エルム街の偉人たち

 


「若い頃でもカウンターに8時間立つと
灰皿一つが重く感じた。8時間労働とは
良く言ったものだよ」と大橋さん(左側が息子さん)
純喫茶「ブラジル’71」 店主
 
大 橋 孝 一(おおはし・こういち)さん


  君と良くこの店に来たものさ……で始まるこの歌は、昭和48年に大流行した「学生街の喫茶店」である。オジサマ族の仲間入りをした私には懐かしい歌の一つだが、ここ学生街に限らず昭和45年から50年頃にかけて、どこでも喫茶店が急増した。しかし、そのブームも昭和55年頃をピークに減少傾向になる。家庭でも手軽にコーヒーを飲むようになったからなのか、経営が厳しくなり店を閉めるところが増えた。 今回の登場人物は、ここエルム街で「純喫茶」一筋に歩んできた「ブラジル’71」(北11西4)のご主人、大橋孝一さん(80歳)だ。
  そもそも大橋さんは旭川で「黄金飴」という道内でも有名な飴玉を小売店などに卸す仕事をしていた。そして、昭和25年に得意先開拓のため、札幌出張所ができたことから、大橋さんはそこをまかされることに。それから10数年が過ぎたある時、大橋さんは,北大病院前にあった「ブラジル」という喫茶店と出会い、そこのコーヒーが気に入り、常連客となる。しかし、突然、経営者が都合で店を閉めることになって、残念に思った大橋さんは、何を思ったか店の権利を買ってしまった。昭和43年のことだ。当時のコーヒーの値段は70円。原価は10数円。「根っからの商人」である大橋さんは,利益率の良さと現金売りに魅力を感じてもいたのだとか。
  昼間は人を雇い店を任せていたが、順調だったこともあり、それから3年後、定年を機に出張所としていた建物を改造し、そこにもう一軒の「ブラジル」を開店した。戦後の苦しい時代は「甘いものが活力の源」だった。それが段々と落ち着き、豊かな時代になると甘いものも敬遠されがちになる。そういう「商人の読み」が飴玉からコーヒーに転換させた。近所に二軒の「ブラジル」があるため、待ち合わせしていた学生が、それぞれ別の店で待っていたということが何度かあり「これじゃ、いかん」と新しい店を「ブラジル’71」とした。もちろん開店した年が1971年(昭和46年)だったからだ。(2軒の店をもったのは3年間ほどでその後’71のみとなる)
  当時は、周りに喫茶店も増えていたが、それでもお客さんはたくさん来てくれた。場所柄、北大生が中心。中でも医学部の51期生は忘れもしないとか。店内はいつも白衣を着た学生でいっぱい。当時の学生はそこで勉強したり、語りあったり、とにかく活気があったようだ。苦学生も多く「サンドイッチの耳は切らないで」と言われたり、腹の減ってそうな学生を見つけては食パンの耳を油で揚げて食べさせた。時には、家に上げて飯を食べさせたり、風呂に入れたこともあったとか。「今の学生は紳士だな。その点、昔は人懐っこい子が多かったよ」活気のあった店内もいつの頃か「ここはマンガ本置いてないの?」と帰っていく時代になる。とうとうマンガ本を置くことにしたが、それから店内は段々と静まりかえっていった。
  現在の店は「昔の学生さん」がカウンターを占める。何十年来の常連さんたちは、今でも活気がある。「政治の話題」が好きな大橋さんを取り囲むように賑やかだ。「道内には理工系の学生が専門を生かせる良い就職先が少ないから、皆が本州に帰ってしまうんだ」と大橋さん。「だけど学生時代に捕まえた嫁さんの実家に、年に一度、盆か正月にやってきては、必ず名物を持参して訪ねてくれるんだ」とニヤリ。
  「ブラジル’71」は外から見ると狭い感じがするが、店内に入ると十分に奥行きがあり意外と広い。ボックス席のシートを除いて、ほとんど昔のままと言われるとおり、懐かしい雰囲気がそこにある。一個所、昔からのシートが残されているのを見つけ、着席した。そのくたびれ加減というか、適度な座部のへこみが妙に歴史を感じさせ、店内に流れる心地よい音楽とともに身をまかせると、おそらくそこに座って熱く語りあったであろう当時の諸先輩の姿が目に浮かぶ。
  大橋さんは諭しかけるようにつぶやいた。「景気の良いのもほどほどでなきゃだめだ。豊かになって預金もできる。ブランド物にこだわってそうでないものは粗末にする。そういう時代が続くのは良いものではない。そこそこがいい。すべての物が豊富になり便利になると人間がおかしくなってしまう。明日食べるために働いて頑張ろう、そのぐらいが精神的に一番いいんだ」
  大橋さんは、数日前まで近くの病院に検査入院をしていた。そんなこともあって、ご家族も常連客も身体の事を気遣ってくれる。「この場所で死ねたら本望だ」と毎日午前中から2時頃までカウンターに入る。今では店の経営をすべてまかせたという息子さん(二郎さん)がいつも近くで見守っている。「コーヒー通にカレーのにおいを嗅がせながら飲ませたくない」純喫茶のこだわりは二郎さんがしっかり受け継いだ。 カウンターからふと遠くを見つめる大橋さんの眼差しに、今でも「人懐っこい客」が来てくれるのを待っているような、そんな気がした。

(夢 一夜) 

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