍平、高岡熊雄。
3年生以上の学生に対して、実験や演習(ゼミナール)による研究を主体とする、より専門的な教育をおこなうようになった。
- 1895
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1895.4.1
■ 文部省直轄学校となる財政難の解消を主な目的として、文部省の直轄学校となった。その際、文部省は、工学科・兵学科・予科・外国人教師の廃止などを条件とした。
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1895.7.
■ 本科生(農学科第13期・工学科第5期)が卒業
本科生(農学科第13期)の卒業記念
- 1896
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1896.7.
■ 本科生(農学科第14期・工学科第6期)が卒業
本科生(農学科第14期)の卒業記念
- 1897
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1897.5.10
■ 土木工学科を付設
土木工学科第1期の卒業記念(1900年)
土木工学に関する中等教育を授ける修学年限3年の課程として設置した。
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1897.7.
■ 本科生(農学科第15期・工学科第7期)が卒業
本科生(農学科第15期)の卒業記念
- 1898
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1898.1.13
■ 校長佐藤昌介が文部次官菊池大麓に意見書を提出
佐藤昌介「札幌農学校拡張意見書」(1898年1月)
予修科の設置や、専門諸学科(林学科・水産科・商業科・医学科)の新設などを要求した。
1907年までの間に、予修科(1898年)・森林科(1899年)・水産学科(1907年)が実現した。
文部大臣浜尾新から札幌農学校についての意見を求められ、佐藤は農学校の拡張を要求した。
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1898.5.3
■ 予修科を付設
「予修科ノ新設ヲ要スル理由書」(1898年2月)
本科の修学に必要な普通学科を修める修学年限2年の課程として設置した。
予科の廃止により低下した本科卒業年齢は、帝国大学と同一となった。 -
1898.7.
■ 本科第16期生が卒業
本科第16期生の卒業記念
- 1899
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1899.3.22
■ 農芸伝習科を農芸科に改編
農芸科第11期生の卒業記念(1899年)
農芸伝習科を改編して、農事に関する中等教育を授ける修学年限3年の課程とした。
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1899.6.10
■ 服制を制定
「学生々徒服制ニ関スル規程」第一条
各科の学生生徒の制服を規程で定めた。
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1899.7.
■ 本科第17期生が卒業
本科第17期生の卒業記念
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1899.9.11
■ 森林科を付設
森林科第1期生(千葉豊治)の入学願書(1899年)
「入学願/私儀、今般御校森林科ヘ/志願ニ付キ、御許可相成度、別/紙履歴書并ニ入学手数/料壱円也相添ヘ此段奉願/上候也/明治参拾弐年九月廿二日」とある。
林業に関する中等教育を授ける修学年限3年の課程として設置した。
- 1900
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1900.7.
■ 本科第18期生が卒業
本科第18期生の卒業記念
- 1901
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1901.7.
■ 本科第19期生が卒業
本科第19期生の卒業記念
- 1902
- 1903
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1903.3.27
■ 実業専門学校となる「実業学校令」改正によって、札幌農学校は実業専門学校として「専門学校令」(同日公布)の適用をうけることとなった。
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1903.7.
■ 本科第20期生が卒業 - 1904
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1904.3.
■ 服制を改正
札幌農学校の野球部員たち(1905年)
後列中央とその右の学生が「角帽」(上部が菱形の帽子)をかぶった本科生。左2名の「丸帽」と形が異なる。
服制に関する規程を改正して、本科生は角帽着用とし、襟章の装着を定めた。
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1904.7.
■ 本科第21期生が卒業
本科第21期生の卒業記念
- 1905
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1905.3.8
■ 森林科を林学科と改称
林学科第5期生の生徒たち(1903~1906年)
1903年に森林科に入学し、1906年林学科を卒業した第5期生。
宮原朝吉(前列右から3番目)は1906~1908年に札幌農学校助教授・東北帝国大学農科大学林学科助教授を務めた。
-
1905.7.
■ 本科第22期生が卒業 - 1906
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1906.7.
■ 本科第23期生が卒業
本科第23期生の卒業記念
- 1907
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1907.2.1
■ 水産学科を付設
水産学科第1期の卒業記念(1910年)
前列中央が佐藤昌介、その左が1910年当時水産学科主任の藤田経信。
水産学に関する中等教育を授ける修学年限3年の課程として設置した。
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1907.6.22
■ 帝国大学昇格の決定
「東北帝国大学ニ関スル件」(1907年6月勅令第236号)と
「東北帝国大学農科大学官制」(1907年6月勅令第237号)
東北帝国大学を仙台に置き、札幌農学校を東北帝国大学農科大学とする勅令が公布された。
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1907.7.
■ 本科第24期生が卒業
本科第24期生の卒業記念
最新更新日 2021/9/24